授業づくりJAPANの「日本人を育てる授業」

わたしたちは誇りある日本人を育てたい。真の国際派日本人を育てたい。

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読者の声がすごい!服部剛『先生、日本てすごいね』(高木書房)

発売後1ヶ月、「すばらしい!」「感動した!」の声が止まりません。
そこで、今回は読者のレビューをお届けします。


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電車の中では読めません

楽しみにしていた服部先生の新刊が手元に届きました。
どのお話も、感動し、また子供たちの感想を読むと、これが真の道徳教育であり、平和教育なんだと感激しました。
最初は、電車の中で読み始めましたが、読んでいると感動で涙が溢れて、とても公の場所では読めません。でも、皆にこのような素晴らしい本があることを知ってもらうためには、どんどん公の場所で、本を広げて読みたいです。
本当にこのような授業を日本中の先生が子供たちにして下さったら、日本の子供たちは、とても素晴らしい大人に育ってくれるだろうと思います。祖国に誇りを持ち、堂々とした国際人となってくれると思います。良いご本を出版していただきありがとうございました。


こどもも、大人も!感動の授業

中学生という多感な時期に、こういった道徳授業を受けられた生徒たちはなんて幸せなんだろう。
朝日新聞の記事から始まる自衛隊機墜落の事故についての授業。
授業のおわりに、「ではこれらをふまえて、君たちならどういう見出しの記事にする?」という試みはとても面白い!また生徒たちの作る見出しの素晴らしいこと。
すべての授業が、涙無しには読めない素晴らしい内容でした。
私も自分の子たちに読んできかせようと思います。
そして、この本を読んで、中学教師の採用試験にチャレンジしてみようと思いました。
もうイイトシですが、こういう授業をしたい!


魂が揺さぶられる実在の人生ドラマです。感動の涙、涙が溢れました・・・。

人生に自信が持てない人、大きな壁にぶつかっている人、日々の生活に喜びを感じられない人、悔いのない人生を生きたいと思っている人、この本に出てくる登場人物と出逢ってください。人間が本来持っている人間としての素晴らしさに、あなたの共感脳が、心からの感動・感激・感銘の気持ちを引き出してくれることでしょう。


こんな教師がいる限り、日本人の精神は決して亡びることはない。

 横浜市内の公立中学校で道徳の授業を受け持つ著者が、日本人の優れた心性やそれに触れた外国人との感動の物語などを紹介し、生徒たちに考えさせる授業の内容を公開した一冊。いじめや学級崩壊など、教育現場からは何かと芳しくないニュースが多く伝えられる中、これほどまでに生徒たちのことを真摯に思い、また、これほどまでに生徒たちを惹き付け、自己犠牲や他者への思い遣りなど、日本人ならではの美徳を子供たちの胸に刻もうとする教師が今時いたのかと、失礼ながら、驚きを禁じ得なかった。同時に、毅然とした生き方を貫いた数多くの日本人の姿に、繰り返し溢れる涙を到底抑えることが出来なかったし、授業を受けた後の生徒たちの感想文にも、何度も胸を打たれた。こんな教師がいる限り、日本の教育現場と将来は決して捨てたものではない。そんな力強い思いが胸中に湧き起こった。
 多くの人が同様なのではないかと推察するが、本書を読んでいて最も目を惹かれたのは、スズメバチに全滅される西洋ミツバチと、団結してスズメバチを撃退する日本ミツバチの生態の違いを説明した第15章である。まさか日本ミツバチが、集団で団結して大きな力を発揮することを、同じ土地に住む人間から教わったということはないであろうから、単なる偶然だとは思うが、日本人の特性が日本に住む昆虫にまで見られるというのは何とも面白い話である。
 翻って思う。日本人が古来から受け継ぐこれほどまでに顕著な美質も理解できず、「侵略された。」だの「搾取された。」だのと事実無根を叫んでいるあれらの隣国は、一体どこまで浅ましい国々なのだろう。恥を恥とも思わぬとは、まさにこのことである。また、日本人のこのような美質を必死に否定し、日本を貶めようと躍起になっている、日教組を中心とする反日左翼の歪んだ心情を思うと、そこまで虚しい奮闘を重ねなければ気が済まない彼らの大いなる行動力には、ただただ頭が下がる。


