授業づくりJAPANの「日本人を育てる授業」

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黒船が来た


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【おわび】
前回12/18日に更新した後、発行人が病気になってしまいました。長い間更新できず申し訳ありませんでした。
退院はしましたが、まだ療養中であり、思考・集中・気力において不十分ですので、当分の間十分な更新はできないと思われます。すばらしい授業はたくさんあってとても残念なのですが、もうしばらくご容赦いただけますようお願い申し上げます。

■引き続き横浜の安達弘さんの授業をお届けします。安達さんは授業づくりJAPAN小学校の部のエースです。とくに人物中心の歴史授業ではこの人の右に出る教師はいないと思います。理論家でもあります。
ブログ「授業づくりJAPAN YOKOHAMAプライマリー」ではもう大東亜戦争まで来ています。是非ブログもごらんください。
授業づくりJAPAN YOKOHAMAプライマリー

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             黒船が来た

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第2時である。
 ペリーの黒船来航を扱う。
「前回の学習でオランダ風説書がアメリカのペリーが来ることを予告していましたね。ついにやって来ました」
 

<ワークシート・1ページ目>

★ペリーの黒船来航
 1853年の6月。
 予告されたとおりアメリカの巨大な黒船4せきが江戸湾に近い浦賀にあらわれました。この絵を見て気づいたことを書き出してみましょう。

黒船

黒船2
1853年
サスケハナ号

 画像右手の黒船について
「船から煙が出ている」
「国旗みたいなものがついている」
「外国の船の方が何倍も大きい」
「横に水車みたいなものが着いている」
 当時のエンジンは石炭を燃やして、そこから出る蒸気の力で動く蒸気船であることを教える。
日本の小舟との大きさの比較は大事な気づきである。
 画像左手の海岸周辺について
「たくさんの人や舟がある」
「青いもので囲まれている」
「兵隊?らしき人がたくさん並んでいる」
「日本の小舟は34隻」
「日本側は厳重な警戒」
 船の大きさの違いも重要だが、幕府側は戦闘態勢にあったことをイメージしてほしい。
決して友好ムードで黒船と対峙しているわけではない。
 次のワークシートの設問(1)で4隻はすべて「軍艦」であり「大砲」を摘んでいることに着目させる。商船ではないのだ。


<ワークシート・2、3ページ目>

(1)この4隻の黒船のデータを見てみましょう。

│   船名       │    種類   │  大砲 │  定員  │  積載トン  │
│ 1. サスケハナ号 │ 側輪蒸気軍艦 │   9 │  300人 │  2450トン │
│ 2. ミシシッピー号│ 側輪蒸気軍艦 │  12 │  268人 │  1692トン │
│ 3. プリマス号   │   帆走軍艦  │  22 │  210人 │  989トン  │
│ 4. サラトガ号   │   帆走軍艦  │  22 │  210人 │  882トン  │

  ※この4隻の船に共通していることは何ですか?

(2)アメリカ大統領からの手紙を読んでみよう
 この時、ペリーは幕府へ大統領からの手紙を渡しました。
 そして「来年また来るのでその時に返事を下さい」と言って4日後に帰っていきました。その手紙を読んでみましょう。
┌──────────────────────────────────────┐
│  日本の皇帝へ

│ ①アメリカの船が故障したり台風のために日本に避難が必要なときは乗組員の命
│  と財産を保護してほしい。
│ ②アメリカの船が燃料や水、食料が必要なときや修理しなければならないときは
│  日本の港をいくつか利用できるように許可してほしい。また、日本の近くの無
│  人島を石炭の貯蔵所にしたい。
│ ③日本と貿易をしたいのでいくつかの港を利用できるように許可してほしい。

│   アメリカ大統領 フィルモアより
└──────────────────────────────────────┘
※幕府がいちばん困ったのは①②③のうちどれでしょうか?

★日米和親条約
 翌年の1854年。今度は黒船12隻をひきつれて、ペリーが再び来航しました。
 このときに日本はアメリカと日米和親条約を結びました。この条約で下田と函館の2港を開くことになり、ついに鎖国は終わったのです。

1854年①
久里浜上陸

1854年②
久里浜上陸


★日米修好通商条約
4年後の1858年。アメリカ総領事のハリスと何度も話し合って日米修好通商条約を結びました。今度は横浜・神戸・長崎・新潟・函館の5港を開きました。
 この条約は以下の点で日本側に不利な不平等条約でした。
┌──────────────────────────────────────┐
│ ①日本は治外法権を認めた
│ 日本で犯罪を犯した外国人を日本の法律で裁けないので、外国人に有利な判決
│ が下されてしまう。
│ ②日本には関税自主権がない
│ 外国の安い製品に税金がかけられないので、日本の製品が売れなくなり、日本
│ 国内の産業がつぶれてしまう。 │
└──────────────────────────────────────┘
日本は、これとほぼ同じ内容でオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも条約を結びました。
巨大な軍事力を持つ西洋の国々が相手では不平等な条約を結ぶしかなかったのです。

★当時の武士たちはどう思っただろうか? 
この時代の武士はこんな考えを持っていました。

□すべての武士の共通点は「尊王攘夷」だった
*尊王(そんのう)・・・日本でいちばん偉いのは天皇である。
*攘夷(じょうい)・・・西洋人に侮られたくない。ぜったいに負けないぞ!

