授業づくりJAPANの「日本人を育てる授業」

わたしたちは誇りある日本人を育てたい。真の国際派日本人を育てたい。

小村寿太郎

■安達弘先生の「小学校歴史人物学習 <なってみる日本史>」の紹介を続けます。
「東郷平八郎」は「日清戦争と日露戦争」の授業(全5時間)の4時間目です。
これは安達先生のブログ「授業づくりJAPAN YOKOHAMAプライマリー」から転載しています。

安達先生の授業は文科省推薦のアクティブ・ラーニングの歴史授業版です。
また、B4用紙裏表印刷のプリント(ワークシート)1枚だけで学習できる画期的なスタイルによって、
ユニバーサルデザインを実現した歴史授業としても定評があります。
誰でも成果が出せる授業であり、誰もが意欲的に学習に取り組める授業です。
 

■横浜の小学校6年生の思考力・表現力がみごとです。
 全国の先生方、ぜひ追試してみてください!


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小村寿太郎

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 日露戦争の第2時である。
 ポーツマス講和会議をテーマにして小村寿太郎を取りあげる。

小村寿太郎肖像
小村1


<ワークシート・第1ページ>

★日露戦争を終わらせるための講和会議が行われることになりました。
下の写真はその時に撮られたものです。
気づいたことを箇条書きで3つ書き出した後、下の質問に対してのあなたの予想を書いてみて下さい。

<質問>この講和会議はアメリカのポーツマスという小さな町で行われました。なぜ、会議はアメリカで行われたのでしょう?


ポーツマス講和会議
小村2

 児童の気づきは以下のようなものが出てきた。
「みんな真剣な表情をしている」
「資料のようなものがテーブルにある」
「左が日本で、右がロシアだと思う」
「真ん中の椅子が空いている」
「ペンのようなものもある」
「5対5」


 質問についてはこんな予想が出された。
「日本またはロシアでやると戦争中なので不公平になる」
「とても両国では押さえきらないのでアメリカに頼んだ」
「アメリカは関わりがないから選ばれた」
「お互いの国でやるとどちらかに有利になるので危険だから」
「薩長同盟と同じで自分たちでは話し合いが進められないから頼んだ」



<ワークシート・第2ページ>

★ポーツマス講和会議が始まるまで

①国力の限界
 圧倒的な国力をもつ大国ロシアにくらべれば日本はまだ小さな国でした。ですから、戦争が始まったころから自分たちが優位なうちに講和に持ち込もうと考えていました。そして、ロシア軍に対して優位に戦闘を続けることができていましたが、すでに日本の国力は限界に来ていました。

②アメリカに仲介をたのむ
 これ以上、戦争を続ければ大国であるロシアの兵力が増強され、いつ逆転されてしまうかわかりません。そんな中、日本海海戦で大勝利をおさめたことで日本は講和会議に持ち込むチャンスがやってきたのです。日本は、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に日本とロシアの間に入って講和会議を進めるようにたのみました。この当時、アメリカは日本を支持していたからです。

③小村とウィッテ 
 日本側の代表に選ばれたのが小村寿太郎です。小村は、身長148㎝の小さな体でした。かつて、駐米大使になった時、ある人に「外国人の中にまじったら子どものように思われますよ」と言われ、「だいじょうぶです。わたしは日本を代表して行くのですから。日本は小さくても強いですからね」と答えたと言われています。
 対するロシア側代表のウィッテは身長180㎝の大きな体でした。
 ウィッテは、ロシア皇帝から「わずかの土地も金も日本に与える条約は結ぶな」と命令されていたと言われています。そのためウィッテは「講和会議がうまくいかなくてもしたがない。ロシアは戦争を続ける準備もできている」という態度をとっていました。

④国民の期待   
 しかし、講和会議を前にして日本の国民の多くはあの大国であるロシアに勝ったのだから多くの賠償金を勝ち取ってほしいと考えていました。日露戦争は多くの戦死者を出し、国民も多くの負担に耐えてきていたので、賠償金を期待していたのです。

講和会議の3人
小村3



<ワークシート・第3ページ>

★小村寿太郎になって考えてみよう

 講和会議はポーツマスの海軍造船所を改築した会場で行われました。日本とロシアの代表団はホテルに宿泊し、そこから船で会場に行きます。講和会議は17回にわたって行われました。
 第1回目の会議で日本は12項目の要求をロシアに提示しました。そのなかの重要なものを3つにまとめたので見て下さい。


 A:ウラジオストックをロシア海軍の軍港からふつうの商業のための港にすること。そして、ロシア海軍の兵力を制限してこれ以上強くならないようにすること。

 B:日本は大きな損害を受けたので、ロシアは賠償金を支払うこと。また、樺太を日本の領土にすること。

 C:日本陸軍とともにロシア陸軍も満州から引き上げ、満州の鉄道とリャオトン半島を日本にゆずること。 また、朝鮮半島のことについては日本にまかせること。


 この3つの要求の中で日本が「絶対にゆずれない」と考えていたのはどれだと思いますか?
あなたもこれから交渉する小村寿太郎になって考えてみてください。

◇あなたの考えを書いてみましょう。あとでみんなで話し合ってみましょう。


 児童の意見分布は以下のようになった。
       
1組・・・A 7人  B 3人  C 18人

2組・・・A 9人  B 5人  C 14人


 主な意見を紹介する。

<A派>
*ロシアは戦争を続ける準備もできているので、次の戦いでは日本は負けてしまうかもしれないという状態だから。

*ロシア海軍が強くなって日本に攻め込んできたら日本は包囲されてしまう。ロシア海軍をこれ以上強くしてはいけない。

*ウラジオストックは日本に近いので危険。


<B派>
*国民の期待に応えるために賠償金を払わせる。

*多くの国民が望んでいる賠償金をウィッテを説得してもらえれば、国の再建ができる。土地をもらってもやっぱりお金が必要になるから。

*樺太が日本の領土になればロシアは攻めにくくなると思う。


<C派>
*ロシアが引き下がれば日本は安心できる。もし裏切られれても朝鮮半島が日本にまかせられればそこを通ることはできないので日本までは簡単に来られない。来たとしても時間がかかりその間に逆に日本が攻めることができる。

*ロシア陸軍が満州から引き上げないとまたロシアと戦争になってしまうかもしれないし、とても広い満州や朝鮮を領土にできて一石二鳥だ。

*朝鮮半島が他の国のものになってしまえば、その国が攻めてきたときに絶対に不利だから。朝鮮半島が安定していれば前のように朝鮮を他の国が渡って来て攻められることは少なくなると思う。

*AやBも大切だと思うけど、鉄道やリヤオトン半島を取れれば、貿易したりして賠償金以上にお金が儲かる。




<ワークシート・第4ページ>

★ぎりぎりの交渉を成功させた小村寿太郎

 日本が「絶対にゆずれないこと」と考えたのはCです。
これまでの歴史をふり返れば、日本が外国からの危機に直面するのは、つねに朝鮮半島が敵対する国の手に落ちたときです。ですから、朝鮮半島が安定した状態にあることが何よりも重要でした。また、そこから一歩進んで満州も敵対する国に取り込まれないようにすることも大事だったのです。

