授業づくりJAPANの「日本人を育てる授業」

わたしたちは誇りある日本人を育てたい。真の国際派日本人を育てたい。

大東亜会議とアジアの解放

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№61
世界の中の日本 8  【 昭和 4 】
「大東亜会議とアジアの解放」

【授業の意図】
・大東亜戦争には「自存自衛」だけでなく「植民地アジアの解放」というもう一つの意味があったことを教える。

【授業の流れ】
1 来日したインドのモディ首相
・写真を見せる。
モディ首相と三角佐一郎氏
【インド首相モディ氏と三角佐一郎氏】

『平成26年8月30日、インドの新首相モディさんが来日しました。天皇陛下に拝謁し、安倍首相と会談したのはわかりますが、99歳の男性に会いに行きました。これがそのときの写真です』

モディ首相は忙しい日程の中で、なぜこの人に会いに行ったのでしょうか?想像してみましょう。

・モディ首相のまなざしなどよく観察させて推理させる。

『インドは人口12億人の世界最大の民主主義国です。有権者がなんと8億人もいます。8億人に選ばれたインドの首相が、99歳の日本人の前でひざまづき、彼の手を温かく握りしめながら尊敬のまなざしでじっと見つめています。インド外務省のスポークスマンがツイッターにこう書きました。「感動的な瞬間!インド首相がネタジの古い日本の仲間、99歳の三角佐一郎に手を差し伸べている」。モディ首相はこの日の朝こう言ったのです。「今でもネタジに関するあらゆることを鮮明に覚えている男がいるんだ。さあ三角さんに会いに行こう!」忙しい日程の中でモディ首相が会いに行ったのが、写真の三角佐一郎さん(99)です。会うのは2回目でした。ネタジとは誰なのでしょうか?首相がわざわざ会いに行く意味とは何でしょうか?実は、この出来事がいま勉強している大東亜戦争のもう一つの偉大な意味を教えてくれるのです』
チャンドラ・ボース
 【チャンドラ・ボース】


2 インド国民軍とインパール作戦
『ネタジとは「指導者」という意味で、インドでネタジといえばインド独立の父チャンドラ・ボースのことです。三角佐一郎さんは大東亜戦争で行われたインパール作戦の生き残りです。インパール作戦はチャンドラ・ボース率いるインド国民軍が初めてインド領内にインド国旗を翻した戦いなのです。インパール作戦はインドでは「インド独立戦争」「インパール戦争」と呼ばれています。チャンドラ・ボースを尊敬するモディ首相は、ボースの戦友だった三角さんにどうしても会いたかったのです』
・資料「大東亜戦争とインド国民軍」を読む。

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【資料】大東亜戦争とインド国民軍
チャンドラ・ボース2

 インドの首都デリーの中心部にインド独立の英雄、スバス・チャンドラ・ボースの銅像が建っています。ボースはインド国民軍の指導者です。
1941年12月マレー半島に上陸した日本軍は、猛スピードでイギリスの要塞都市シンガポールに向けて進軍しました。イギリス軍を蹴散らしながら行ったのですが、イギリス軍の多くはインド人の将兵でしたが、彼らがいつの間にか日本軍に加わり、共にイギリス軍と戦うようになりました。長い年月イギリス人に支配されてきたインド人が、日本の戦いによって独立に目覚めたのです。
 彼らはやがてインド国民軍を結成してインドの自由と独立をめざしました。日本軍が彼らを援助したのはいうまでもありません。そして、いつの日かインドの独立戦争を共に戦おうという約束を交わしました。
 昭和19(1944)年3月、日本はインパール作戦を実施しました。この作戦は、日本ではたくさんの日本兵が飢えと病気で死に大敗北を喫した愚かな作戦として批判されています。しかし、この作戦にはもう一つの意味がありました。それは、日本軍約7万8000人とインド国民軍約2万人、日本人とインド人の連合軍による「インド独立戦争」でした。
このときインド国民軍の指導者がネタジ、チャンドラ・ボースだったのです。
事実、インドではインパール作戦を「インパール戦争」と呼び、イギリスに対する「独立戦争」だったとされています。日本軍はインド独立を助けた解放軍でした。
 元インド国民軍の大尉だったS・S・ヤダバさんは靖国神社でこう書いています。
「われわれインド国民軍将兵は、インドを解放するためにともに戦った戦友としてインパール、コヒマの戦場で戦死した日本帝国陸軍将兵に対して、深い敬意を表します。インド国民は大義のために生命をささげた勇敢な日本将兵に対する恩義を、末代にいたるまで決して忘れません。われわれはこの勇士たちの霊を慰め、ご冥福をお祈り申し上げます》
 大東亜戦争後、イギリスはインパール作戦に参加した、  【肩を組む日本とインド】
3人のインド国民軍将校を死刑にしようとしました。これを知ったインド人は全国で反イギリスの大暴動を起こし、これを見たイギリスはやっと植民地支配をあきらめたのです。この結果、1947年8月15日(日本の終戦記念日)にインドは独立しました。
 インド最高裁弁護士のP・N・レキ氏は次のような言葉を残しています。
「太陽の光がこの地上を照らすかぎり、月の光がこの大地を潤すかぎり、夜空に星が輝くかぎり、インド国民は日本国民への恩は決して忘れない」
インド国民軍
【日本兵と肩を組むインド国民軍の兵士】

