授業づくりJAPANの「日本人を育てる授業」

わたしたちは誇りある日本人を育てたい。真の国際派日本人を育てたい。

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服部剛の道徳 2 「ペリリュー島の戦い」(崇高な精神)

■中学校学習指導要領「道徳」の内容2「主として他の人とのかかわりに関すること、の(2)「温かい人間愛の精神を深め、他の人々に対して思いやりの心を持つ」にあたる教材開発です。服部氏は「崇高な精神」という副題を添えています。

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【道徳ワークシート】  「ペリリュー島の戦い(崇高な精神)」  
                                       
                                                組  番 氏名(             )
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1 下の写真は「パラオ共和国」の島々です。日本から、グアム経由で約8時間かかる南洋の島国です。
  どんな印象を持ちましたか?


                                        パラオの島々
パラオ

地図ペリリュー島
日本・パラオ・ペリリュー島


日本統治時代のパラオの女性  日本統治時代のパラオの女性


● 今日は、この島のお話です

☆まず【資料1】を読みましょう (資料は基本的に教師が範読します)。  


2.中川隊長の発言をどう思いましたか?              
┌──────────────────────────────────┐
│                     
└──────────────────────────────────┘
☆ 【資料2】を読みましょう。


3.【資料2】を読んで、日本兵の気持ち、島民の気持ちを想像して書いてみましょう。

 
日本兵:                        
─────────────────────────────────────────
島 民:                        
─────────────────────────────────────────

☆【資料3】と【資料4】を読みましょう。


4.今日のお話で学んだことは何ですか。感想を書きましょう。


────────────────────────────────────────── 

────────────────────────────────────────── 

────────────────────────────────────────── 

────────────────────────────────────────── 

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  道徳資料「ペリリュー島の戦い」

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【資料1】───────────────────────────────────────── 

    日本とパラオ 

1920年代のパラオの町並み    1920年代のパラオの町並み


 遠い南の島パラオに、日本の歌を歌うパラオ人のお年寄りがいます。
 「みんな あそこで死んでいったんじゃ…」
 そのお年寄りは、沖の島を指差しながら、つぶやきました。大東亜(だいとうあ)戦争(太平洋戦争)の時、この人は村の若者たちと日本軍の陣地作りに参加しました。当時、パラオは日本の統治下にあったからです。やがて、数百倍の戦力を持つアメリカ軍が押し寄せ、激闘の末、日本軍は全員が玉砕(ぎよくさい)(全滅)しました。

 パラオ諸島は最初はスペイン、次いでドイツの植民地でした。第一次世界大戦(1914年)でドイツに宣戦布告した日本は、パラオのドイツ守備隊を降伏させます。
 戦後、国際連盟はパラオを「委任統治領(いにんとうちりよう)」として日本に面倒を見させることにしました。
 当時のパラオ先住民の人口は、約6000人。スペインの植民地になる前は約6万人だったといいますから、いかに白人の植民地政策がひどいものだったかわかるでしょう。
 日本は、パラオに南洋庁を置き、稲作や野菜、くだものの栽培を伝えました。また、缶詰やビールなどの工場を建設。道路を造り、橋を架け、電話をひき、学校、病院をつくるなど、数々のインフラを整備しました。パラオ人は文字を持っていなかったので、小学校では日本の教科書を使って、日本語教育をしました。小学校1年で九九を暗唱できたといいます。日本教育を経験した人は「学校の厳しいしつけが人生に役立った」といっています。

 1941(昭和16)年、日米戦争が始まり、パラオのペリリュー島は、日本にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、また、日本の防衛圏(ぼうえいけん)として重要な拠点でした。
 一方、アメリカ軍にとっては、フィリピン奪回(だつかい)の最大の障害がペリリュー島の日本軍基地だったのです。
 アメリカ太平洋艦隊は、ニミッツ提督の指揮のもと、ペリリュー島の攻略に乗り出しました。この時点で、ペリリュー島の住民は約900人。米軍が迫りくることを知った住民たちは話し合いました。彼らは、白人統治の時代と日本統治の時代の両方とも経験しています。日本兵と仲良くなって、陣地作りでともに汗を流し、日本の歌を一緒に歌って交流を深めていた住民たち。彼らの決断は…、「大人も子供も、力を合わせて日本軍とともに戦おう!」でした。
 いつも温厚で優しい隊長なら、自分たちの頼みをきいてくれるに違いない。きっと一緒に戦うことを許してくれる…。
 意を決した住民の代表たちは、ペリリュー島守備隊長の中川州男(くにお)大佐をたずねました。そして、中川隊長に「自分たちも一緒に戦わせてほしい!」と申し出ます。
 それを聞いた中川隊長は、驚くような大声をあげて答えました。それは…、