小村のねばり強い交渉により「絶対ゆずれないこと」と考えていたCはすべて取ることができました。また、「できれば達成したいこと」と考えていたBも、賠償金は取れませんでしたが、樺太の南半分を取ることができました。ですから、交渉はほぼ引き分けで終わり、講和会議は成功したと言ってもよいでしょう。

 しかし、日本の国民はこの講和条約の結果に満足しませんでした。賠償金が取れなかったことに対して非難が高まり、全国各地で「講和条約反対」「戦争を続けろ」と集会が開かれました。また、暴動も起こり、大臣官邸や新聞社、交番などが焼き討ちされる事件にまで発展しました。 
 日本政府は「ロシアが戦争を続けようとすれば日本は負ける」という情報を国民に知らせることはできませんでした。なぜなら、この情報がロシアにもれれば戦争も講和会議も不利になるからです。そのため、国民の多くは「大国ロシアなら多額の賠償金を取ることができる」と信じていました。

日比谷焼き討ち事件
小村4

75年後のことです。作家の吉村昭さんは小説を書くためにポーツマスを訪れました。このとき吉村さんは、当時の会議場を警備していた90才の男の人に質問をしました。
「小村は、ずいぶん小さな人と思われましたでしょう」
すると男の人はこう答えました。
「とんでもない。一国を代表する堂々とした人で、小さくなどありませんでした」
この言葉の中に、日本の運命を背負い、つらくきびしい役目を果たそうとした小村寿太郎の姿がうかびます。


 児童の感想を紹介する。
*小村寿太郎は、国民に非難されるのに、それができたすごい人だと思います。勇気があるなと思いました。身長は低くても気持ちはすごく大きな人だと思います。

*小村寿太郎は体は小さいのに、日本のために堂々として講和会議をしたことはすごいことだと思いました。

*体の大きさではなく、意志の強さが相手にも伝わったと思います。もしも、自分が政府の事情を知らない国民だったら同じように怒ると思います。

*こんなに人々が苦しんでたくさんの犠牲者が出たにもかかわらず賠償金を得られなかったのは国民にとっても苦しかったと思います。でも、これからのことを考えると満州と朝鮮が譲れなかったんだと思いました。

*小村寿太郎は慎重148センチの小さな人だったけれど、警備をしていた人の話から心がとても大きな人だったということがわかりました。寿太郎のねばり強い心もあって、交渉も成功したんだろうなと思いました。
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東郷平八郎

■安達弘先生の「小学校歴史人物学習 <なってみる日本史>」の紹介を続けます。
「東郷平八郎」は「日清戦争と日露戦争」の授業(全5時間)の3時間目、「日露戦争」の授業の1時間目です。
これは安達先生のブログ「授業づくりJAPAN YOKOHAMAプライマリー」から転載しています。

安達先生の授業は文科省推薦のアクティブ・ラーニングの歴史授業版です。
また、B4用紙裏表印刷のプリント(ワークシート)1枚だけで学習できる画期的なスタイルによって、
ユニバーサルデザインを実現した歴史授業としても定評があります。
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         東郷平八郎

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 日露戦争の学習の第1時となる。
 東郷平八郎を取りあげる。

東郷平八郎肖像
東郷1

『日露戦争の学習の1時間目です。東郷平八郎について学習しましょう』



<ワークシート・第1ページ>

★下の絵は日露戦争でこれから日本海海戦にのぞむ戦艦・三笠の艦橋のようすです。
この絵を見て気づいたことを箇条書きで書き出してみましょう。

三笠艦橋図
東郷2


児童からは以下のような気づきが出された。そして、それに対して適宜、解説を加えた。

「真ん中に偉い人がいる」

「東郷平八郎だと思う」
『その通り、東郷平八郎です』
子どもたちはこの東郷に関連して「左に剣を下げている」「右手に何かを持ってる」など、東郷の持ち物にも興味を示す。
そこで剣はサーベルという西洋の剣であることから、日本が西洋に学んで軍隊を作ったことや、右手に持っているのは双眼鏡であることを教える。

「黒い服の人に中に白い服の人が混ざっている」
『黒い服の人は将校と言って位の高い人たちで、白い服の人は水兵さんです』

「煙が出ている」
『この煙で当時のエネルギーが石炭であることがわかります』

「布団のようなものがたくさん巻かれている」
『これは水兵さんたちが寝るときに使うハンモックです』(写真を見せる)

「旗があるけれどどこの国のものかわからない」
『これはZ旗と言います。たいへん重要な意味を持っています』

その他にこんな意見も出てきた。
「みんな険しい表情をしている」
『これから戦争が始まる直前なのでその雰囲気が伝わってきますね』

「天気がとってもいい」
「煙がたなびいているので、風が右から左へ吹いているのがわかる」

天気晴朗なれども波高し・・・に関連する意見まで出てきた。
その他「望遠鏡かな?」と距測儀に気づく子もいる。距離を測る道具であることを教える。

また、奥に続く船の存在にも気づく。
そこでこの当時の海戦は味方の船が一直線に並んで戦うものであることにも触れておく。

戦艦三笠
東郷3

ハンモック
東郷4



<ワークシート・第2ページ>

★日本の運命を変える日本海海戦

①薩摩出身で西郷さんとはご近所
 東郷平八郎は薩摩(いまの鹿児島県)出身です。幕末から明治維新まで活躍した西郷隆盛とはご近所でした。平八郎は先輩の西郷隆盛やその弟・従道に勉強を見てもらったり面白い話を聞かせてもらったりして少年時代をすごしました。

②連合艦隊司令長官になる
 その後、海軍に入った東郷は日露戦争の始まる前に連合艦隊司令長官になりました。現場を指揮するリーダーとなったのです。東郷と同じくリーダーになれる力をもっている人は何人かいましたが、日本の運命を決める日露戦争を間近にひかえ「強い運をもっている」と言われる東郷が選ばれたのです。
 
③バルチック艦隊
 東郷平八郎がひきいる連合艦隊はロシアの2つの大艦隊のうち太平洋艦隊はすでに
壊滅させていました。しかし、もう一つのバルチック艦隊が遠くヨーロッパを出発したという情報が入りました。バルチック艦隊が決戦の地へ到着するには6ヶ月かかりました。
 この間に、連合艦隊は作戦を何度も練り直し、大砲を正確に射撃する猛特訓をくり返し
ていました。
 迎え撃つ準備をしているときの東郷の悩みはこのバルチック艦隊がどこを通ってくるかわからないことでした。対馬海峡ルート・津軽海峡ルート・宗谷海峡ルートの3つが考えられます。しかし、この3カ所すべてに戦力を分けてしまうと力が弱まってしまいます。どこか1カ所にすべての戦力を賭けるしかありません。東郷は「バルチック艦隊は対馬海峡を通る」と予想してこの周辺を警戒しました。そこへ「敵艦見ゆ」とバルチック艦隊発見の連絡が入ったのです。東郷はやはり「運の強い」人だったのです。

