授業づくりJAPANの「日本人を育てる授業」

わたしたちは誇りある日本人を育てたい。真の国際派日本人を育てたい。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「松江豊寿陸軍大佐と『武士の情け』」

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
★メルマガ
 「授業づくりJAPANの『日本人を育てる授業』」
  の購読申し込みをお願いします。
★メルマガ授業づくりJAPAN★ 
     ↑クリックしてアドレスを入れてください。

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■


●本授業は飯島利一先生(授業づくりJAPAN)の実践です。自由主義史観研究会HPから転載させていただきました。


教育・学校 ブログランキングへ
クリックお願いします!


№57
世界の中の日本 4  【 大正 3 】
「松江豊寿陸軍大佐と『武士の情け』」




【授業の意図】
 松江豊寿(とよひさ)陸軍大佐が、板東俘虜収容所の所長として、どのように行動したか。その考えや思いを理解することを通じて、「武士の情け」のもつ意味を理解させる。「武士の情け」とは、西欧的な博愛やヒューマニズム的に基づく優しさとは違う。たとえ敗れても、果敢に正々堂々と戦った勇者に対する敬意の念が込められている。この点を学習者に気づかせることがねらいである。

【授業の流れ】

1.板東俘虜収容所とは? 
板東俘虜収容所という施設。戦争に敗れ投降した軍人を収容する施設です。ここに約1000名のドイツ人が収容されていました。場所は現在の徳島県鳴門市です。それにしても、どうしてドイツ人が捕虜となって日本に来たのでしょうか。[  ]のキーワードを入れながら、確認していきましょう。

松江1


【1】第1次世界大戦における日本とドイツ
①1914年におこった[ 第1次世界大戦 ]で、日本は日英同盟を理由にドイツへ宣戦。
②日本は、[ 青島(チンタオ) ]の要塞など、中国大陸におけるドイツ植民地を攻撃。
③ドイツ軍は勇敢に戦う。しかし降伏し約4000名が俘虜となって日本の収容所へ移送。
  ⇒1915年から各地にドイツ人俘虜が収容される。
    1917年、丸亀・松江・徳島などの収容所を統合して、
   [ 板東俘虜収容所 ]を建設。
②勇敢に戦いながらも降伏し捕虜となったドイツ将兵は、日本の収容所での生活に不安があったようです。当時、捕虜(俘虜)になると、どうような扱いを受けたのでしょう。

【2】捕虜(俘虜)のあつかい
①近代以前
・[ 奴隷 ]にされる
・[ 虐殺 ]される 
・捕虜と引き換えに[ 身代金 ]を要求される
②国際法の規定
[ ハーグ陸戦条約 ] (1899)=捕虜は保護されると規定.虐待・殺害すると戦争犯罪となる ・・・しかし各国ともあまり守っていなかった
③日本の場合
捕虜になると辱めを受けるので、[ 自決 ]することが望ましいと考える風潮。
◆国際法では捕虜を保護する規定がありましたが、どこの国もあまり厳密に守っていなかったようです。虐待・殺害などが禁止されているのは、従来、捕虜に対する扱いが非情に残酷であったことを示していると言えるでしょう。

2.所長松江豊寿と収容所の生活
・所長は松江豊寿という人物でした。厳めしい髭は、カイゼル髭と言います。
松江2



【3】松江豊寿所長のプロフィール
①会津(福島県)の出身だった
明治5年(1872)に、会津藩士だった松江久平の長男として生まれる。会津藩は佐幕派だった ので、戊辰戦争で薩長(新政府軍)と戦って敗れた。そのため、幼い頃から貧しく苦労した。
②陸軍のエリート軍人だった
成績が優秀で、当時超難関だった陸軍幼年学校・陸軍士官学校をでる。日清・日露戦争に従 軍。1917年に、板東俘虜収容所の所長となる。陸軍大佐で44歳。
③節を曲げぬ反骨の人だった
大尉のときに朝鮮駐留司令官の副官となったが、長州閥の上官と意見が対立。自分の信念を まげず結局副官を解任され、左遷された経歴がある。