 「大日本帝国の軍人が、貴様(きさま)ら土人(どじん)と一緒に戦えるかっ!」

 住民たちは驚きました。
 「日本人は…、仲間だと信じていたのに、見せかけだったのか…」

→道徳ノートの2へ


【資料2】───────────────────────────────────────── 

    中川隊長の気持ち ・ 島民の気持ち

中川州男隊長
中川州男大佐



 「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」という中川隊長のひどい言葉。
 仲間だと信じていた日本人に裏切られた思いで、悔し涙が流れました。
 そして数日後、住民たちがパラオ本島に避難するため、ペリリュー島を去る日がきました。
 しかし、港に見送りの日本兵の姿は一つもありませんでした。住民たちは、がっかりして船に乗り込んでいきます。そして、出港の合図が鳴り、船が岸辺を離れました。
 すると、次の瞬間です。ペリリュー島に残る日本兵の全員が、ジャングルの中から浜に走り出てきました。そして、住民たちと一緒に歌った日本の歌を大声で歌いながら、ちぎれるほど手を振って見送っているではありませんか。ともに過ごしてきた兵隊さんの顔、顔、顔…。なんと、先頭には笑顔で手を振る中川隊長の姿。
 その時、船上の住民たちはすべてを理解しました。
「日本の兵隊さんたちは、我々の命を助けるために、あんな態度をとったのだ」と。
 遠く岸辺に見える日本兵に向かって、住民たちも、ちぎれんばかりに手を振り続けました。誰もが泣いていました。


→道徳ノートの3へ

【資料3】───────────────────────────────────────── 

      ペリリュー島の戦い

 1944年9月12日、ペリリュー島の戦いが始まりました。
 「日本軍1万人」対「米軍4万8000人」。
 米軍の持つ火力は、日本軍の数百倍です。まずは猛烈な爆撃と艦砲射撃を日本軍に浴びせます。その砲弾は、何と17万発・4000トンに達し、ジャングルは完全に焼き払らわれました。一人の日本兵を倒すのに1589発の砲弾を使用した計算になるそうです。
 9月15日、「3日で占領する」と豪語した米軍海兵隊2万8000名が上陸を開始しました。
 対する日本軍は、どうしていたのでしょうか? 実は、地下深く穴を掘り、米軍の上陸を待ち構えていたのです。自在に往き来できるようにトンネルでつないだ地下壕(ごう)や洞穴は、何と500ヶ所以上。一人用の壕「タコツボ」も無数に掘り、ペリリュー全島を要塞化していたのです。中川隊長の統率はみごとでした。
 米軍上陸直後、水際(みずぎわ)での戦闘は壮絶(そうぜつ)でした。米軍の第1次上陸部隊は大損害を受け、退却を余儀(よぎ)なくされるほどでした。米兵の血で海岸が赤く染まり、今でもこの海岸は「オレンジビーチ」と呼ばれています。
 10月30日、米軍第1海兵師団が全滅。主力部隊が損失率4~6割を超え、「戦闘能力喪失(そうしつ)」で、差し替えが続きます。とうとう米軍はその上陸作戦史上、最大の損害を出してしまいました。
 3日で占領するはずだった戦いは、70日も続く激戦になりました。その間、日本軍には補給が一切(いつさい)ありませんので、徐々に劣勢に陥っ(おちい)ていきました。米軍の火炎放射器と手榴弾(しゆりゆうだん)によって、日本軍の洞穴陣地は次々と落ちていき、ついに食料も水もなくなりました。
 11月24日、日本軍は弾薬・兵力ともに尽き、中川州男(くにお)隊長は玉砕(ぎょくさい)を決意して、自決しました。享年47でした。
 残存兵力55名による最後の総攻撃に際して、ペリリュー島から日本本土に向けて電文が送られました。その言葉は「サクラ サクラ」。
 ペリリュー島守備隊全員が、桜花のごとく散ったことを、遠い本国に知らせたのでした。
 こうして11月27日、ついにペリリュー島は米軍に占領されました。
 アメリカ軍の司令長官ニミッツは、命を捧げて愛する祖国を守ろうとした日本兵に強く心を打たれ、ペリリュー島守備隊の勇戦を讃(たた)えて、次の詩を作っています。

