授業づくりJAPANの「日本人を育てる授業」

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服部剛の道徳4 「戦場の知事・島田叡」

★「文科省学習指導要領」中学道徳「内容4 主として集団や社会とのかか
わりに関すること」の「(4)自己が属する様々な集団の意義についての理解
を深め,役割と責任を自覚し集団生活の向上に努める」について学ぶ授業です。

この授業はブログ「授業づくりJAPAN横浜《中学》『日本人を育てる歴史と道徳』
(服部剛代表)にご本人が書いています。授業の記録も挿入しながら、たいへん
わかりやすく書かれています。ぜひこちらもご覧ください。URLは以下の通りです。
http://jdjapany.blog.fc2.com/

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 道徳ノート No.     組  番 氏名(             )

        「役割と責任」

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1.みんな毎日、忙しく学校生活を送っていますが、気がのらない仕事もあり
ますか? 
「自分がなりたくてなった係じゃない」とか「何で自分がやらなくちゃいけ
ないの」とか…。
  また「こんなこと、自分にはできそうもないよ」という仕事を任されること
もあるでしょう。

 ●こんな時、あなたはどうしていますか?

 
 ──────────────────────────────────

 ●その理由は?


 ──────────────────────────────────


→【資料1】へ




2.【資料1】で、あなたが島田叡(あきら)だったら、何と答えますか?


 ──────────────────────────────────


→【資料2】で確認しよう




3.【資料2】を読んで、島田知事の持ち物から、何がわかりますか?


 ──────────────────────────────────



→【資料3】【資料4】へ




4.【資料3】と【資料4】を読んで、島田知事の行動をどう思いましたか?


 ──────────────────────────────────


→【資料5】へ




5.島田知事が、人に請(こ)われると好んで書いた字があります。
  漢字一字で書いてみましょう。

  
  ────


  ●この字はどういう意味でしょうか?
 島田知事の行動に照らして、考えてみましょう。


 ──────────────────────────────────




6.今日の勉強を通して、学んだことや感想を書きましょう(足りなければ裏へ
 どうぞ)。


──────────────────────────────────

────────────────────────────────── 

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■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■


    【道徳資料】「戦場の県知事・島田叡(あきら)」


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沖縄戦地図

合掌の碑

◆大東亜戦争での沖縄戦では、多くの人が犠牲になりました。
県の各地には写真のような大きな慰霊碑が数多く建てられています。



【資料1】────────────────────────────── 
 大東亜(だいとうあ)戦争(太平洋戦争)の末期、日本は戦況が悪化し、沖縄県
も空襲をうけるようになりました。

 沖縄県知事の泉(いずみ)守紀(もりのり)氏は空襲を恐れ、あちこちに県庁を
移転させたので行政が滞っていました。また、住民の疎開や食料の搬入を進め
る政府や軍にも非協力的でした。とうとう泉知事は出張と称して本土に出かけ、
そのまま沖縄に帰ってこなかったのです。

内務省では、後任の知事を誰にするか困ってしまいました。
 なぜなら、まもなくアメリカ軍の沖縄上陸が確実だったので、引き受ける人
物がいなかったからです。

そこに、沖縄守備軍の司令官・牛島満(みつる)中将から「ぜひ島田叡(あきら)
君を」との指名がありました。

島田叡とはこんな人です
080316_01.jpg


島田叡は兵庫県神戸市出身。内務省のエリート官僚です。中学から東京大学ま
で野球選手として活躍し、勉強とスポーツを両立させた秀才でした。当時43歳の
島田は、大阪府に務めていました。島田は以前から牛島中将と親交があり、深く
信頼されていたのです。

昭和20(1945)年1月11日、府知事から呼び出された島田は、「沖縄県知事になっ
てほしい」と要請されました。


┌────────────────────┐
│あなたが島田叡だったら、何と答えますか?  │
└────────────────────┘


→ 道徳ノートの2へ



【資料2】─────────────────────────────── 

 島田は即答しました。

「私が行きます」。

府知事は「君、家族もあるのだから、三日ほどよく考え、相談した上で返事して
も良いんだぞ。断っても良いんだぞ」と言いました。しかし、島田は

「いや、これは、妻子に相談することじゃありません。私が決めることです」

と答えたといいます。
自宅に帰って、妻に「朝から何か良いお話でしたの?」と聞かれた島田は

「沖縄県知事の内命やった。もちろん引き受けて来たわ」

と落ち着き払って答えました。
驚いた妻の「なぜ、あなたが!?」との問いに、島田はこう言いました。

「誰かが、どうしても行かなならんとなれば、言われた俺(おれ)が断るわけには
いかんやないか。俺が断ったら誰かが行かなならん。俺は行くのは嫌やから、誰か
行けとは言えん」

 「これが若い者なら、赤紙(召集令状)一枚で否応(いやおう)なしにどこへでも行
かなならんのや。俺が断れるからというので断ったら、俺は卑怯者(ひきようもの)
として外も歩けんようになる」