□意見がちがう武士たちの対立点は2つある
①開国して外国人とつきあうべき(開国)⇔ 西洋人は斬り殺してしまえ(小攘夷)
②リーダーは天皇とそれを助けるやる気のある藩だ(倒幕)⇔ 
                 リーダーは天皇とそれを助ける幕府だ(佐幕)

□(1)と(2)を考えると次の4つの意見に分かれます。
┌──────────────────────────────────────┐
│ A:幕府を守り、開国して西洋人とつき合おう
│ B:幕府を倒し、開国して西洋人とつき合おう
│ C:幕府を守り、西洋人を追い出そう
│ D:幕府を倒し、西洋人を追い出そう
└──────────────────────────────────────┘

 当時の武士になったつもりで、あなたの意見を書いてみましょう。後でみんなで話し合ってみましょう。
 4つの選択肢の分布は以下のようになった。

 A・・・1組 9人 2組 7人
 B・・・1組11人 2組10人
 C・・・1組 6人 2組10人
 D・・・1組 1人 2組 1人

代表的な意見を紹介したい。
*A
「幕府は家康様が開いて続いてきたものだ。絶対に守り抜く。そして、西洋人ともつきあう。戦争して植民地になるぐらいなら、つきあって貿易して日本を発展させたい。もっともっと強くなってから追い出せばいい」
「参勤交代の制度もあって幕府を倒すことはできない。西洋人を追い出すと戦争になってしまう」
「西洋人を追い出そうとして戦いが起こったら勝てないし、幕府を倒そうとすると日本の中で戦争が起こってしまう」
「幕府を倒してしまったら日本を制御できないし、西洋人とつきあえば科学が発展すると思う」

*B
「幕府は200年間も鎖国を続けてきたから開国はすぐに認めないと思う。でも、このままだと西洋との差がどんどん広がってしまうから開国する気のない幕府を倒して、やる気のある藩と開国を進めたほうがいい」
「いまの幕府は力がないし、日米修好通商条約を勝手に結んじゃったから倒すべき。西洋人を追い出そうとしてもアメリカやイギリスの方が強いから攻撃されて日本が滅びてしまう」
「もう幕府は信用ならないから倒す。外国とつきあいながら少しずつ軍事力を付けていき不平等条約を改正する。戦争になったら外国からもらった新しい武器で戦う」

*C
「幕府がいなかったら日本はまとまらない。貿易したら外国の安い製品が入ってくるから日本の商売はつぶれてしまう」
「幕府はまだ大切だから守っておくべきだ。西洋人のいいなりになったら日本は商売がだめになる。だから西洋とは離れた方がいい。西洋には勝てないかもしれないが、このままだとだめだから追い出すべき」
「今まで江戸時代はうまくいっていた。苦しいと思った人は少ないと思う。もし、開国したら植民地になってしまうと思う」

*D
「幕府は日本に不平等な条約を結んだから倒す。こんな条約を結んだら外国人に好き勝手にやられてしまうから追い出さないと困る」

 開国派が多いのはわかるが、倒幕派と佐幕派を比べると佐幕派の方がやや多いのは興味深い結果である。
これまでの江戸時代の学習により、パックストクガワーナ(江戸時代の平和)は子どもたちの中に印象深く残っているようである。
 また、小攘夷派も意外にたくさんいる。
やはり、不平等条約への怒りは子どもたちも当時の武士と同じようである。



<ワークシート・4ページ目>

★江戸時代の終わりごろの日本はどうなっていたのか?

 江戸時代の終わりごろを「幕末」と言います。では、「幕末」はどんな時代だったのでしょうか。

①日米修好通商条約を結ぶときに幕府は天皇の許可をもらおうとしました。
しかし、天皇は西洋人が日本に住むことや港を開くことには反対していたので許可がもらえませんでした。
このため、開国派よりも、幕府に反対する小攘夷派の意見が強くなっていきました。

②ところが、幕府の大老・井伊直弼(いいなおすけ)は天皇の許可なしで条約を結びました。
そして、これに反対する者を次々と逮捕したり、処刑しました。
これを「安政の大獄」と言います。これで、今度は佐幕派の意見が強くなりました。

③しかし「安政の大獄」に怒った武士たちは、江戸城に入る途中の井伊直弼を桜田門の近くで襲撃して暗殺しました。
これを「桜田門外の変」と言います。これによって再び幕府に反対する意見が盛り上がりました。

④そこで、幕府はまきかえしをはかるため「天皇と幕府が協力しましょう」という「公武合体」を進めました。
天皇も賛成したので、またもや幕府は力を盛り返しました。
 
このようにめまぐるしく変化する中で、日本を大きく変える力になったのが「雄藩」と呼ばれる大きな藩です。
とくに次の3つの藩は大きな役割を果たし「志士」と呼ばれて大活躍する武士がたくさん生まれました。

*薩摩藩(いまの鹿児島県)の西郷隆盛・大久保利通

*長州藩(いまの山口県)の吉田松陰・桂小五郎(木戸孝允)・高杉晋作・伊藤博文

*土佐藩(いまの高知県)の坂本龍馬
 などです。

なお、幕府にも勝海舟というすぐれた人物がいました。
この後はこうした人物を通して学習を進めましょう。
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