 ★井上和彦「中韓と異なるインドの歴史観と「インパール戦争」の評価」にもとづく
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・数名に感想を言わせる。

3 大東亜会議と大東亜宣言

・日本軍はものすごく強かったことを教える。
・占領した地域を地図で見せる。

日本最大版図

・日本が東南アジアで戦ったのは、植民地支配をするイギリス・アメリカ・オランダの軍隊であることをおさえる。
・次の写真を見せて発問する。
大東亜会議
【大東亜会議】

この記念写真は国会議事堂の前 で撮影されました。1943年、11月、大東亜戦争の最中です。

どんな集まりの記念だったので しょうか?

・発表させる。

・大東亜会議に参加した各国首脳。 左からバー・モウ(ビルマ)、張景恵(満州国)、汪兆銘(中華民国南京政府)、東條英機(日本)、ワンワイタヤーコーン(タイ)、ホセ・ラウレル(フィリピン)、スバス・チャンドラ・ボース(自由インド仮政府)

『これは大東亜会議の記念写真です。日本に解放されて独立した国々の代表が東京に集まりました。右端がさっき勉強したボースですね。中村屋カリーのボースとは別人ですよ。2人は独立運動の友人です。この大東亜会議は、わが国が大東亜戦争の意味を世界に教えた重要な会議です。』

「大東亜宣言」を読んで(     )の中に言葉を入れてみましょう。

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【資料】大東亜会議共同宣言(現代語)  昭和18(1943)年11月6日

 世界各国が、民族毎に自分たちの土地を持ち、お互いにたすけあって、ともに国家として発展し、みんなで明るく楽しみをともにするためには、まず世界(  A  )の確立がその根本です。
 けれども米英は、自国の繁栄のためには、他国や他の民族を無理矢理押さえつけ、とくに東亜諸国に対してはあくなき侵略と搾取を行い、東亜諸国の人々を奴隷にするという野望をむきだしにし、ついには東亜諸国の安定そのものをくつがえそうとしています。
 つまり、東亜諸国の戦争の原因は、そこにその本質があるのです。
 そこで東亜の各国は、手を取り合って大東亜戦争を戦い抜き、東亜諸国を米英の押さえつけから解放し、その自存自衛をまっとうするために、次の綱領にもとづいて、大東亜を建設して世界の平和の確立に寄与します。

1 東亜諸国は、協同して東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。
2 東亜諸国は、相互に自主(  B  )を尊重し、互いに助け合い、東亜諸国の親睦を確立します。
3 東亜諸国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、東亜諸国それぞれの文化を高めあいます。
4 東亜諸国は、互いに緊密に連携することで、それぞれの国家の経済の発展を遂げるとともに、東亜諸国の繁栄を推進します。
5 東亜諸国は、世界各国との交流を深め、(  C  )を撤廃し、互いによく文化を交流し、すすんで資源を解放して、世界の発展に貢献していきます。
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・考えを発表させる。

