授業づくりJAPANの「日本人を育てる授業」

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中2授業「世界列強になった日本」

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●授業づくりJAPANさいたま「学校でまなびたい歴史」(代表・齋藤武夫)の「世界列強になった日本」をお届けします。


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№55
世界の中の日本 2 「世界列強になった日本」

【授業の意図】
・不平等条約の完全改正が果たされ、明治日本の国家目標がようやく達成された翌年に、明治天皇が崩御された。
 大正時代が始まる。
 世界中が白色人種に支配され搾取されていた時代に、有色人種国で唯一日本だけが彼らと同じテーブルについた。
 つまり日本も列強の一員となり、第一次世界大戦後は五大国(米英仏日伊、露はソ連になり、独墺は敗戦国)にのし
 上る。
 もし日本が白人国だったら、あるいは列強の植民地にされていたら、その後の日本の運命はなかっただろう。
 第一次世界大戦は次時にまわし、ここでは大正時代の意味をかいつまんでとらえたい。
 ①列強になったことの意味、
 ②デモクラシーの達成、
 ③共産主義と国民の分裂の3つをとりあげる。

【授業の流れ】

1 明治の終わり
┌──────────────────────────────────────┐
│ 不平等条約の完全改正で明治日本の大目標が達成された翌年、日本中が悲しみに包ま 
│れる出来事がありました。ある人物が亡くなったのです。その人はだれでしょうか      
└──────────────────────────────────────┘
・明治天皇崩御、大正天皇即位。
・板書:偉大な明治時代が終わった。
    大正時代(明治45年=大正元年:1912~26:大正15年=昭和元年)

2 世界列強になった日本

・1898年(明治31年)の世界地図を見せる。日露戦争前であることや以下を説明。
World_1898_empires_colonies_territory.png

・世界の有色人種地域はほとんど白人列強の支配下にあることがわかる。
 日本も6年後の日露戦争に負けていれば、濃い紫色に塗られていただろう。
 アメリカ大陸はスペインから独立しているが、実質アメリカの勢力圏になっている。
 清国は独立国に見えるが、列強の草刈り場。日本だけが孤独なアジアの列強国である。

・プリント資料「ラス・ビハリ・ボースと日本人」を読ませる。

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【資料】ラス・ビハリ・ボースと日本人(1)

 大正2年宝塚歌劇始まる。
 大正3年国産自動車第一号できる。
 欧州大戦始まる。
 大正4年甲子園野球大会始まる。
 ・・・なんとなく大正時代のイメージが持てましたか。
 歯を食いしばってがんばってきた明治とはかなり違うでしょう。なお欧州大戦というのは第一次世界大戦のことですが、ほとんどの日本人には地球の裏側の戦争でした。
 さて、日露戦争後日本にはたくさんのアジア人がやってきました。その中には、日本に学んでフランスの植民地支配にあえぐ祖国を独立させたいと願うベトナムのクォン・デ候やファン・ボイ・チャウがいました。また、やがて清国を滅亡に追い込む孫文もいました。 

頭山満
【頭山満】

 後に首相となる犬養毅や玄洋社の頭山満など、多くの日本人が彼らを支援しました。なぜなら日本人こそ、彼らと同じ思いで幕末から明治を生き抜いてきたからです。
 大正4年(1915)6月、インド人のラス・ビハリ・ボース(30歳)が日本にやってきました。ボースはインド独立運動の闘士でした。彼は神戸に上陸するとすぐに孫文と会って同志の交友を結びました。そして、上海経由でインドに武器を送るなどの活動を始めました。ところが、イギリス政府は日本政府にボースの逮捕を要請したのです。ボースは、インドで武装蜂起などを企てた独立運動家(死刑に値する)としてイギリス政府から追われる身だったのです。 

ボースと妻俊子
【ビハリ・ボースと妻俊子】

         
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『ここで問題です』
┌──────────────────────────────────────┐
│ そのとき内閣総理大臣だったらどうしたでしょうか。次から選んで理由をノートに
│ 書きなさい。
│  A 逮捕してイギリス政府に引き渡す。
│   B 国外に退去する命令を出す。
│   C イギリス政府の要請を拒否する。
└──────────────────────────────────────┘
・人数分布を取り、理由を言わせる。

【そのときの大隈重信内閣の選択はB:国外退去命令】

・既習事項の日英同盟を理由にできた児童をしっかりほめる。

・大隈のコメントを紹介する。
「インド人を扇動してイギリス政府に反抗する者を、日英同盟の友人である日本が守る、ということはありえない」

『日露戦争後の日本は、欧米諸国から「日本はアジアの植民地独立運動を支援するのではないかと疑われていました。強いアジア人は彼らにとって大きな恐怖だったからです。日本政府は列強と対等な地位を守るために、列強諸国の疑いを晴らさなければならなかったのです』

・11月28日に国外退去命令が出る。期限は12月2日。退去しなければ当然日本の警察はボースを逮捕しなければならない。

┌──────────────────────────────────────┐
│ 次はクイズです。どうなったでしょうか?
│ A ボースは急いで横浜から船に乗った。
│  B ボースは国外退去しなかったので、逮捕されてイギリスに引き渡された。
│ C その他
└──────────────────────────────────────┘
・人数分布を取り、Cの子には具体例を聞いてみる。

『では、どうなったかをプリントで読んでみましょう』

****************************************

【資料】ラス・ビハリ・ボースと日本人(2) 