・それでは、この収容所のドイツ俘虜の生活はどのようなものであったか。具体的に考えていきましょう。

【問題1】
****************************************
・収容所でのドイツ人俘虜は、どのように処遇されたのでしょうか。かれらに許可したものを○、ダメなものを×で答えてください。
①ドイツ皇帝の誕生日やクリスマスには、ドイツの歌を合唱し、お酒を飲んでパーティをした。  
②日本語教室がひらかれ、希望者は勉強することができた。  
③簡単なチェックだけで、収容所から自由外出が許され、地元の人と接触することができた。  
④テニス、ボクシングなどのスポーツ大会が盛んに実施された。  
⑤ドイツ人俘虜が編集者となって新聞を発行し、ドイツの戦況や日本の様子が記事になった。  
⑥ドイツ人俘虜は収容所の食事が口に合わず、ソーセージ・チーズなどをつくって食事した 。
****************************************
・いくつ○印がついたでしょうか。実は正解は全部○。収容所の内容を写真で見ていきながら、事実関係を確認しましょう。

松江3
ヘルマンハイゼン楽団

松江4
地元の人との交流

松江5
収容所内のテニスコート           

松江6
 「ディ・バラッケ」紙の挿絵

①…ヘルマン・ハイゼン楽団という、楽器を演奏できる俘虜達によるオーケストラがつくられ、日本で初めてベートーベンの交響曲第九番が演奏されました。

③…地元の人との交流はとても盛んでした。板東の公会堂を借りて「ドイツ俘虜による作品展覧会」が開催され、絵画・カメラ・食品・雑貨などドイツの技術や文化が、地元周辺の人々に紹介されました。地元の人は親しみを込めて「ドイツさん」と呼んでいたほどです。

⑤…収容所内には印刷所が設けられ、「ディ・バラッケ」という新聞が、ドイツ俘虜の編集によって発刊されていました。またこのほか、ドイツ人捕虜の妻たちは収容所を訪れ、いつでも面会することができました。彼女たちははるばる日本にやってきて、板東の付近に移り住んできたのです。

・収容所内の俘虜の多くは、戦地で離れてしまった戦友・銃後をまもる家族への思いでストレスをかかえていました。ノイローゼなどの精神的な病気になる、また収容所脱走の原因になる場合もあります。松江所長は、国際法を研究して俘虜の将校と交渉を重ねました。そして規則は規則として厳守させながら、可能な限りドイツ人俘虜の願いを実現させるようにつとめたのです。とくに、望郷の念、祖国や家族への心情には常に配慮しました。

【松江所長の方針】
 このような方針に反発する意見もありました。
(1)所内の部下から「所長は俘虜に甘いのではないか」と指摘される。
(2)俘虜情報局の上官からは収容所に金を使いすぎると叱責され、予算を削減されました。
・しかし、所長は決して自分の信念を曲げず、収容所の方針を変えることはありませんでした。彼の姿勢は、つぎの言葉に表れています。彼は何故ドイツ俘虜に配慮を示したのか、その理由となることを次の言葉から考えてみましょう。

****************************************
【資料1 松江所長のドイツ人俘虜にむけた訓示】

「諸子は祖国を遠く離れた孤立無援の青島において、絶望的な状況のなかにありながら、祖国愛に燃え最後まで勇戦敢闘した勇士であった。しかし刀折れ矢尽き果てて日本軍に降ったのである。だが、諸子の愛国の精神と勇気とは敵の軍門に降ってもいささかも損壊されることはない。依然、愛国の勇士である。それゆえをもって、私は諸子の立場に同情を禁じえないのである。願はくば自らの名誉を汚すことなかれ。…」
**********************************************

・松江所長は「俘虜は犯罪者ではない」「彼らも祖国のために戦ったのだから」が、口癖でした。彼らを祖国のために敢闘した勇士として迎えたのです。


3.会津人としての松江豊寿
(1)松江所長の信念には、どのような背景があったのでしょうか。最初に俘虜を受け入れる日の前日、松江は身の上話をして、部下にある告白をしています。これは彼の考えをよく示していると言えるでしょう。[ A ][ B ]に入るキーワードを考えながら読んでいきましょう。

****************************************
【資料2 松江が収容所の部下に語る】 

 実は、私は[ A ]人だ。…戊辰戦争のみぎり、鶴が城に拠って官軍に抗し、朝敵の汚名をこうむった[ A ]藩士の子として、この世に生をうけた。私の父祖たちは、鶴ガ城落城と同時に俘虜となって、[ A ]降伏人とよばれ、屈辱と惨苦の境涯におちいったのである。…降伏人、すなわち俘虜というものがどんなに悲しいものであるかを、私は幼心に深く刻み込まれ、それはいまも忘れることができない。…「薩長人ら官軍にせめて一片の武士の情けありせば」とは、あのみぎり大人たちがよく口にしていた言葉であった。これも、今もなお私の耳底に残って忘れることのできぬものである。さて、明日は第1次俘虜が当所にやって来る。そこで諸官へ、所長としての私の俘虜に対する方針を述べておきたい。[ B ]、これを根幹として俘虜を取り扱いたい。わかってくれるかね。
****************************************