・正解を教える。
Aは「平和」、
Bは「独立」、
Cは「人種差別」が入る。
 戦っていたわが国の願いを教える。
とくに人種平等の主張は第一次世界大戦以来わが国が世界に示してきた主張であり、有色人種民族全体の願いだった。


4 大東亜戦争がアジアに残したもの

『最後に、日本が戦争中インドネシアで行ったことを教えましょう』
 団結できるように標準語を決めた。教育を進めた。政府の役人に現地人を採用し政治や 仕事の進め方を教えた。民族の軍隊を作り戦える兵士を育てた。日本精神を教えた。
 日本軍が負けて去るとき武器を与えた。約1000人の日本兵が共にオランダ軍と戦った。
『もちろんいいことばかりではない。日本は戦争に負けたのだから、戦争の終わり頃になると厳しい生活になりました。でも、この戦争で日本はアジアの人々にある重要なことを教えることになりました。教えるつもりで教えたのではありません。彼らが勝手に学んだのです』

『民族の自由と独立は(      )ければ、実現しない』
・(    )にどんな言葉が入るか?考えを発表させる。

『民族の自由と独立は(戦わなければ)実現しない』
・日本が負けて出て行くと、もう一度支配できると思ってイギリスやオランダが軍隊と共にもどってきた。そのまま支配され続ければ戦死する人もいないし平和が続く。しかし、
彼らはそれでいいとは思わなかった。それは「奴隷の平和」だからだ。それで、武器を取って戦ったのだ。インド、インドネシア、ビルマ(ミヤンマー)、ベトナムなど、すべて独立と自由は多くの血を流して実現したのだ。
・その結果、大東亜戦争後は植民地はなくなった。いま世界には200国ちかい独立国があるが、それが当たり前になったのは、日本が戦い、アジアが戦った結果だった。日本が戦う前は独立国は(アメリカ大陸を除けば)欧米の白人国だけだったのだから。

『わが国はこの戦争に敗れます(その勉強は次回やります)。負ける戦争を戦い、多くの人命と財産を失ったことは政治の失敗ですが、大東亜会議の理想は日本が戦争に負けても実りました。東南アジアの国々がこんなふうに日本をほめています』

・資料「東南アジアの指導者の言葉」を読む。

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【資料】東南アジアの指導者たちの言葉

●「日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産(なんざん)して体をこわしたが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの国々が、西洋と対等につきあえるのは、いったい誰のおかげであるか。それは、身を殺して行動したお母さんがあったためである。12月8日(大東亜戦争開戦の日)は、アジア人はアジア人の力で国を持てと考えた日本が、重大な決意をされた日です。われわれは、この日を忘れてはいけない」(タイの元首相、ククリックド・プラモード)

●「インドはもうすぐ独立する。その独立のきっかけを与えたのは日本である。インドの独立は、日本の戦争のおかげで30年は早くなった。これはインドだけではない。インドネシア・ベトナムをはじめとする東南アジア諸民族すべてにいえることだ。」(インドの法学博士、グラバイ・デサイ)

●「われわれアジア・アフリカの有色人種は、ヨーロッパに対して何度も独立戦争を試みたが、全部失敗した。インドネシアの場合は、350年も失敗が続いた。それなのに、日本軍が、アメリカ・イギリス・オランダ・フランスをわれわれの目の前で、徹底的に打ちのめしてくれた。われわれは、初めて弱い白人を見て、自信を持ち、アジア人全部の独立は近いと知った。一度持った自信は、決してくずれない。日本が戦争に負けたとき、われわれは、今度こそ自力で独立を勝ち取ることを決意し、オランダ軍をインドネシアから追い出すことができたのである」(インドネシアの元情報大臣、ブン・トモ)
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・感想を書いて授業を終える。

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自存自衛のために!大東亜戦争の開戦

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真珠湾2

真珠湾1


№60
世界の中の日本 7  【 昭和 3 】
自存自衛のために!大東亜戦争の開戦


【授業のねらい】

・大東亜戦争の開戦に至る経緯を教えます。
・日本の侵略戦争ではないこと、国家としての生存を守る自存自衛の戦いだったことを教えます。

【授業の流れ】

1 シナ事変(日中戦争)はなぜ終わらなかったのか?