のちに島田はこうも言っています。

「牛島さんから赴任(ふにん)を望まれた。男として名指しされて断ることはでき
へんやないか」

こうして、1945年1月31日、島田叡(あきら)は沖縄県知事として単身、赴任(ふに
ん)しました。
島田の荷物はトランク2つだけ。中には衣服と茶道具、愛読書数冊、薬。そして、
ピストル2丁。胸ポケットには青酸カリが入っていました。


→ 道徳ノートの3へ



【資料3】─────────────────────────────────
 
 過酷な運命を覚悟した上での赴任(ふにん)でした。県庁の職員を前にした島田知事
の挨拶(あいさつ)は次のようなものでした。

「本当の奮闘はこれからだ。一緒になって共に勝利への道に突進しよう。無理な注文
かもしれないが、まず元気にやれ。明朗にやろうじゃないか。私が万一、元気を無くし
たら強くしかってもらいたい。これからは知事も部長も課長も思い切ったことを言い、
創意と工夫を重ねて良心を持ってやろう。そして力一杯、早くやることだ」

 これを聞いた職員の多くは「この長官は自分たちを捨てていかない。この人になら最
期(さいご)までついていける」と思いました。

 ある人から「泉(いずみ)知事は逃げてけしからん。知事さんも大変ですね」と言われ
た島田知事は、

「人間、誰でも命は惜しいですから仕方がないですね。私だって死ぬのは恐いですよ。
しかし、それより卑怯者といわれるのは、もっと恐い。私が来なければ、誰かが来ない
といけなかった。人間とは運というものがあってね」

 と、前の知事の悪口は一言も言わなかったといいます。
 島田知事は軍との協力に努め、遅れていた県民の疎開を推進しました。その結果、
約16万人の県民の命が救われることになります。
 また、食料・医薬品等を確保し、台湾から約3600トンもの米を運びこみました。
やがて県民は知事に深い信頼の念を抱くようになっていきます。
 また、たびたび農村を視察した島田知事は、勝利を信じてひたすら軍に協力する
住民が不憫(ふびん)でなりませんでした。

 「アメリカ軍が上陸すれば、どうなるのか…。少しでも楽しい思いをさせてやり
たい」

 島田知事は酒の増配を実施し、禁じられていた村の芝居(しばい)も復活させて県
民を楽しませました。
 この知事のためなら死んでもかまわないと思った県民も多かったといいます。




【資料4】────────────────────────────────
 
 3月に入り空襲が始まると、県庁を首里に移転し、地下壕(ごう)の中で仕事をするよう
になります。
 壕内はかなり暑く、天井は鍾乳石(しようにゆうせき)がむき出しで、頭がぶつかりそう
な低さでした。
 職員全員が家族を疎開させ、想いを断ち切って、県民のために尽くそうとしました。

 この頃には島田知事の姿勢が職員にも浸透していたのです。
 ある日、女子職員が島田知事に顔を洗うように勧めると

「お前が命懸けで汲んできた水で顔が洗えるかい」

と言い、他の職員と同じように米の研ぎ汁を浸した手拭いで顔を拭っていました。

アメリカ軍が上陸し、「ありったけの地獄を一つにまとめたような戦い」といわれた激戦
が続きました。多くの命が失われ、軍・民ともに沖縄本島南部に追い詰められていきました。
行政は無力になり、県庁も崩壊しました。

「知事さんは県民のためにもう十分働かれました。文官なんですから、最後は手を上げて、
出られてもよいのではありませんか」

と提案された島田知事はこう言いました。

「君、一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね? 沖縄の人がどれだけ死んでいる
か、君も知っているだろ」とその責任感はまったく衰えませんでした。そして、

「それにしても、僕ぐらい県民の力になれなかった県知事は、後にも先にもいないだろうなあ。
これは、きっと末代(まつだい)までの語り草になると思うよ」

と県民を守り通せなかったことで自分を責めていたといいます。

いよいよ最期の時が近づきました。島田知事は、女子職員に「僕たちはこれから軍の壕に行く。
君たちには(米軍は)どうもしないから、最後は手を上げて出るんだぞ」と言いきかせました。

それを聞いた女子職員は、
「悔しくて、悔しくてたまりませんでした」と語っています。

その後、激戦のなか、軍の壕を目指して出て行った島田知事は永遠に消えてしまいました。
その遺体は今もって不明のままです。


→ 道徳ノートの4へ



【資料5】────────────────────────────────────── 

昭和47年、島田知事の最期(さいご)を目撃した人が名乗り出ました。
当時、分隊長だった山本初雄さんによると、摩文仁(まぶに)の海近くの壕で

 「島田知事は頭を奥にし、体の左側を下にしておられた。『負傷しているんですか』ときくと、
『足をやられました』と言われた。知事さんが『兵隊さん、そこに黒砂糖がありますからお持ちな
さい』と言った。何も食べ物がない時ですよ。偉いと思います。・・・翌日、壕を訪ねると亡くな
ったという。壕に入ると膝(ひざ)のそばに拳銃があった。右手から落ちたような感じで『ああ自決
したんだなあ』と思った。合掌して壕を出ました」。