・プロフィールでも紹介したように、[ A ]には「会津」が入ることは分かります。

[ B ]に入るキーワードは何でしょうか。キーワードとなる言葉を、上の資料2「松江が収容所の部下に語る」から抜き出して、答えてください。

・答は「武士の情け」です。敗者となった会津藩士の子として塗炭の苦しみを経験したことから、彼は「武士の情け」をもってドイツ人俘虜に接したことがわかります。

(2)松江の出身である会津藩は、どのような藩だったのでしょうか。会津藩は徳川将軍家との関係が深く、初代藩主保科正之は3代将軍家光の弟です。そのため、将軍家に危難があれば、藩を賭して守護する藩風がありました。
 とくに、武士の子弟教育は独自のものがあり、その教えは「会津武士道」と表現されています。まず会津藩士の子弟は、10人1組で「什」というグループをつくり、遊びや勉強など常に行動を共にします。そのグループには守らなければならない規則があり、互いに切磋琢磨して自律心を養いました。

****************************************
【資料3 「什の掟」】

一 年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二 年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三 虚言をいふ事はなりませぬ
四 [ C ]な振舞をしてはなりませぬ
五 [ D ]をいじめてはなりませぬ
六 戸外で物を食べてはなりませぬ
七 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです(上の各条を固く守りなさい)
****************************************・[ C ]には「卑怯な」、

[ D ]には「弱い者」が入ります。
・いかなる理由があろうとも、上の掟を破ることは許されませんでした。破ると厳罰がまっています。会津藩士は、幼い頃の厳しい教育によって、武士としての優れた人格を培っていったのです。明治初期に生また松江も、このような気風をもつ環境の中で、正々堂々と戦った者への敬意の念や、敗者に対するいたわりを身につけていきました。

(3)会津武士の精神は、戊辰戦争で発揮され、敗れたとはいえ、堂々とした戦いぶりは大いに薩長軍を悩ませました。しかし新政府軍(薩長軍)の態度は苛酷なものだったのです。
----------------------------------------
①会津藩は恭順の意を示したが、朝敵の汚名を着せられ容赦なく攻撃される。
②女・こども(白虎隊の悲劇)など約3000人が戦死・自決を余儀なくされる。
③女分捕り隊・物品押収隊が派遣され城下が荒らされる。
④会津人の死者は埋葬が許されず、屍は放置されたままだった。
⑤明治に入って会津人は青森県斗南に一時移され、極貧で罪人のような暮らしを強いられた。  
----------------------------------------
・松江の父祖が経験した会津藩の悲運を考えると、彼の言う「武士の情け」の重みが理解できるのではないでしょうか。


4.ドイツ人俘虜の帰国、その後 

①1918年、ドイツの敗戦が板東にも伝わります。収容所内でドイツの勝利を祈っていた俘虜たちは大きく動揺しまし、将軍・士官たちはドイツ人としての誇りを失います。松江所長は次のように言いました。

****************************************
【資料4 松江所長が収容所のドイツ人に語る】 

諸君。私はまず今次大戦に戦死を遂げた敵味方の勇士に対して哀悼の意を表したい。もとい。いま敵味方と申したが、これは誤りである。去る6月28日調印の瞬間をもって、我々は敵味方の区別がなくなったのであった。同時にその瞬間において、諸君はゲファンゲネ(俘虜)ではなくなった。ドイツ国民の一人一人であり、一個の自由なる人間になったのである。…さて、諸君が懐かしい祖国へ送還される日も、そう遠くではないとおもうが、すでに諸君が想像されているように、敗戦国の国民生活は古今東西を問わずみじめなものである。私は幼少期において、そのことを肝に銘じ、心魂に徹して知っている。それゆえ、帰国後の諸君の辛労を思うと、今から胸の痛む思いである。…どうぞ諸君はそのことをしっかり念頭において、困難にもめげず、祖国復興に尽力してもらいたい。
****************************************