 この島を訪れるもろもろの国の旅人たちよ
 故郷に帰ったら伝えてくれよ
 日本軍人が全員玉砕(ぎよくさい)して果てた
 この壮絶極まる勇気と祖国を想う心根(こころね)を
  ◇
┌────────────────────┐
│ 日本軍 戦死者 1万695名      
│ 米 軍 死傷者 1万786名       
│   (戦死者2336名、負傷者8450名)     
│ 島の住民 死者・負傷者 0名      
└────────────────────┘
ペリリュー島の戦いは、住民に1人の犠牲者も出さなかったことで知られています。
終戦後、パラオはアメリカに統治されることになりました。
 しかし、1993年、ついにパラオは独立を果たします。独立にあたって、国旗を制定することになり、国民からデザインを募集しました。その結果、日の丸とよく似た今のデザインが採用されました。
 周囲の青は太平洋の海の色。真ん中の黄色い円は満月を表しています。

パラオ共和国 国旗
パラオ国旗



【資料4】────────────────────── 

         なぜ、パラオ国旗は日の丸に似ているの?

■国旗の制定について、パラオ人のお話
《 私たちは国旗の選択にあたり、相当苦心しました。応募者はことごとく各島の人々でしょう。それぞれの旗にパラオの歴史と伝統が現れていました。
 だから、選考委員は真剣でした。選考に日数をかけました。でも、この旗に決まりましたのは、日本の国旗に一番似ておりましたので、最大の人気が集まりました。
 日の丸のところを黄色一色にしたのは月を表し、他の縁(ふち)は海なのです。
この旗の持つ心を申し上げましょう。月は太陽が出ませんと輝くことはできません。つまり月は太陽によって支えられ、月としての生命を持ちます。
 太陽とは、率直に申し上げれば日本国なのです。海に囲まれたパラオという国は、日本の太陽の反射によって輝かねば生きられないのです。(中略)
 我々はまた、戦争中に日の丸を抱えて強力な米軍と交戦した日本軍将兵の勇敢さと純粋さに、大いなる魅力と尊敬を捧げておるのです。
 英霊(えいれい)は私たちに、勇気と国を想う心があれば、アメリカよりも強くなれることを教えて死んだのです。そのことも、この国旗は我々に教えているのです。 》
(「ペリリュー神社再建由来記」より)

  ◇

 パラオ国旗は、日本とパラオの深い友好関係を示していることがわかりますね。
 ところで、パラオ国旗をよく見てください。この満月は、「日の丸」と違って、中心から少し左にズレています。何でだと思いますか?
 「日本に失礼だから」と、わざと中心をはずしたのだそうです。
パラオの人々の控(ひか)え目な性格が伝わってきますね。

→道徳ノートの4へ

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           かんたんな授業の解説

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●服部先生の道徳は、こねくりまわして生徒を誘導し、よい子だけが先生が求めている答えを予想して発言する授業ではありません。そういう授業がどこかにあるかもしれませんが。
 素晴らしい資料を生徒に読ませて、素直な感想を書かせるだけです。
 まじめな子もそうでもない子(笑)も身を乗り出して資料にのめり込みます。
 そして、今の日本では見たことも聞いたこともない、これまで教えられたことのない真実に自分で気づきます。
 そこにいるのは、今は思い出すことを禁じられているが、昔はあたりまえだった日本人(われわれの親・祖父母・曾祖父母)だからです。
 ここにいるのは、あなたがたのおじいちゃん、ひいおじいちゃんなんだよと言えばそれだけでわかり、感動があります。
 そして、その感動が心を動かすのです。
 教師が説明したり、押しつけたり、無理矢理納得させたり(ありえない!)する必要はありません。
 そこがこれまでの道徳との違いです。

●ワークシートの問いについて解説します。

 「きれいな島だなあ」「泳いでみたい」「おもしろい形の島だ」「日本からはずいぶん遠いね」「聞いたこともなかった」など自由に書きます。


 「ひどすぎる!」「島民がかわいそうだ」「この隊長、許せん」など、たいがい怒ります。少年というのは、世界中どこでも正義感がとても強いのです。

3 
◆それそれ、率直な予想を書きます。

4 
◆パラオ人が日本にせる深い思いは歴史が培ったものです。このような史実を日本人は知りません。戦後、教えてはならないとされた教育内容の代表だからです。
 パラオと日本のギャップはあまりにも大きすぎます。
 だからこそ、生徒は新鮮で素直な感想を書き綴ります。できればいまの自分たちの姿とくらべて、自らを振り返ってほしいところです。しかし、それを無理強いしないようにしましょう。素直に思ったことを生徒たちは書きます。
 わたしたちは、勉強の成績に関係なく彼らの書いたことに感動させられます。

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     ◆この授業、やるなら今がチャンスです!