④Z旗
 連合艦隊の旗艦である戦艦・三笠に乗り込んでいた東郷は出発を命じ、本部に「艦隊見ゆとの警報に接し連合艦隊はただちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども浪高し」と電報を打ちました。
 東郷はバルチック艦隊を見つけると、
三笠にZ旗を掲げました。これは、
「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」(日本が生き残るか滅亡するかはこの戦いで決まる。全員がさらに気持ちを高め、努力してこの戦いにいどめ!)という意味です。

Z旗
東郷5



<ワークシート・第3ページ>

★東郷平八郎になって考えよう―反航戦か同航戦か

 もし、日本がこの海戦で敗れると制海権をロシアに奪われ、日本から中国大陸へ兵士や武器、燃料や食糧が運べなくなってしまいます。日本の輸送船はことごとくロシアの戦艦の攻撃を受けて沈められてしまうでしょう。
 そんなことになれば、日本の負けは決まったも同然です。
 ですから、この海戦は絶対に勝たなければなりません。また、たとえ勝ったとしても相手を全滅させなければ意味がありません。2~3隻でもロシアの戦艦が残ってしまえば、日本の輸送船はやはり攻撃を受ける可能性が高くなるからです。

 じつは当時の海戦は主に2つの戦い方がありました。反航戦と同航戦です。

   
①反航戦・・・お互いにすれちがいながら相手に向けて大砲を撃ちます。
東郷6

②同航戦・・・お互いに同じ方向に進みながら大砲を撃ちます。
東郷7

 
 さて、日本の連合艦隊はロシアのバルチック艦隊とどちらの戦法で戦うか、意見が分かれていました。
 あなたがリーダーである東郷平八郎なら、どちらを選びますか?


◇あなたの意見を書いてみましょう。あとでみんなで話し合ってみましょう。

 意見分布は以下のようになった。

      反航戦   同航戦
1組・・・  15人    9人 
2組・・・  20人    9人

 主な意見を見てみよう。

<反航戦>
「ぼくは、反航戦がいいと思います。すれ違いに撃っているから運がよければ当たらない。東郷は運がいいから当たらないはず」

「同航戦だと大砲の数はバルチック艦隊の方が多いと思うので、撃ち合いを続けたら負けてしまうかもしれないので、反航戦の方がいいと思う」

「同航戦だと相打ちになったり、戦力が高いロシアに1隻ずつやられてしまうかもしれない。反航戦ならこっちが残るかもしれない。反航戦ならば1隻1隻の強さがバラバラでもバランスよく戦える気がする」

「反航戦に賛成です。理由は同航戦だと、ずっと攻撃できるけれど、相手は最強の国だから勝てるとは思えない。反航戦にすればすれちがう一瞬にたくさん攻撃すれば相手から逃れられる」

「反航戦です。同航戦だと戦っている時間が長いので、まともに勝負することになる。それだと相手は最強なので勝つのは難しい。反航戦なら少ない時間にすべてを賭けられる。それに日本は練習しているので、確実に当てられるはず」


<同航戦>
「同航戦がいい。反航戦では、すれ違うときは時間が少ししかない。バルチック艦隊を完全に倒す前に通りすぎてしまうかもしれない。日本は撃つ練習をしているし、運もいいので、平八郎なら堂々と勝負しても勝てるはず」

「同航戦の方がいい。理由はこの戦い方をすれば相手との速度がほとんど同じで反航戦に比べて大砲の当たる確率が高くなるからです。相手は6ヶ月も船に乗り続けているので大砲を撃つ集中力もほとんどなくなっていると思う」

「同航戦です。なぜなら、ロシアの船が2,3隻でも残ったらダメだから、残す確率を低くするために同航戦にした方がいい。大砲を正確に当てるためにはその方が可能性が高い」

「日本はバルチック艦隊を全滅させなければならない。反航戦では一瞬しか戦えないけれど、同航戦では何度も打てるから全滅させやすい」

『じつは、ここまで反航戦がいいか?同航戦がいいか?と話し合ってもらいながら,こう言うのも何ですが・・・じつは東郷はどちらも取り入れたというか、第3の方法を使ったんです。では、その戦法を見てみましょう』



<ワークシート・第4ページ>

★日本海海戦での勝利-敵前大回頭と丁字戦法

 Z旗を掲げたとき、バルチック艦隊との距離は12000㍍でした。
 このまま行けば、連合艦隊はバルチック艦隊に対して平行したまますれ違い、反航戦の状態になります。
 ところが、距離が8000㍍まで近づいたとき、東郷は船の針路を大きく変える指示を出しました。バルチック艦隊の先頭を押さえるような形で左へカーブしたのです。のちに「敵前大回頭」(トーゴー・ターン)と呼ばれる指示でした。
 これは丁字戦法(またはT字戦法)と呼ばれています。大きくカーブするために、船は速度が落ちて相手にねらわれやすく危険です。しかし、味方の大砲をすべて1点に集中して攻撃できる利点もあります。

丁字戦法
東郷8


 予想通り、バルチック艦隊は先頭の「三笠」に攻撃を集中しました。しかし、ロシア側の砲撃はほとんど当たりませんでした。ターンの間、相手の砲撃にじっと絶えていた連合艦隊はついに攻撃を開始し、丁字戦法から同航戦となりました。
 連合艦隊の射撃は正確でした。バルチック艦隊の主力艦である「スワロフ」「オスラビア」「アレクサンドル3世」などを撃沈し、ほぼ全滅させたのです。日本側の一方的な勝利となったこの日本海海戦は世界中を驚かせました。この海戦での勝利によって戦争終結にむけて大国ロシアとの交渉が可能になったと言ってよいでしょう。

日本海海戦図
東郷9

東郷10

 その後、東郷は負傷して捕虜となったバルチック艦隊のリーダーであるロジェストヴェンスキーのお見舞いに長崎県の病院に出向きました。このとき、東郷は6ヶ月の苦難の大航海を成功させたにもかかわらず惨敗したロジェストヴェンスキーにねぎらいの言葉をかけたと言われています。また、海に投げ出されたロシア兵の多くが、日本軍の救助活動によって助けられました。