 終戦から6年後の昭和26(1951)年、県民からの寄付によって、島田知事と亡くなった県職員453名
の慰霊碑が、摩文仁(まぶに)の丘に建てられました。その名も「島守(しまもり)の塔」。
 島田知事が在任したのは、たった5ヶ月足らずです。しかもそれは地獄の日々でした。
 しかし、「島守の塔」は今でも参拝する人びとでお線香の煙が絶えることはありません。
 戦場での県民保護に全力を挙げ、43歳で摩文仁(まぶに)の丘に散った島田知事。毎年6月22日には
慰霊祭が行われています。

→ 道徳ノートの5


★上の写真が「島守の塔」。
 島田知事は誰言うともなく「沖縄の島守」と呼ばれるようになりました。
 沖縄の土となって、今でも島を守ってくれている、と 沖縄県民は信じているのです。

■参考図書 ~興味を持ったら読んでみよう。
・田村洋三『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり』
・浦崎純『沖縄の決戦』



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     【道徳ノート解説】「役割と責任」

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1.みんな毎日、忙しく学校生活を送っていますが、気がのらない仕事もあり
ますか?
 「自分がなりたくてなった係じゃない」とか「何で自分がやらなくちゃいけ
ないの」とか…。
  また「こんなこと、自分にはできそうもないよ」という仕事を任されること
もあるでしょう。

 ●こんな時、あなたはどうしていますか?

 
 ──────────────────────────────────

 ●その理由は?


 ──────────────────────────────────


→【資料1】へ




2.【資料1】で、あなたが島田叡(あきら)だったら、何と答えますか?


 ──────────────────────────────────


→【資料2】で確認しよう




3.【資料2】を読んで、島田知事の持ち物から、何がわかりますか?

   決死の覚悟
 ──────────────────────────────────



→【資料3】【資料4】へ




4.【資料3】と【資料4】を読んで、島田知事の行動をどう思いましたか?


 ──────────────────────────────────


→【資料5】へ




5.島田知事が、人に請(こ)われると好んで書いた字があります。
  漢字一字で書いてみましょう。

    断
  ────


  ●この字はどういう意味でしょうか?
 島田知事の行動に照らして、考えてみましょう。

  決断   断固行う   迷いを断つ  など
 ──────────────────────────────────




6.今日の勉強を通して、学んだことや感想を書きましょう(足りなければ裏へ
 どうぞ)。


──────────────────────────────────

────────────────────────────────── 

────────────────────────────────── 

──────────────────────────────────

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【授業の解説】
「沖縄の島守(しまもり)」戦場の県知事・島田叡(しまだあきら)


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・指導項目:役割と責任 

・ありったけの地獄を一つにまとめたような戦いといわれる沖縄戦において、
島田叡は、県知事として何を考え、どのような行動をとったのか?

・わずか5ヶ月足らずの島田叡の行動が、「沖縄の島守」として、現在に至るま
で多くの県民に慕われ続けているのはなぜなのか?

《エピソード(補)》

■佐賀県警察部長時代(30代半ば)。

西郷隆盛の勉強会にて、西郷が桐野利秋の質問「偉い人とはどんな人ですか」
に答えた言葉を生涯の修養の目標にした。

 西郷「偉い人とは、大臣であるとか大将であるとかの地位ではない。
    財産の有無ではない。一言につくせば、後ろから拝まれる人だ。
    死後、慕われる人だ」
  ↓
これを聞いた島田は、先生に…

 島田「今夜は本当に痛棒を喫しました。中学時代から野球選手としてチヤホヤ
    されていい気になり、大学卒業後は官吏となって部下から頭を下げられ
    てうぬぼれていました。泡のような人気、煙のような権力の地位、今後
    こうした臭みを一掃して、真の自己完成に精進します」

  ↓

 島田は死して「島守の神」となり、本当に「後ろから拝まれる人。死後、慕われ
る人」になったのです。

■座右の書は『南洲翁遺訓』と『葉隠』 →沖縄赴任の際に持参した本。

■沖縄を守るために最期まで壮絶な戦いを指揮し、沖縄の土となった牛島中将も西郷
 に私淑していた。

 →上海総領事館警察部長時代の島田と知り合い、肝胆相照らす仲だった。

→今、沖縄県知事をやれるのは「島田君しかいない」との確信を持って、知事に要請
  した。

■島田がいつも部下に語った言葉

  「人間、アホになれたら一人前や」
  「アホの勉強、忘れなよ」

         →アホだから常に勉強だということでしょう。

合掌の碑

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2016/02/10 (Wed) 17:17 | # | | 編集
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2016/02/18 (Thu) 16:14 | # | | 編集

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