武士道精神に溢れた先人たち

他で読んだ話もあったが、多くが初めて聞く話で、何故こんないい話が埋もれていたのか、と驚かされることばかりだった。

最初は大東亜戦争末期、沖縄県知事として住民とともに奮闘した島田叡を散り上げ、「役割と責任」を考えさせている。
前知事が逃げてしまい、後任を引き受ける人物がいなかったため、昭和20年1月、神戸出身で当時大阪府に勤務していた島田に、「沖縄県知事になってほしい」との要請が来た。間もなくアメリカの上陸が確実だったため、生きて帰ることは出来ない任務だったが、島田は即答で引き受けた。「誰かがどうしても行かなならんとなれば、断るわけにはいかん。死ぬのは恐いが、卑怯者といわれるのはもっと恐い」。そして拳銃と青酸カリを持って赴任した。二度と生きては帰らぬ決意を秘めての赴任だった。
島田知事は軍との協力に努め、遅れていた県民の疎開を推進し、その結果、約16万人の県民の命が救われたという。
アメリカ軍が上陸し、追い詰められ、「知事さんは県民のためにもう十分働かれました。文官なんですから、最後は手を上げて出られてもよいのではありませんか」と提案された時、島田知事は「一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね。沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろう」とその責任感は全く衰えなかった。最期は、職員たちに別れを告げ、一人で壕に向かったという。
わずか5ヶ月足らずの在任だったが、「沖縄の島守」として多くの県民に慕われ、今も慰霊碑を訪れる人が絶えることはない。

ポーランドやトルコの恩返しの話もよかった。
第1次世界大戦後、ポーランドはプロイセン・ロシア・オーストリアから独立したが、シベリアに流刑されていた10数万人のポーランド人は帰国ルートがなく、飢餓と伝染病に苦しんでいた。救済委員会はヨーロッパやアメリカの政府に救援を依頼するが、欧米諸国はことごとく拒否し、唯一手を差し伸べた国が日本だったという。
日本赤十字社と日本陸軍の兵士らは酷寒のシベリアの地に入り、すぐに56名の孤児を東京の宿舎に届け、3年間で765名の孤児を救い続けた。飢餓と重い伝染病で衰弱しきっていた孤児たちを、看護婦がつきっきりで看護した。もはや手遅れと思われた少女に、若い看護婦が毎晩ベッドで添い寝をした結果、少女は奇跡的に命を取りとめたが、その看護婦は腸チフスに感染して死亡したという。
そうして健康を取り戻した孤児たちを祖国ポーランドに送り返す時、孤児たちは親身に世話をしてくれた日本人と別れることを泣いて嫌がったという。孤児たちは日本語で「アリガトウ」を繰り返し、「君が代」を斉唱したという。
「いつか恩返しをしたい」と考え続けていたポーランド人が、阪神淡路大震災と東北大震災で痛手を受けた子供たちをポーランドに招待した。多くの生徒がポーランド人の恩義の深さに驚き、感激したという。
トルコは明治時代の1890年、和歌山県の沖で遭難したトルコの軍艦の乗組員を村人が総出で命懸けで救助した話を、教科書に載せて子どもたちに教え続けている。そのため、国民の9割近くが「最も好きな国」として日本を選んでいるという。
1985年、イラクとイランの戦争のさなか、イランのテヘランに取り残された日本人500人を、トルコ航空機がイラク軍の攻撃開始のわずか1時間前に救出した。トルコ航空の搭乗員は危険を冒してまで、他国民である日本人を救助したのである。先人たちの偉大な行いが後世の日本人を救ったのである。

大東亜戦争初期の昭和17(1942)年2月、イギリスの戦艦2隻が沈没し、400人以上の乗組員が漂流していた。この時、偶然通りかかったのが日本海軍の駆逐艦「雷」だったが、敵の潜水艦が行動している水域で人命救助するのは危険な行為で、しかもこちらの乗組員はわずか150人で漂流者よりずっと少なかった。「雷」の艦長は悩んだが、救助を決断し、部下の日本兵は総力をあげて救助に当たった。重油や汚物にまみれたイギリス兵を、日本兵は汚れを拭き取って親身に世話をした。敵に助けられたイギリス兵の一人フォール氏は感激して、艦長への恩をずっと忘れず、戦後、艦長の消息を探し続けた。艦長が既に亡くなっていることを知った後も遺族や関係者に会ってお礼を言いたいと探し続けた。
「雷」の乗組員のほとんどがその後戦死したため、この話は知られていなかったが、2003年にようやく遺族が見つかった。そして、平成20(2008)年12月、艦長の「墓前祭」が開催された時、フォール氏は89歳の高齢で心臓病を患い、医者から止められていたにも拘わらず、艦長の墓を訪れた。車イスに乗っていたフォール氏が墓前に来ると、「座ったままでは失礼」と、介助の人に助けられながらなんとか立ち上がって手を合わせたという。
日本の武士道と英国の騎士道があったからこその話である。