『戦艦三笠は今も見ることができます。横須賀の三笠記公園にありますから、よければ見に行ってみてください。京浜急行の横須賀中央駅から歩いて15分ぐらいです』

三笠記念公園
東郷11


子どもの感想を見てみよう。

*やはり、思っていたとおり日本はすばらしい。世界一に勝った上にロシア軍を助けてあげたなんて、もう言葉にできない。

*日本人は戦った相手を最後は助けるというのがすごい。平八郎は丁字戦法を選んだわけだか、そうとう自分の運に自信があるんだなと思った。

*日露戦争に勝てたのは東郷平八郎さんのおかげだと思いました。ロシアに勝てたのはすごい!日本は頑張れば勝てるんだと思いました。

*東郷平八郎のこの戦法は本当にすごくて感動しました。ロシア兵を助けた日本兵のこの心こそが今の日本に必要なのではない思いました。

*ロシア兵を助けたのはすごい優しいと思います。昨日勉強したイギリス人船長とは大違いだと思いました。でも負傷させられてねぎらいのことばをかけれれたロジェヴィンスキーは悔しかったと思うけど、日本人の賢さと優しさは伝わったと思います。

*ロシアは強い国で、かなわないと思っていたが、勝って日本はもう世界と肩を並べたと言っていいと思う。これに負けていたら今の日本はどうなっていたのか心配になった。やはり、昔の軍人はすごいと思った。

陸奥宗光


■安達弘先生の「小学校歴史人物学習 <なってみる日本史>」の紹介を続けます。
「日清戦争と日露戦争」の授業(全5時間)の1時間目(導入)です。
これは安達先生のブログ「授業づくりJAPAN YOKOHAMAプライマリー」から転載しています。

安達先生の授業は文科省推薦のアクティブ・ラーニングの歴史授業版です。
また、B4用紙裏表印刷のプリント(ワークシート)1枚だけで学習できる画期的なスタイルによって、
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陸奥宗光

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『前回から日清戦争・日露戦争の学習に入りましたが、ここでその前に大事な出来事が起きました』
 
 陸奥宗光の肖像写真を見せる。

陸奥宗光肖像
陸奥宗光1


『この陸奥宗光が活躍します』


<ワークシート・第1ページ>

★下の風刺画を見て気づいたことを箇条書きで書き出しましょう。

ノルマントン号事件風刺画
陸奥宗光2


 有名なビゴーの風刺画である。
 児童からは以下の気づきが出された。

「奥に壊れて沈没しかかった船がある」

「船は斜めになっている」

「そこからおぼれかけている人が流されている」

「小舟に乗っている人はなんか助けていない感じがする」(教室はまさか?助けないなんて・・・という雰囲気である)

『そうです。助けていません』
「えーひどい!」

「船長らしき人が浮き輪を持っているのに使おうとしていない」

「なんだかみんな偉そうにしている」

「タバコを吸って余裕みたいな感じでひどい」

『これはノルマントン号事件と言ってイギリスの船長が乗客の日本人を見殺しにしてしまったのです』



<ワークシート・第2ページ>

★不平等条約改正を成功させた陸奥宗光

乗客を見殺しにしたノルマントン号の船長はなんと無罪となりました。
なぜなら、日本とイギリスの間には治外法権を認める不平等条約が結ばれていたので、日本の法律で裁くことができなかったのです。
当時は日本国内で外国人が行動できる範囲には制限がありました。治外法権があるので自由に行動されると問題が起こる可能性があったからです。ただし、西洋人は「自由に行動させてほしい」と言っていました。

外国人行動制限
陸奥宗光3


『見てわかると思いますが、神奈川県でもこの線の内側しか自由に行動はできない決まりになっていました。では、この不平等条約を改正した陸奥宗光について調べてみましょう

①海援隊で活躍
 陸奥宗光は紀州藩(いまの和歌山県)の出身です。
 幕末は坂本龍馬の海援隊に入って活躍しました。龍馬は「もし武士をやめても食べていけるのはオレと陸奥だけだ」と言って、宗光の才能を認めていました。

②ヨーロッパで勉強
 明治時代になると、伊藤博文にすすめられてヨーロッパに留学しました。
 宗光は、イギリスで内閣制度・議会などがどのようなしくみで運営されているのか、徹底的に勉強しました。また、伊藤博文と同じく、オーストリアのシュタイン博士について憲法を学びました。

③メキシコと平等条約を結ぶ
 ヨーロッパから帰国すると、外務省で仕事をすることになりました。
 駐アメリカ公使及び駐メキシコ公使として、メキシコとの間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を結ぶことに成功しました。これで条約改正への足がかりができたのです。

④条約改正に成功
 その後、宗光は第2次伊藤内閣のもとで外務大臣となりました。
 宗光が外務大臣になる前にも、日本は不平等条約を改正するチャンスが何度かありましたが、ことごとく失敗していました。
 しかし1894年、ついに黒船来航以来の不平等条約の改正に成功し、イギリスと平等な条約である日英通商航海条約を結びました。その後、アメリカも同じく平等条約に調印、ドイツ、イタリア、フランスなどとも同じように平等な条約に改正しました。
 宗光が外務大臣の時に、不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で条約改正に成功したのです。

⑤日清戦争の下関条約
 日清戦争に勝利したのち、宗光は伊藤博文とともに清国代表と話し合いました。そして、この会議で下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終わらせることに成功しました。しかしその後、ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉により、遼東半島を清に返還するもやむを得ないとの立場に立たされました。



<ワークシート・第3ページ>

★陸奥宗光になって不平等条約改正の方針を考えてみよう

 不平等条約の改正は、当時の日本人すべての目標であり悲願でした。
 なぜなら、これがある限り日本は西洋の国々から下に見られ、植民地化の恐怖からのがれることはできません。
 つまり、不平等条約の改正は西洋の国々と対等になることの証なのです。
 
 これまで何人もの日本の政治家が不平等条約の改正にチャレンジしてきましたが、失敗に終わっています。では、条約改正を成功させた陸奥宗光はどのような方針で交渉にのぞんだのでしょうか?

A:国民のがまんも限界にきているので、西洋人の国内での行動制限を完全にする。
 そして、すぐに平等な条約の実施を要求しよう。
 (行動制限+すぐ実施)

B:国民のがまんも限界にきているので、西洋人の国内での行動制限を完全にする。
 しかし、すぐは無理なので5年後に実施する約束で、平等な条約を要求する。
 (行動制限+5年後に実施)

C:こちらも歩み寄る気持ちを見せるために、西洋人の国内での行動を自由にする。
そして、すぐに平等な条約の実施を要求する。
 (行動自由+すぐ実施)

D:こちらも歩み寄る気持ちを見せるために、西洋人の国内での行動を自由にする。
しかし、すぐは無理なので5年後に実施する約束で、平等な条約を要求する。
 (行動自由+5年後に実施)


◇上の4つの中から一つ選んで、その理由を書いてみましょう。後で話し合ってみましょう。

 子どもたちの意見分布を見てみよう。

A・・・1組  1人   2組  1人
B・・・1組  0人   2組  3人
C・・・1組 15人   2組 15人
D・・・1組  9人   2組 10人

 主な意見は以下のようなものである。

*A派
「このままにしておくと危険なことがどんどんおきてしまう」


*B派
発言なし


*C派
「行動自由というのは西洋人が言っていたことなので、それをかなえることで不平等条約改正に少し近づくことができる。でも、5年後だと言ったら相手も忘れるかもしれないし、年月が経ってしまって「前のことは前のこと、今は今」みたいなことを言われてしまうかもしないのですぐにする」