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■天皇陛下 パラオ大統領と会見■
平成26(2014)年12月17日 20時43分(NHKニュースWEB)

天皇陛下とパラオ大統領

天皇陛下は、17日、来年訪問する方向で調整が進められているパラオの大統領と会見されました。

16日から日本を訪れているパラオのレメンゲサウ大統領は、17日昼前、天皇皇后両陛下のお住まいの御所を訪れ、天皇陛下の出迎えを受けました。
戦後70年を迎える来年、両陛下は、太平洋戦争の舞台となったパラオを戦没者の慰霊などのため訪問される方向で調整が進められています。
会見では、レメンゲサウ大統領が、「来年は戦後70年でもあり、パラオ大統領として、また、パラオ国民を代表して、天皇皇后両陛下をぜひお招きしたい」と改めて両陛下の訪問を招請し、天皇陛下は「ご招待をいただいたことを心から感謝します」とこたえられたということです。
また、天皇陛下が、終戦までのおよそ30年間、日本の統治下にあったパラオに、多くの日本人が移り住んでいたことを話題にされると、大統領は、「パラオ固有の文化、伝統、習慣と、日本人がもたらしたものがうまく融合して今のパラオにも残り、日本のことばも残っています」と述べたというとです。
このあと天皇陛下は、皇后さまと共に大統領を昼食に招き、1時間半にわたって懇談されたということです。
ことしは、ミクロネシアとマーシャル諸島の大統領も来日して御所を訪れていて、両陛下は、太平洋戦争の舞台となり、戦後60年での訪問先として検討されたパラオを含む3か国の大統領と親交を深められました。
 



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●「授業づくりJAPAN」(日本の誇りと歴史を伝える授業づくりの会)は、自由主義史観研究会の20年間の研究と授業づくりの成果を継承しています。
自由主義史観研究会の公式ホームページ「教科書が教えない歴史」には、膨大な量の資料が蓄積されています。どうか参考にしてください。
●自由主義史観研究会のHP「教科書が教えない歴史」(http://www.jiyuushikan.org/)

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コメント

No title

パラオ国旗のエピソードは名越二荒之助氏の広めたガセですね。デザインの発案者自身も否定しています。(下記url参照)

http://blog.canpan.info/fukiura/archive/7313

2015/05/31 (Sun) 00:20 | #pAqrpoCw | URL | 編集
Re: No title

貴重な情報をありがとうございました。
デザインのエピソードについて発案者と違う話が出てきた経緯を検証し、対応して参ります。
今後ともよろしくお願いします。

2015/05/31 (Sun) 10:53 | 授業づくりJAPAN #- | URL | 編集
パラオ国旗の教材化について

教材開発した服部剛さんの見解をお知らせします。

**********************

 教材化については次のような経過で決断しました。
ガセと言い切るのは行き過ぎと思われます。

 原点に帰れで、名越先生の本に書かれていた出典
=滑川裕二著「ペリリュー神社再建由来記」を探
したところ絶版で手に入らず。
 そこで、滑川さんの関係機関である南洋交流協会
に尋ねたところ、本の当該部分のコピーをFAXで
送ってくれた上、以下のような核心に迫る回答を
得ました。

・南洋交流協会で慰霊巡拝に行っていた南洋交流
協会会長の滑川裕二さんが現地で、イナボ氏(現
地の要人です)から直接話を聞き、南洋交流協会
が聞いたまま記録し、日本へ持ち帰り、記録に残
したもの。

イナボさんは有名な方ですよね。何年か前に亡く
なりました。
信憑性を疑う検証では、先生がインタビューした
Skebong氏は「発案者」です。

本人の言うように「日の丸とは無関係にデザイン
した」というのは本当かも知れません。

しかし、発案者は国旗の決定者ではありません。

決定に至る会議の内容が重要ポイントでしょう。
彼はその内容を知らないのではないでしょうか。
議事録があるとは思えませんし。

とにかく、政府が組織した選考委員が決定したわ
けですが、その審議の中で、日の丸との関連の話が
出たということが考えられます。

選考委員の名簿は分かりませんから断定はできま
せんが、政府要人たるイナボさんが選考委員の1人
であった可能性も充分にあります。

いずれにせよ、イナボさんが上記のように語って
いたという事実ははっきりしましたので、まったく
のガセネタではないと判断して授業で使った次第で
す。

服部剛拝

2015/06/17 (Wed) 15:59 | 授業づくりJAPAN #- | URL | 編集

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