『シナ事変は戦えば日本軍が勝つ戦争でした。地図のようにシナの主な都市はすべて占領しました。国民党のナンバー2だった汪兆銘は裏切り者蒋介石を捨てて、日本の応援のもとに南京に新たに中国政府をつくりました。この政府の下にシナ全土が独立すれば中国民衆も幸せだったのですが、蒋介石は奥地の重慶に逃げ込んだまま、いつまでも降参しませんでした。降伏すれば平和がもどり白人列強による中国支配も終わったのに残念なことでした』


『負け続けた中国が戦い続けられたのはなぜでしょうか?』

・意見を発表させる。
・正解は次の資料を見て考える。
「援蒋ルート」とは蒋介石を援助する各国のルート(道)のことです。

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【資料】巨額にのぼる「援蒋ルート(対中国援助)」

援蒋ルート


[ソビエト連邦]
1937年  航空機900、戦車200、トラック1500、銃15万、砲弾12万発、銃弾6000万発など3億など
1939年  1億5000万ドルの援助(現6400億円)・ソ連空軍が密かに参戦

[フランス]
1938年  1億5000万フラン借款  1939年 9600万フラン援助

[イギリス]
1939年  1000万ポンド(現2500億円)借款 1940年 1000万ポンド借款

[アメリカ]
1927~41年 4億2000万ドルの援助 1940年50機の新鋭戦闘機、装備、武器、弾丸150万発を援助
1941年 100機の戦闘機を援助、259名のアメリカ空軍パイロットが義勇兵の名目で中国空軍とともに参戦(フライングタイガース)、トラック300台と5000万ドル分の軍事物資を供与、アメリカ軍事顧問団の派遣、500機のB-17爆撃機を援助

(『昭和史の真実』日本会議、『盧溝橋事件の研究』秦郁彦から作成)
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『これらの援助がなければ、蒋介石はすぐに降参していたでしょう。そうすれば中国と日本に平和が戻ったのです』
・日本はこのときすでにソ連やアメリカの兵とも戦っていたこともわかる。

『しかし、ソ連・フランス・イギリス・アメリカは日本がこの戦争に勝つことだけは許さなかったのです。彼らはどうしてアジアのことにいつまでも口を突っ込むのでしょうか?書きなさい。時間は5分です。』 

・意見を発表させる。自分の考えを持てれば的外れであっても合格。明治維新以来の既習事項を生かした発言はとくにほめる。
・資料を読む。

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【資料】彼らはなぜ蒋介石を援助したのか

◆同じことをやっていても理由が違うことがあります。この場合もそうなので区別して理解することが大切です。

①イギリスとフランスは中国に莫大な利権を持っていました。
アヘン戦争以来の中国支配の成果です。この利益を守り今後もアジアからもうけようとしました。
《蒋介石が負けさえしなければこの目的はかないます。いやこれで大きな貸しができるのですから、さらに大きな利益を得ることができるでしょう。逆に日本が勝ってしまったら彼らはアジアから出て行かなければならないのではないかとおそれました。日本は欧米と対等な強国でしかもアジア人です。日本がアジアのリーダーになるのだけはいやだったわけです。》

②アメリカは南北戦争などで中国進出がおくれました。スペインを破ってフィリピンを取ったときは日本が日露戦争に勝ってしまいます。なので、中国をアメリカにも開放しろ。アメリカにも利益をよこせという目的です。《 》の中はイギリス・フランスと同じ考えです。