「行動自由と引き替えに条約を改正させる。もし、断ってきたら行動範囲を狭くすればいい。犯罪が起きてもずぐに裁けるようにすぐ実施がいい」

「行動を完全に制限してしまうとナマイキだ!と言われて」改正できなくなるし、5年待っているとあっちもいろいろな作戦を立ててしまうから、行動を自由にするからすぐ改正しましょうと持ちかける」


*D派
「5年度に実施にした方が国民も落ち着くだろうし、5年後と言った方が確実に結べると思うから。行動自由の方が西洋の国々も条約改正の話に乗ってきてくれと思う」
「西洋人を自由にしたら、それなら!と言う感じの気持ちにもなると思うから。今すぐだと混乱してしまうので、計画を一度しっかりと立ててからやる方がいい」
「日本も歩み寄る気持ちを見せないと、西洋のことを嫌っているのかと悪く思っているように見られて改正を申し込んだときに断られてしまう。何よりも信頼し合えば言うことを聞いてくれるはず。でも、今すぐは信頼し合うことはできないので、5年後にする」



<ワークシート・第4ページ>

★条約改正に向けての宗光の演説

 宗光のとった方針はDでした。
 宗光は条約改正に向けて国会で次のような演説をしています。

みなさん!
 私は、明治維新以来、政府がとってきた外交上の大方針を明らかにしていきたいと思います。
日本はこれまで開国主義によって国家を進歩させてきました。
明治の始めのころと今の日本を比べてみましょう。
 貿易額は5倍以上になり、陸には鉄道や電線が敷かれ、海には数百もの船が浮かび、軍隊も西洋の国々とひけをとらないほど整備されました。
言論の自由も広がり、いろいろな制度も改良され、学問や技術も進歩しました。
とくに強調したいのは憲法が作られ、議会が開かれて立憲制度が整ったことです。
この20年間の進歩は西洋の国々も世界に例のないことだと驚いています。

さて、外国との交際はギブアンドテイク(あげる・もらうが平等)でなければいけません。
 日本の中にはいまだに「外国人は危険なので日本国内に住まわせるな!」と言っている人がいますが、これは開国主義に反します。
こんなことを言っていたら外国に住む日本人にも同じようなルールが決められて、損をするのは日本人なのです。
「条約を改正したい」と思うならば、このような考え方を改める必要があります。
 外国から条約改正を求めてくるなどということはありえません。
条約改正を成功させるためには、日本の進歩を外国に示すことです。
そして、その進歩は開国主義をとることによって可能になります。
大事なことは、国として受けるべき権利は受け、国として尽くすべき義務をやりとげることなのです。
したがって外交で重要なのは、自分の国を大事にしながら謙虚に行動し、外国人を侮らずそして恐れず、互いに尊敬し合う関係を作ることで文明強国の仲間入りをすることなのです。



児童の感想を紹介する。

*陸奥宗光は不平等条約を改正し、日本を動かした人だと言うことがわかりました。演説を聴いて、私がこれを当時聴いたら絶対納得していたと思いました。

*宗光の言うとおり「互いに尊敬し合う関係を作ることで文明強国の仲間入りをすることです」にはとても共感しました。お互いに尊敬し合うことができたなら、仲良くできるし、そういう条約も改正できるから宗光の演説はとてもすごいなと思いました。

*日本は強いことが世界に認められるのも、遠くないと思う。また、イギリス(最も強い国)に条約を結ばせた宗光は、国民のため、未来の日本のためにやったと思う。


日清戦争と日露戦争

■安達弘先生の「小学校歴史人物学習 <なってみる日本史>」の紹介を続けます。
「日清戦争と日露戦争」の授業(全5時間)の1時間目(導入)です。
これは安達先生のブログ「授業づくりJAPAN YOKOHAMAプライマリー」から転載しています。

安達先生の授業は文科省推薦のアクティブ・ラーニングの歴史授業版です。
また、B4用紙裏表印刷のプリント(ワークシート)1枚だけで学習できる画期的なスタイルによって、
ユニバーサルデザインを実現した歴史授業としても定評があります。
誰でも成果が出せる授業であり、誰もが意欲的に学習に取り組める授業です。
 

■横浜の小学校6年生の思考力・表現力がみごとです。
 全国の先生方、ぜひ追試してみてください!


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        日清戦争と日露戦争

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 日清戦争と日露戦争の学習の導入に当たる授業である。
 なお、この学習に入る前に次の話を朝の会等でしておく。
『これからは戦争の学習が続きます。その戦争の学習に入る前に戦争について学ぶときの3つの心得をお話ししておきます』

 ①戦争は悪い人がいるから起こるのではない。
 ②戦争には必ず原因がある。
 ③戦争を避けるにはどうすればいのかを考える。

 『悪い人がいるから戦争が起こるという考え方は幼稚です。君たちはもう6年生なのだから、原因を考えて下さい。それがわかれば戦争を避けるにはどうしたらいいのかわかるはずです』

 本時は2枚の地図を見せるところから始める。
 最初に図1を見せて児童に問う。
『図1は間違っています。どこが違うかわかりますか?』
必ず誰かが気づく。
「朝鮮半島がない」「韓国がない」
『そうですね。正しいのは図2です』
と言って図2を提示する。
 なおここで、Aがロシア、Bが清、Cが日本であることを確認する。

日本周辺図①
日清日露1
日本周辺図②
日清日露2
 ワークシートを配布する。
 
<ワークシート・第1ページ>

★下の二つの日本周辺図を見て、考えてみましょう。図1はまちがった地図で、図2は正しい地図です。 なお、Aはロシア・Bは清(中国)・Cは日本です。
 
 この二つの地図を見比べると朝鮮半島が日本にとってとても大事な場所であることがわかります。
 なぜ、大事なのでしょうか? 
 また、これまでの歴史の学習を振り返って、朝鮮半島が日本にとって大事な場所である理由を見つけて下さい。


 子どもたちからは以下のような意見が出てきた。

「近いから」「近いから貿易ができる」「近いからすぐに届けることができる」
「朝鮮だけでなく清とか大陸とも貿易ができる」「近いから新鮮なものが届けられる」
「大事な情報とかもここから取ることができると思う」
『そうか・・・新鮮というのはモノだけでなくて情報と言うこともあるかもしれないね』

「なんか大陸とかから強い国が来るときにここで防げる感じがする」
『防波堤みたいな感じかな?』

「たしか江戸時代には朝鮮通信使とか来ていて日本と仲が良かったはず」
「貿易もしていた」「渡来人とかも来ていた」
『みんなの意見を聞いていると朝鮮半島は日本と近いので貿易などで大事だということですね。朝鮮半島は大陸と日本の間にあります。よく見ていると何かに似ていませんか?』
ここは授業をした2クラスとも「橋みたい」という意見が出た。

