授業づくりJAPANの「日本人を育てる授業」

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日本マラソンの父・金栗四三(かなぐりしぞう)

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●この授業は「授業づくりJAPAN横浜・高校」代表の服部剛さんの授業です。


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道徳1-(2)強い意志~目標を貫いて生きる

「日本マラソンの父・金栗四三」
         3度のオリンピック


◆ 発問1 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

あなたは挫折したことがありますか?
どんなことで落ち込みましたか?
あなたは、なぜ挫折をしないのでしょうか?
今は立ち直ってますか?
どうやって立ち直りましたか?
どうすれば立ち直れると思いますか?

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

中学生といえども、たいがい誰でも大なり小なりの挫折を経験しているものです。
今日の徳目は「強い意志」とは何かを考えること。
ひとしきり生徒に自分自身を振り返らせたあと、【資料1】に入ります。

【資料1】オリンピック日本人選手第1号◆◇◆◇◆◇◆

箱根駅伝
金栗四三1


今や正月の恒例行事となっている箱根駅伝。
その第1回大会は大正9年(1920年)2月14、15日に行なわれました。
慶応大・明治大・早稲田大・東京高等師範(現筑波大学)の4校で競いました。
数々のドラマはこの時から始まりました。
この箱根駅伝の提唱者が金栗四三という人です。

さて、日本が初めてオリンピックに参加したのは1912年、スウェーデンで開催された第5回ストックホルム大会です。
参加した日本代表選手は、たったの2人。
そのひとりがマラソン代表の四三(しぞう)でした。

日本で「マラソン=42.195キロ」が定着したのは1911年。
このストックホルム大会の前年に行われた国内予選のことです。
これが日本初の公式マラソンでした。

日本マラソンの始まりは劇的でした。
羽田からスタートして川崎を経て、東神奈川で折り返すコースです。
この大会で四三は、雨風の悪条件の中、2時間32分45秒のタイムで優勝し、なんと当時の世界記録(2時間59分45秒)を27分も縮めたのです!

東京中に号外が舞ったといいます。
この驚くべき記録で優勝した四三は、翌年のストックホルムオリンピックに「日本人選手第1号」として出場することになりました。
この時、20歳の若者でした。

金栗四三は、明治24(1891)年8月20日、熊本県和水(なごみ)町の造り酒屋に生まれました。
父親が43歳の時に生まれたので、四三と名付けられました。
小学校時代は往復12キロの道のりを、毎日走って通学したといいます。
中学校時代は特待生に推薦されるほどの秀才で、スポーツの経験はなかったそうです。

東京高等師範学校(現筑波大学)に入学した四三は、校長の嘉納治五郎(かのうじごろう)(講道館柔道創始者)に才能を見出されます。
陸上競技部に入部し、独特の工夫とアイディア、人の何倍もの努力を積み重ね、たちまち学校を代表するランナーに成長していきました。

オリンピック代表選手に選ばれた時、四三は、国際オリンピック委員会(IOC)委員でもある嘉納校長に、胸の内を打ち明けました。

「先生、羽田のレースでは幸運にも勝つことができました。
しかし、充分な練習も準備もできていないまま、たとえ3、4ヶ月のトレーニングを積んだとしても全く自信はありません。
行けば是非勝ちたいと思うでしょう。
また、勝たねば期待してくれる国民諸君に申し訳ありません」

日本人初のオリンピック出場に、四三には巨大なプレッシャーがのしかかっていました。

1924年に開催されたオリンピック、第8回パリ大会での金栗四三選手
金栗四三2

「日本マラソンの父」といわれている金栗四三の現役時代(左)。足に履いているのは何でしょう?

◆ 発問 2~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

金栗四三はオリンピックへの出場を決意するのですが、それは何のためだと思いますか?