③ソ連はちょっと特別なので少し詳しく書きます。共産主義の話はベルサイユ会議の授業で少し話しましたが、これは日本にとって恐ろしい思想でした。国の伝統や文化を否定し、共産党以外の意見を認めず、独裁政治を行います。
 とくに天皇と皇室を皆殺しにするという方針が日本人の憎しみを買いました。
 この共産主義が世界中にスパイを送り(日本にも共産党ができます)、暴力革命を起こして共産主義の国にして、世界中をソ連が支配することをめざしていたのです。
 その独裁者がスターリンでした。そのスターリンが、あの謎のシナ事変(日中戦争)が起きる直前に、世界中のスパイに向けて演説しました。

昭和10(1935)年、第7回コミンテルン大会のスターリン演説

「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先をソ連に向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国へ向けさせよ。そして戦力の消耗したドイツと日本の前にアメリカを参戦させて立ちはだからせよ。日本とドイツの敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲れ切った日本とドイツを共産主義がいただくのだ。」
スターリン
 【スターリン】

 ソ連が援助した理由がわかりましたか。
 蒋介石軍と日本を戦争させる。その戦争がいつまでも終わらないようにする。両方が疲れてぼろぼろになる。
 そこで共産主義革命を起こしてソ連がいただくと言っているわけです。
 つまり、中国・日本・アメリカなどにたくさんのスパイを送り込み、あの悲惨な戦争をあおり続けたのがスターリンでした。
 蒋介石はこのために最後は手を組んでいた毛沢東の共産党に国を奪われました。
 日本の近衛文麿首相の相談役や日本軍の中にもスパイがいました。
 それがわかったのはアメリカとの戦争が直前で、大勢逮捕され尾崎秀実(ほつみ)は死刑になりました。
 彼らが政府に中国と戦うことを主張し、戦争を終わらせないようにあおりました。

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『日本では勝っても勝っても終わらない戦争に疑問を持つ人が増えてきました。そして、真の敵は蒋介石の後ろにいるアメリカやイギリスではないのかと考えるようになっていきました。』


2 平和を求めた日本

『欧米列強は日本をさらに追い込むために経済封鎖を行いました。日本は資源に乏しく、貿易をしないでは生きていけない国です。だから、日本をつぶすためには資源の輸入ができないようにすればいいのだというわけです』

・昭和14(1939)年 アメリカが日米通商航海条約を延長しないと通告してきた。イギリスやオランダも同じように行動した。

『しかし、日本はアメリカと戦争する気はありません。陸軍や政治家・官僚の中には真の敵をたたかなければシナ事変は終わらないという意見も多かったのですが、天皇陛下を始めとして政府はなんとかして日米戦争は避けたいと考えていました』

・昭和16(1941)年4月 日米平和交渉始まる

近衛文麿
【近衛文麿】
F・ルーズベルト
【ルーズベルト】

『しかし、アメリカのルーズベルト大統領はこのチャンスに日本との戦争を始め、あわせてドイツとの戦争も始めたいと考えていました。』

・昭和16(1941)年 7月 アメリカが日本を怒らせる挑発に出ました。

①在米日本資産の凍結(アメリカにある日本人財産を全部使えないようにすることです)
②日本への石油輸出の全面禁止(多くをアメリカからの輸入に頼っていた石油が入らなくなります。日本は備蓄している石油を使いきったら生きていけません!)

『これはたいへんなことでした。それでも日本は平和交渉に望みをつなぎますが、10月になると近衛文麿首相が突然やめてしまいました。シナ事変を始め今日の事態を招いた責任者でしたが、アメリカとの戦争が避けられないと見て責任を放棄したのです。続いて東条英機陸軍大将が総理大臣に任命されました。東条はアメリカと戦おうと考えていましたが、昭和天皇が戦争は避けよ、平和を求めよとのご意志であることを知り、いっぺんに考えを改め、平和交渉の推進していきました。しかし、日本がかなり譲歩した提案を持っていき、これなら戦争を避けられると思ったとき、アメリカは、なんとそれまでの交渉を全く無視したとんでもない提案をしてきました』

東条英機
【東条英機】


3 ハル・ノートと日本の決断

・昭和16(1941)年 11月 ハル・ノート(日本はインドシナ・中国から無条件撤退せよ)