『ある人は朝鮮半島は日本にとって大陸とつながる橋のようなものだと言っています。でもこれはこれまでの日本の歴史を振り返るといい橋のときもあったし、こわい橋のときもありました』

<板書>

橋・・・いい橋
    こわい橋

『いい橋のときとこわい橋のときを思い出して下さい』

「いい橋は渡来人が来たり、貿易しているとき」
「こわい橋はたしか・・・元寇のときだ」
『そうでしたね。では朝鮮半島が日本にとって非常に重要な場所であることがわかったところで日清戦争と日露戦争の学習に入りましょう』


<ワークシート・第2,3ページ>

★日清戦争と日露戦争を比べて、2つの戦争の共通点を考えよう

日本は明治時代の後半に2つの大きな戦争を経験しています。この2つの戦争についての説明を読んで、共通点を見つけてみましょう。

(1)日清戦争

①朝鮮をめぐって対立
 清は「昔からの決まりで朝鮮はわれわれの支配下にある属国(ぞっこく)である」と考えていました。しかし日本は「朝鮮は独立して新しい近代的な国になってもらいたい」と考えていました。朝鮮半島にしっかりした独立国があることが、日本の安全にとって重要だったからです。
 このように朝鮮をめぐって対立していた日本と清は、朝鮮に出兵する場合には互いに事前通告することを約束していました。
 そんな中、1894年に朝鮮内部で大きな戦争が起こりました。この戦争は、キリスト教に反対するグループが朝鮮政府に対して税金を下げることとと外国人を朝鮮から追い出すことを求めたもので、そこに農民が加わったものです。

②日清戦争始まる
 これを自分の力でおさえることができない朝鮮政府は、清国に出兵を頼みました。清が出兵すると、条約に従って通告された日本も出兵しました。
 その後、反乱はおさまりましたが、日本と清は対立を深めました。
 そして、1894年に日本は清に宣戦を布告し、日清戦争が始まったのです。
 日本軍は、アジア一の大国である清国軍を打ち破り、圧倒的な勝利を収めました。そして、講話交渉が行われ、下関条約(日清講和条約)が結ばれました。
 この条約によって、清は朝鮮の独立を認め、遼東半島・台湾・澎湖(ほうこ)諸島を日本に譲ることになりました。また、賠償金2億両(テール)を支払い、清国の4つの港を開くことも約束しました。

③三国干渉
 ところが、講和条約調印からわずか6日後、中国地域への進出をねらっていたロシアが、ドイツ・フランスと共同で、遼東半島を清国に返すよう日本に要求しました。これを三国干渉と言います。
 西洋の国々に比べて、まだまだ力の弱い日本はこの要求を受け入れました。
 その後、戦争の賠償金を使って官営八幡製鉄所が作られ、日本の重工業の中心になっていきました。


(2)日露戦

①義和団事件後の対立
 清が日清戦争に敗れて国力が弱くなると、イギリス・ロシア・フランス・ドイツなどが中国地域へ進出してきました。これに怒った清の民衆は「西洋人を追い出せ!」と反乱を起こし、義和団というグループを作りました。これが義和団事件です。
 どんどん大きくなった義和団は北京の各国の大使館を包囲しました。これに対して、日本を含めた8カ国の連合軍が戦い、反乱はおさまりました。

②日露戦争始まる
 しかし、反乱がおさまったにもかかわらずロシアは、軍隊を中国東北部の満州に残して自分の国へ戻ろうとしませんでした。朝鮮半島のすぐ近くに強い力を持ったロシア軍が残ったことに日本は危機感を持ちました。また、独立したとはいえ朝鮮の政府が安定してないことも大きな問題でした。
 1904年、これ以上ロシアに時間をあたえては勝ち目はないと考えた日本はロシアとの戦争に踏み切り、日露戦争が始まったのです。

③世界中を驚かせた勝利
 世界中の人は「この戦争は西洋の大国であるロシアが絶対に有利だ」と思っていましたが、意外にも日本軍が優勢のまま進んでいきました。日本軍は多くの犠牲者を出しましたがロシア軍の拠点である旅順(りょじゅん)を占領し、奉天(ほうてん)での激しい戦いののちこれを破りました。
 さらに海の戦いではロシアのバルチック艦隊を東郷平八郎を司令長官とする日本の連合艦隊が迎え撃ち、撃滅しました。

③ポーツマス講和会議
 しかし、まだまだ国力の弱い日本の戦いは限界にきていました。これ以上、戦争を続けることはできないと考えた日本は、アメリカ大統領ルーズベルトにロシアとの講和を依頼しました。こうしてアメリカのポーツマスにおいて講和会議が開かれ、ポーツマス条約が調印されて日露戦争は終わったのです。

日清戦争図
日清日露3

日露戦争図
日清日露4


◆2つの戦争の共通点を見つけて箇条書きで書き出しましょう。

 児童からは以下のような点が共通点として出された。

*大国に戦争を挑んだ
*どちらも日本が勝利した
*世界中が驚いた
*戦いは日本の外で行われた
*どちらも清国で行われている
*どちらも朝鮮半島がこわい橋になっている
*どちらも国の考え方の違いが原因で戦争になっている
*どちらも講和会議が開かれている
*どちらも条約が結ばれている



<ワークシート・第4ページ>

★日清・日露戦争のころの日本と世界
┌──────────────────────────────────────┐
│     まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている
└──────────────────────────────────────┘
 これは歴史小説家の司馬遼太郎さんの言葉です。
「まことに小さな国」とはどこの国のことでしょうか?
「開化期」とはどんな時期なのでしょうか?

これは日清戦争・日露戦争を戦っているころの日本のことを言っている言葉です。
 つまり、アジアの片すみの小さな国・日本がようやく世界の大国と肩を並べるところまでやってきて新しい時代に入ろうとしている―という意味だと考えていいでしょう。

この時代は私たちが生きている現代とはちがいます。
強く大きな国が小さな国を自分の国の植民地にしたり、属国にするのは当たり前のことで、決して悪いことだとは考えられてはいませんでした。むしろ、それが常識と言ってもいいぐらいだったのです。

日本の周辺のアジアの国々はみんな西洋(ヨーロッパやアメリカ)の植民地にされています。さいわいにも日本は植民地にならずにすみました。幕末から明治にかけて、私たちの日本人のご先祖様がこれまでつちかってきた知恵と勇気で乗りきってくれたのです。さらに、この2つの戦争を経験した日本人は最後の難関も何とか切り抜けることができました。
 日本はここまできて、ようやく植民地化の恐怖からのがれ、独立を維持することができました。そして、世界と肩を並べられるようになったのです。