 ボースの国外退去命令のニュースは日本国民にとって大きな衝撃でした。
なぜなら「ボースが船に乗ったらイギリスの官憲が逮捕する」と書かれていたからです。
その日のうちに各方面から大量の抗議文と命令の撤回要求が届けられました。
しかし、外務省は撤回するわけにはいきません。そんなことをすれば日本の命綱である日英同盟にひびが入るからです。
 孫文からボースの救出を頼まれた頭山満はこう言いました。
「インド独立に奔走している志士を敵の手に渡して殺させることは、情においても、国の名誉にかけても、断じて許すことはできない」
頭山はまず親しくしている相馬愛蔵・黒光夫妻(新宿中村屋店主) にボースの保護を頼みました。相馬夫妻は快く引き受けました。夫妻も政府の決定に心から怒っていたからです。

相馬夫妻
 【相馬夫妻】

 頭山は期限の前日12月1日に自宅でボースの送別会を開きました。
インド人に変装した仲間を何人も使って日本の警察やイギリスの追跡の目をくらまし、ボースを新宿中村屋に逃がしました。
 イギリスの追及は4年間も続きましたが、相馬夫妻は隠れ家を17回も変えてボースを守りました。
 大勢の日本人がそれを応援しました。
 イギリスは1918年第一次世界大戦が終わったとき、とうとうボースの逮捕をあきらめました。
 ボースはその後、相馬夫妻の娘俊子と結婚して日本に帰化し、チャンドラ・ボースなどとも協力しながらインドの独立運動を推進しました。
 そのお話はまた昭和の日本の勉強でやりましょう。
 ちなみに、有名な新宿中村屋のカレーは、このビハリ・ボースの「日本のカレーはイギリス式でダメだ。インドのおいしいカレーを教えましょう」ということで中村屋のメニューになり、いまも人気を保っています。こんど新宿に行ったらボースさんをしのんでぜひ食べてみてください。

中村屋のカレー
【新宿中村屋】
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・政府は欧米列強の仲間として生きなければ日本の独立と安全は守れないと考えている。
 国民の多くもそれはわかっているが、犬飼や頭山や相馬などと同じように「虐げられているアジア人を応援したい」という気持ちが強い。
 このように現実と理想に引き裂かれている状態が当時の日本でした。
 いまの私たちにこの時の苦しい日本の立場がわかるでしょうか?


3 2つの変化
『大正時代の日本は軍事や経済で列強に肩を並べただけではありません。明治になって本格的に取り入れた西洋の自然科学でも世界レベルの研究を生み出すようになっていました。野口英世、北里柴三郎、志賀潔等々です。これは自分で調べてみましょう』
『最後に、大正時代の2つの変化を学びましょう』

(1)デモクラシー(民主主義)の確立

・一つ目は大日本帝国憲法の下で、日本は本格的な民主主義の政治を進めたことです。

・板書:民主主義=選挙で多数を得た政党の代表が内閣総理大臣に選ばれる。
    1924年(大正13年)加藤高明内閣から1931年(昭和6年)犬養毅内閣まで

・当時はこれを民主主義とは言わないで、吉野作造の提案で民本主義と言いました。

吉野作造
【吉野作造】

君主制度の下での民主主義という意味で「民本」と呼んだわけです。
「民主」だと王様を殺した共和制みたいだからです。
そして納税額で選挙権を決めるやり方も原敬内閣の時に2円まで下がり、大正14年についに普通選挙法が成立しました。25歳以上の男子全員に選挙権が与えられたのです。

普通選挙
【普選ポスター】

・内閣の決め方と選挙権(女性の選挙権はまだでしたが)で、現在とほぼ同じ民主主義の政治が「大日本帝国憲法」のあるべき姿として成立したのです。
 ですから「日本人は民主主義は戦後アメリカから教わった」というのは明白な間違いです。


(2)共産主義革命とコミンテルン

・第一次世界大戦中にロシアで共産主義(社会主義とも言う)が起きました。

・板書:1917年(大正6年)ロシア革命→ソビエト連邦(ソ連)
    貧富の差を無くそうとして、暴力革命で権力を握った。

レーニン
【ロシア革命の独裁者レーニン】

ロマノフ一家
【レーニンの命令で銃殺されたロマノフ家】

・ロシアのロマノフ王朝の家族は全員皆殺しにされ、たくさんの国民が殺された。
『ここで問題です』
┌──────────────────────────────────────┐
│  共産主義の政治はどれに一番近いでしょうか?
│ A 王様のいる民主主義(イギリスや日本)
│  B 王様のいない民主主義(フランスやアメリカ)
│  C ナチスドイツ(ヒトラー)の独裁政治
└──────────────────────────────────────┘
【正解はCの独裁政治】

・共産主義には世界中がだまされましたが、実はファシズム(全体主義)と同じでした。
 共産党の独裁政治で反対意見の人は皆殺されてしまいます。
 いまの中国や北朝鮮が共産主義ですね。共産主義で殺された人の数は第二次世界大戦で死んだ人の数よりも多いの です。

・しかし、大正時代の日本人(頭のいい人)はこれは民主主義の進歩した姿(理想の国)ではないかと思い込み、明治の日本にあった国民の団結を分裂させていきました。

・板書:コミンテルン(国際共産主義)世界中にたくさんスパイを送り、各国で暴力革命を起こそうとした。
1922年(大正11年)日本共産党結成(コミンテルン日本支部)

スターリン
【ソ連の独裁者スターリン】

・コミンテルン(国際共産主義)というソ連の命令で動く組織が作られ、その日本支部として日本共産党ができました。
 多くの大学生がこの新しい宗教に染まりました。
 赤旗を振ったので良識のある日本人はこれを「アカ」と呼んで嫌いました。
 日本の歴史で初めて天皇陛下を殺すことを目標にしていたからです。
ありえない!
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