②1919年、パリ講和会議が開かれてヴェルサイユ条約が締結されると、徐々にドイツ人たちは帰国していきました。この年の4月に収容所は閉鎖されています。その後、松江豊寿は大正11年(1922)に陸軍少将になりますが、その年の12月に会津若松市の市長に就任します。約3年間つとめて、白虎隊の慰霊碑を整備するなど地元会津のために力を尽くしました。そして昭和57年に87歳で永眠しました。

③この収容所での生活はその後もずっと、ドイツ人の心に残ったようです。ドイツ人は、松江の精神をヒューマニズムや博愛と形容して讃えています。

****************************************
【資料5 ドイツ人俘虜からの手紙】

●ポールクーリー(リューデンシャイト市在住)
「私は、今度の第二次世界大戦にも召集をうけ、運わるくソ連の捕虜となり、1956年に解放されましたが、ソ連のラーゲルで冷酷と非情をいやというほど知らされたとき、私の脳裏に浮かんできたのは、バンドウのことでありました。バンドウにこそ国境を越えた人間同士の真の友愛の灯がともっていたのでした。…私は確信をもっていえます。世界のどこにバンドウのようなラーゲルが存在したでしょうか。世界のどこにマツエ大佐のようなラーゲルコマンダーがいたでしょうか。」

●エドアルド・ライポルト(コーブルグ市在住)
「懐かしきバンドウの皆さま。私は今から47年前、貴町の俘虜収容所にいた元俘虜であります。バンドウラーゲルの5ヵ年は、歳月がどんなに経過しても、私たちの心の中で色褪せることはありません。否、ますます鮮やかによみがえります。あのころの仲間で、現在も生き残って西ドイツに住んでいる者のうち、連絡のとれる33名は、年に何回かフランクフルトに集まって「バンドウを偲ぶ会」をもう20数年続けております。会合のたびに、私たちはバンドウのめいめいの青春の日々を限りなく懐かしみ、遥かな御地へ熱い思いを馳せているのです。…目をつむると今もまざまざと、マツエ大佐、バラック、町のたたずまい、山や森や野原などが瞼に浮かんできます。…」

****************************************

・ドイツと収容所のあった鳴門市との文化交流は、100年足らずたった現在でも盛んです。鳴門市ドイツ館というその象徴的な施設があります。


5.「武士の情け」とは何か

①昭和に入って松江の息子智寿が父豊寿について、以下のように語っています。

****************************************
【資料5 松江の息子智寿が「父の性格」を語る】

(収容所所長をやった父のことを)、アウシュビッツやソンミ村事件に比べて、ヒューマニズムという言葉でいう人もありますが、ヒューマニズムというような今日的な言葉よりも、「武士の情け」という言葉のほうが、一番ぴったりしているように思います。父は武士らしい厳しさと、強い正義感をもつ反面、人間を全面的に信頼し、情にはひどくもろいところがありました。
****************************************

・アウシュビッツは第2次世界大戦のナチスドイツがユダヤ人の虐殺を行った収容所として有名。ソンミ村事件とはヴェトナム戦争中におこった、アメリカ軍人よる非武装民間人の虐殺事件です。この場合のヒューマニズムとは、西欧における人道的・博愛的な人間中心主義を指しています。しかし、西欧外来の言葉を借りずとも、日本では「武士の情け」という言葉で、その美徳を表現できるのです。

②今日のキーワードは「武士の情け」でした。これまで見たように、松江の「武士の情け」は、西欧でいう人道的・博愛的な優しさを示すことではありません。最後に理解したことがらをまとめてみましょう。

【問題2】
 松江の行動や会津の武士道から、「武士の情け」の意味をどのように考えますか。


(答えの例:武士の情けは、敗者に対するいたわり・優しさを表現している。だが、そこには果敢に正々堂々と戦った勇者に対する敬意が込められている。)


《主な参考文献》
・棟田 傳 『板東俘虜収容所物語』 光人社NF文庫
・星 亮一 『松江豊寿と会津武士道』 ベスト新書
・星 亮一 『会津武士道』青春出版 インテリジェンス
・中村彰彦 『二つの山河』 文春文庫
・会津若松市発行 『会津人の誇りを持ち信念をつらぬいた人 松江豊寿』
スポンサーサイト
「満洲事変と満州国の発展」 | Home | 中2歴史 「第一次世界大戦と人種平等提案」

コメント

コメントの投稿


 管理者にだけ表示を許可する

このページのトップへ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。