終戦直後、幼い弟の遺体を背負って焼き場に来た9歳位の少年の、ピシッと背筋を伸ばし、悲しみを抑えた険しい表情は、神聖といっていいほどだった。これほどまでピシッとした姿勢を取れる日本人が今いるのだろうかと思った。
写真を撮ったのは、日本に敵愾心を持っていたアメリカの若い軍人で、彼は敗戦直後の日本の調査を命じられ、長崎にやって来た。日本の敗戦を「ざまあみろ」と喜んでいたこのアメリカ青年は、この少年の姿に衝撃を受け、また他の日本人の礼儀正しさにも驚き、「原爆は決して落とすべきではなかったと死ぬまで言い続けるつもりです」と語っている。

ユダヤ人にビザを発行して多くのユダヤ人の命を救った杉原千畝の偉業は近年よく取り上げられるようになったが、ユダヤ人を救ったのは彼だけではない。
昭和13(1938)年3月、満州のハルビンで勤務していた樋口季一郎少将は、満州とソ連の国境に辿り着いた2万人のユダヤ難民が満州国に入れてもらえず、吹雪の中、野宿同然で凍死しかかっていることを知る。彼らを助ければ、友好国ドイツの政策に逆らうことになり、職を辞すことになるかもしれなかったが、樋口少将は難民受け入れを決意し、すべてのユダヤ人を救出した。
数週間後、ドイツ政府から抗議文が送られ、東条英樹参謀長から呼び出された樋口少将は、「ドイツは日本の同盟国ですが、そのドイツのやり方がユダヤ人を死に追いやるものなら、それは人道上の敵です。そんなものに協力するなどゆゆしき問題です。日本はドイツの属国にあらず。言いなりになってはいけません」と答えた。そして東条参謀長は、「君の主張は筋が通っている。中央に対し、この問題は不問に付すよう伝えておこう」と言い、ドイツからの抗議を一蹴した。
その後も続々と押し寄せるユダヤ人のために、満州鉄道は無料で輸送を続けた。この既成事実があったからこそ、杉原ビザは生きたのである。
また、戦時中、ビザが無いユダヤ難民でも上陸できたのは、世界で唯一、日本海軍が占領していた中国の上海だけだった。ここに押し寄せた18,000人のユダヤ難民を犬塚惟重大佐が保護した。犬塚大佐が転勤した後、ドイツは「ユダヤ人を引き渡せ」と迫ったが、上海の日本領事や軍人たちは断固拒否し、終戦までユダヤ人たちを守り通したという。
日本のマスコミや教科書は、杉原氏のことはよく紹介するが、樋口氏や犬塚氏のことはまったくと言っていいほど取り上げない。これは彼らが軍人で、戦後の日本には軍人を誉めることをタブーとする空気があるからである、と著者の服部氏は述べている。

涙が出そうな話ばかりで、先人たちの武士道精神に感嘆させられるばかりだった。こんな素晴らしい先人がいたからこそ、日本は世界で評価されているのだと思った。授業を受けた中学生らの感想の声もよかった。
ところで、この書を発売日に購入しようとしたら、すべてのサイトで品切れだった。本屋に行っても、もちろんなかった。その後、運よく中古のコーナーで見つけられたが、発売日にすべてのサイトで品切れというのは、初めてである。



武士道に感動

先人たちの武士道が詰まった1冊。涙なしには読めません。ぜひ日本人なら知っていたいエピソードばかりでした。


人の『道徳』

「ゆとり教育」の名の下に教育の現場から排除された教科 ”道徳”。
その”道徳”が学校教育現場に復活するようである。
 人として「当たり前のこと」、その”当たり前”を無視して来た結果が今の社会。
大人が人生の指針を示さずして「教育」はありえない。
人の『徳』を大人自らが示さずして、国も民族も成立できないと考える。
私自信、その大人たちと「教育」というものに懐疑の念を抱き、今まで生きて来た感がある。
自虐感を植え付けられ、踏みにじられた日本人の「誇り」を、せめて「こどもたち」に優先して取り戻したい。
ぜひ、教育に携わる人たちに、また、全ての”大人”たちに一読していただきたい”一冊”です。


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