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児童の感想を紹介する。

*今こうして安全な国になっているるということは色々なご先祖様のおかげだということだ。

*日本は2つの大きな戦争をなんとか切り抜けて、そこで他の大きな国とも肩を並べられるようになったから、今があるのだと思いました。

*小さな国なのに勝つことができたところがすごいと思った。

*日本はすごい国なんだとわかりました。絶対に日本は負けると思っていたけれど、日本の知恵と勇気で勝ててすばらしいと感じました。日本が日清戦争と日露戦争に勝ったから植民地化を恐れず独立もできるようになったのは、本当に「進化」したなあと思いました。

*日本も強い国だと思いました。ご先祖様ありがとうございました。

*日本は清・ロシアのような大きな国と戦争をしようという勇気があるので、すごいと思いました。

*日本はずっと昔から天皇などを中心に基礎を固めてきたし、たまに西洋から知識をもらったりして、強くなっていったから勝てたと思います。もしも、基礎を固めずに強くなってしまったら戦争にも負けて植民地になってしまったと思います。

*日本ってすごく弱い国だと思っていた。だけど、日本が勝ったから今の日本があることを知ってうれしかった。ご先祖様に感謝します。

*今日の学習で、日本が植民地にされるかもしれないぎりぎりのところで大きな清とロシアに勝ったことで日本も西洋人と同じぐらいの力を持っていることがよくわかった。



以下の感想には後日、私から朝の会でコメントをした。

*日清戦争も日露戦争も相手は朝鮮半島をねらっていて日本はそれに危機感を感じて日本の未来のために戦ったことがわかった。
→これが大事な戦争の原因ですね。

*この2つの戦争に勝ったことで、日本の将来はほぼ安定といっていいぐらいになって、植民地化されなくてよかったと思う。負けていたら大変なことになっていた。
→その通り。もし負けていたら植民地化されていた可能性は非常に高くなっていた。そうしたら、今頃日本はないかもしれないよ。

*大国に勝利した日本は調子に乗ってしまうのでは?朝鮮がかわいそうです。清からもロシアからも恐怖を覚えているからです。
→調子に乗ってしまうかどうかはこれからの勉強で見ていくことにしましょう。朝鮮はいつも大きな国から圧迫を受けてしまう位置にあります。たしかにかわいそうです。でも、これが朝鮮の宿命なんです。朝鮮の人たちはこの宿命に負けずに頑張って生きています。日本にも宿命があるんですよ。それはこの後の学習でだんだんとわかってくると思います。

*日本は2つの大きな戦争を10年おきにしたことはとてもすごいことだと思う。でも、僕からしてみると、すぐに戦争をするのではなく、十分に話し合ってからにしてほしかった。
→大事なことに気づいてくれましたね。でも、話し合いは何度も行われているんです。繰り返し、繰り返し話し合いをしても一致できなかったから、しかたなく戦争になるんです。戦争は誰か悪い人がいるから起こるのではありません。何度も話し合って、それでも一致できないときに起こるんです。

福沢諭吉

■安達弘先生の「小学校歴史人物学習 <なってみる日本史>」の紹介を続けます。
「板垣退助」は明治維新の授業(全5時間)の3時間目です。
これは安達先生のブログ「授業づくりJAPAN YOKOHAMAプライマリー」から転載しています。
 横浜の公立小学校6年生の思考力・表現力がみごとです。
 全国の先生方、ぜひ追試してみてください!


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           福沢諭吉

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 明治維新の5時間目。最終回は「まとめ」として福沢諭吉を取りあげる。
 いつものように肖像写真を見せる。


<ワークシート・第1ページ>


★下の写真が福沢諭吉です。下は若い時の諭吉ですが、11才の外国人の女の子といっしょに写真に写っています。どこで撮ったのでしょうか?

福沢諭吉肖像
福沢1

諭吉とアメリカ人少女
福沢2

 子どもたちに簡単に予想を聞いてみる。

「フランス。諭吉がそこで道を聞いたら教えてくれた」

「日本。学校の生徒で優秀だったから」

「アメリカ。諭吉が留学したときにガイド役をしてくれたから」

などなど・・・。

『みなさん面白い予想ですね。正しくは勝海舟が船長だった咸臨丸にいっしょに乗ってアメリカへ行ったときの写真です。帰るときに記念写真として撮りました。11才の女の子に頼んで一緒に写ったらしいです。当時は外国人の女の子と写真を撮るなんてとても珍しいことですから、帰りの船の中でみんなにうらやましがられたそうです』
しかし、蒸気の予想もあながち見当はずれではないことを伝える。
『諭吉はアメリカへ2回、ヨーロッパにも1回、計3回も海外へ視察に行っていますから、みなさんの予想もあながち見当はずれとは言えません。それから諭吉は学校も作っています』



<ワークシート・第2、3ページ>


★『学問のすすめ』(初編)を読んでみよう

 福沢諭吉は『西洋事情』『文明論之概略』など多くの著作を残していますが、なんと言っても有名なのは『学問のすすめ』です。
これは1872(明治5)年に初編が発刊されました。最初は初編だけのつもりでしたが、あまりにも評判がよいので4年間で17編まで続きました。最終的には340万部も売れるベストセラーになり、当時の国民の10人に1人は読んだと言われています。
 最初に書かれた「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」という言葉が有名ですね。
では、全文を読んでみましょう。ただし長いので、先生が短く要約しました。現代語に訳した本もあるので、興味のある人は読んでみてください。

┌──────────────────────────────────────┐
│  「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言う言葉がある。
│  ところが、この世の中を見ると賢い人もいれば、愚かな人もいる。みんな平等
│ なはずなのに、なぜちがいが生まれるのか?それは学問をするか、しないかによ
│ って決まるのである。

│ ①ただし、ここでいう学問とは日常生活に関係する「実学」である。たとえば、
│ 字の書き方、そろばんの使い方からはじまって地理、物理、歴史、経済、道徳な
│ どである。こうした教養があってこそ、どんな職業の人も自分のやるべきことが
│ できる。そうすれば、自分も独立できるし、自分の家族も独立できる。そして、
│ 独立した国民が増えることで自分の国を本物の独立した国にすることができるの
│ である。
│ │
│ ②なお、学問をするには「自由」の限界を知ることが大事だ。他人に迷惑をかけ
│ るわがままは自由とはちがう。一人のわがままは悪い影響を及ぼすからだ。

│ ③この独立と自由は個人のことだけでなく、一つの国にとっても大切なことだ。
│ 日本も西洋も同じ地球上にあるのだから、互いにぺこぺこすることもないし、い
│ ばる必要もない。相手が正しければ、まだ発展していない小さなアフリカの国々
│ にも頭を下げるべきだし、自分の国の正義を守るためには、強力な軍隊をもつア
│ メリカやイギリスも恐れてはいけない。もし、自分の国が名誉を傷つけられたら
│ 、日本国中の民は一人残らず命を捨ててでも名誉を守るべきだ。それが、国の独
│ 立と自由を守ることになる。