ア、自分自身のため
イ、家族や世話になった人達のため
ウ、その他

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

【資料2】「JAPANなら、やめます」◆◇◆◇◆◇◆◇◆

オリンピック出場に迷う四三に対して、嘉納は
「君の足で、君のマラソンの力で、日本のスポーツの海外発展のきっかけを築いてくれ。
勝ってこいというのではない。
最善を尽くしてくれればいいのだ。
日本スポーツ界のために『黎明(れいめい)の鐘』となりなさい」
と説きました。

黎明とは、夜明けのことです。
「黎明の鐘」という言葉にしびれた、と四三は決意します。

「実力を発揮すれば必ず金メダルが獲得できる!」
マラソンシューズなどは持っていないので、四三は底を厚く縫い合わせた足袋を履いて競技していました。
この格好で、絶対に優勝してみせるとの信念で、ストックホルムへと向かいました。

開幕の直前、組織委員会から「日本の国名標示をどうするか」と問い合わせが来ました。
四三が「正式の国名どおりに漢字で『日本』とすべきでしょう」と提案。
「それでは外国人には読めない。やはり英語でJAPANに」と国際通の監督。
ところが、四三は
「それは外国人が勝手につけた名前です。
『日本』という本当の呼び名を使い、世界の人々に知らせる必要がある。
JAPANならプラカードを持つのをやめます」
と譲りません。
困ったみんなが一斉に団長の嘉納治五郎の顔を見ます。
「ウーム、どちらも一理ある。発音はニッポン、標記はローマ字。つまりNIPPONでどうか」
この調停に一件落着しました。

このエピソードは、四三が母国日本のために戦うと強く決意していたことを良く表しています。

◆(資料ここまで)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

●発問2の答は「その他」→「日本のため」でした。
「国の代表」という重みと四三の気概を感じ取らせたいところです。

五輪ストックホルム大会旗手
金栗四三3

1912年7月14日 開会式の入場行進
短距離走の三島弥彦が国旗、四三はプラカードを持つ。
出場選手わずか2名のため、行列人数が非常に少なく、観衆の同情をひいた。


【資料3】歴史に残る過酷なレース◆◇◆◇◆◇◆◇◆

オリンピック最終日、マラソンがスタートしました。
しかし、四三は冬のマラソンしか経験が無かったのです。
しかも当日は北欧では珍しい猛暑の40度近い炎天下、参加選手68人中で完走したのはわずか37人でした。
意識不明で死者まで出る歴史に残る過酷なレースになったのです。

母国日本の期待を一身に背負った四三も、初めての海外遠征・慣れない洋食・白夜(びゃくや)とストレスによる睡眠不足がたたり、25キロを過ぎたところで意識不明となりました。
熱中症です。

近くの農家に助けられ、目を覚ました時は翌日の朝になっていました。
競技中に姿を消したので大騒ぎになり、「日本人選手が行方不明」と新聞にまで載ってしまいました。

四三は日記に

「大敗後の朝を迎えた。
自分の一生で最も重大な記念すべき日だったのに。
しかし、失敗は成功の基、またその恥をすすぐ時が来る。
雨降って地固まるの日を待つのみ。
笑わば笑え。
この敗北は日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものである。
重い責任を果たせなかったことは、死んでもなお足らないけれども、死ぬことは簡単なことである。
生きてその恥をすすぎ、粉骨砕身(ふんこつさいしん)してマラソンの技を磨き、日本の名誉を示そう」

と、あふれる涙をぬぐいながら書きました。

■翌日の日記原文
大敗後の朝を迎う。終生の遺憾のことで心うずく。
余の一生の最も重大なる記念すべき日になりしに。
しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ。
人笑わば笑え。
これ日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり。
この重任を全うすることあたわざりしは、死してなお足らざれども、死は易く、生は難く、その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん。(以上抜粋)


帰国後、四三は4年後の第6回ベルリン大会を目標に練習に励みました。
日本選手権などで2回も世界最高記録を出し、誰もが今度こそ金メダル間違いなしと思いました。

しかし、1914年に第一次世界大戦が勃発し、オリンピック自体が中止になってしまいました。

それでも、四三はまったくあきらめませんでした。
歴史と地理の先生をしながら、さらに自分の走りに磨きをかけます。
そして迎えた第7回アントワープ大会。
優勝を期待されながら、今度は寒さによる足の痙攣(けいれん)で無念の16位。

次の第8回パリ大会(1924年)では、四三すでに33歳。
32キロ地点で棄権を余儀なくされました。

結局、四三はストックホルムのリベンジを果たせないまま、悲運のアスリートと言われるようになりました。
金栗四三4

第八回パリ大会で激走する四三(1924)

◆(資料ここまで)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


◆ 発問 3~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

【資料3】を読んでどう思いましたか?
このあと、金栗四三はどうなったでしょうか?


◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

(つづく)
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