│ ④江戸幕府の時代とくらべると、明治維新によって政治はすっかり変わった。生
│ まれや家柄ではなく、その人の能力によって大事な役目が決まるようになった。
│ 大事な国の決まり事を扱うからこそその人は尊敬される世の中にしなければなら
│ ない。また、日本には言論の自由もできた。だから、政府に不満があれば遠慮な
│ く訴えてよいのだ。
│ │
│ ⑤このように、個人も国も独立・自由が大切である。もし、独立と自由を妨げる
│ ものがあれば、はっきりとNOと言わなければならない。そのためにも、私たち
│ は能力や人格を鍛えるために学問をすることが必要なのだ。

│ ⑥だれだってよい政治を望み、「豊かで強い国になってほしい」「外国から軽蔑さ
│ れたくない」と思っている。国民は学問を身につけ、よい政治ができるように政
│ 府を助け、悪い政治をしないように政府を監視することが大事だ。国民と政府が
│ 互いに手を取り合って日本の平和を維持していこうではないか。
└──────────────────────────────────────┘



★もしあなたが福沢諭吉だったら、明治時代の日本人にいちばん言いたいのは①~⑥ のうちの第何段落ですか?
下の「明治時代の日本の課題」を参考にして考えてみましょう。


 課題1:憲法をつくり議会を開こう

 課題2:政党をつくり互いに意見を出し合って話し合うようにしよう

 課題3:不平等条約を改正しよう

 課題4:全国に学校をつくり教育を充実させよう

 課題5:西洋による植民地化の脅威から日本を守ろう


 ここでの教師側の問題意識は授業における『学問のすすめ』の取りあげ方にある。

 教科書も資料集もそして授業でもたいていは最初の「人は天の上に人を・・・」を含む数行しか取りあげていない。
 これでは全く諭吉の思想を教えることにならない。
 そもそも人間が平等でることと学問の話がまったく結びつかない。
 なぜ、全文読ませようとしないのか?
 分量がネックになるというのなら要約でもいいので読ませるべきである。


 では子どもたちの意見を見てみよう。

*1組・・・①0人 ②1人 ③13人 ④6人 ⑤2人 ⑥3人
*2組・・・①0人 ②0人 ③5人  ④8人 ⑤0人 ⑥17人

主な意見は以下のものである。

◇②
「みんな平等と言っているのだから、わがままはそれを台無しにする」

◇③
「日本は外国に比べたら、小さくて弱い国だと見られていると思うが、弱いままの態度でいてはいけないと思う。もう少し自分の国を守るということを大切にしていった方がいい。また強い国にすべて従ったら自由はなくなってしまうと思う。そうしたら、不平等条約は永遠に続いてしまう」

「課題3のことから、今一番日本が困っているのは不平等条約だから」

「独立と自由が今の日本には大切で、正しいことをして名誉を守ることが大切。強いアメリカやイギリスにも恐れずに立ち向かうことができなければ何もできないから」
「みんなが同じように平等でなくてなはらない。ぺこぺこしたり脅したりしたら強い西洋の国々や小さなアフリカの国とのバランスが西洋に偏ってしまう。ちゃんとアフリカにも技術とかを教えて地球をみんな平等にするべき」

「日本の独立を守るには国全体がまとまっているほうがいい。そして人々が自由だといい国になっていくと思う。それにいい国を見習っていくことが大事だと思う」

「日本は今までも独立を大切にしてきました。独立を守るためには、政府だけでない国民全員が協力しなければいけないと思います。段落5にもつながるし、日本が一つにまとまればよりよい国になっていくはずです」


◇④ 
「家柄がよくてもその人に能力があるとはかぎらない。家柄だけを考えていたら能力がある人が大事な役目に就くことができなくなる。それに政府に不満があれば訴えることも大事だと思う」

◇⑤
「はっきりNOと言えば、日本を西洋から守ることができて、西洋との交流がもっと盛んになれば、不平等条約を改正できる。 学問が盛んになれば学校が全国にできてその中の人が将来の国会議員になるかもしれない」

◇⑥
「国民はきちんと学問を身につけるなど第6段落は課題にしっかりあてはまっている。そして、よい政治ができるように政府を守り、政府を監視する。互いに手を取り合って日本の平和を維持していこうという文から一番日本のことを考え、日本人に伝えたいと思う気持ちが大きい」

「平和を維持することで、だんだんと強くなっていくし、国民と政府が協力して国に自信が持てればもう植民地化される心配はいらない。あの女の子との写真は外国から軽蔑されたくないということを見せるために撮ったと思う」

「やっぱり日本は政府のものではなく国民全員のものだから。ふつうの国民も日本のことについて考えなくてはいけないから。だから、国民と政府が互いに手を取りあって日本の平和を維持していったほうがよい」

「課題5に書いてあるように、植民地になってしまうかもしれないと思いながら一生を過ごすのと植民地にはならないと思いながら過ごすのではぜんぜん違う。だから、日本を強くする。けれど、政府はサボることもあるだろうから、それを民が監視しておくと政府もやるようになると思う。学問も強さも両立できる日本がいいと書いてあるから」

 この学習の価値はどの段落を読んでも明治維新期の日本人の課題と結びつくことにある。

 子どもたちは③=課題3の不平等条約と④=課題1・2議会と政党、そしてまとめあたる⑥に意見が集中した。
 ここまでの学習の内容がよく理解できていると考えられるだろう。


<ワークシート・第4ページ>


★福沢諭吉の生き方を調べよう

*身分制度は親のかたき
お父さんは中津藩(いまの大分県)の武士でしたが、藩の仕事のために家族といっしょに大阪で暮らしていました。このときに諭吉が生まれたのです。お父さんは学問が好きでたいへん優秀でしたが、身分の低い下級武士だったので希望する仕事につくことができずに亡くなりました。のちに、諭吉はそんなお父さんのことを気持ちを考えて「身分制度は親のかたきでござる」と言っています。

*オランダ語と英語を学ぶ
20才のときに緒方洪庵の「適塾」に入門しました。オランダ語を猛勉強してわずか2年後には塾のリーダーになりました。その後、横浜を訪れたときに英語の重要性に気づいて今度は英語を猛勉強しました。
その後、諭吉は3回も西洋を訪問しています。1回目は咸臨丸でアメリカへ、2回目はヨーロッパへ、3回目は再びアメリカへ渡っています。この訪問で西洋から多くのことを学びました。

*慶応義塾を開く
諭吉は23才のときに塾を開きました。それから10年後に慶應義塾を開きました。戊辰戦争の時には上野方面に煙が上がり、砲撃の音が聞こえる中で「世の中に何が起こっていても、この塾では学問はやめない」と言って平然と講義を続けたそうです。

慶應義塾
福沢3


 子どもたちの感想である。

*「この本がベストセラーになったのは国民のことを考えてすべての課題にあてはまり、国民の心を大きく動かしたからだと思います」

*「砲撃の音が聞こえても授業をやり続けるということはたぶん、とっても学問を大切にして勇気のある人にしかできないと思う」
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