『それは、強固な対米戦争反対論者だった外務大臣東郷茂徳でさえ、次のように証言したものでした』
・資料「わが国はハル・ノートをどう受け止めたか」を読む。

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【資料】 わが国はハル・ノートをどう受け止めたか

東郷重徳
【東郷重徳】

(日本がハル・ノートを受諾した場合)日本が撤兵し、警察官までも即時引き揚げる事になれば日本がそれまでしたことは全て水の泡になってしまう。日本の企業は全部つぶれてしまう。また、日本の信義は地におち、地方での排日感情と侮日感情は強くなり、中国で生活する日本人は、みなこの地から退去しなければならなくなる。さらに日本は満州からも引き揚げなければならなくなり、その政治的影響は朝鮮にもおよび、日本は朝鮮からも引き揚げなくてはならない事になる。
 ハル・ノートは日本が日露戦争以前の状態になるような要求である。
 ハル・ノートは日本に対し全面的屈服か戦争かを迫るものと解釈された。
 もしハル・ノートを受諾すれば、日本は東亜(アジア)における大国の地位を守れなくなるだけでなく、三流国以下に転落してしまうだろう。これが全員の一致した意見であった。                    (東郷茂徳『時代の一面』などより要約)
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コーデル・ハル
【コーデル・ハル】


『当時のリーダーの立場に立って、どうすべきかを次のAかBから選び、その理由を書きなさい。
 A 自衛のためにアメリカと戦うべきである。
  B ハル・ノートを受け入れ、アメリカとの戦争はさけるべきである。』


・意見分布を確認し、理由を言わせる。
・以下に、さいたま市のある中学校で授業を行った際の、生徒(中学2年生)の意見を示しておきます。

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中学2年生の考え

A 開戦論

・ハルノートはあまりにもひどすぎる。日露戦争以前にもどると言うことは、また他国からねらわれやすくなる。アメリカとの貿易も凍結しているので、よけい負けやすくなる。つまり、ハルノートは日本に攻撃させるという挑発的なものである。ここでひいたら立ち直れないと思う。

・いつまでもアメリカのやりたい放題をやらせるのは危険だ。だから、日本がアジアの発展や満州に注いできた力を見せるべき。もし、ハルノートをうけいれ撤退した場合、アメリカは東南アジア、満州は中国かロシアが進出し、アジア全体が日露戦争以前と同じ状況ににもどってしまう。

・自分はAを選びます。理由はアメリカ側がハルノートなど提示してきた時点で、日本をつぶそうとしているのがまるわかりだからです。日本が中国から出て行ったりして、徐々に危機に襲われるより、戦って日本の「大和魂」的なものを見せつけよう!

・私はAを選びます。たしかに平和を守るのであればBを選んだ方がいいと思いますが、これでは明治からの日本の努力が無駄になり、三流国以下の扱いを受けることになります。日本のプライドといままでの努力を考えたら、戦うしかないと私は考えます。

・ぼくはAを選びます。理由はBを選んでも結局は戦うことになると思うからです。Bを選んだ場合、無防備で攻められるので、あとかたもなく負けますが、Aを選べば勝てる可能性があるからです。また、Bを選んだら、日本を強くしようとして日露戦争などを戦った戦死者や兵士の人たちに失礼だと思いました。

・石油もまともにない今、戦うのはとても不利だが、列強の好きにさせるわけには行かない。また、日本は明治から今にかけて成長し、ここまで上りつめた。したがって、日本は意地を見せてアメリカと戦う米である。ここで逃げれば後々後悔することになると思う。

・ハルノートを受け入れたら、日本は他の国にぶじょくされたり、ここまでしてきたことが無意味になったり、それだけでなく、これを受け入れるのなら他のどんなことでも受けいるのでは?と思われて、日本がどんどん不利になっていく気がします。メリットは一つもありません。今のままでは日本が負けてしまう可能性は高いけど、強い日本の軍事力を信じていちかばちか戦うべきと私は思います。

・もしハルノートを受け入れたら、国の誇りと力を失うので、受け入れないで堂々と戦いたい。そうすれば武士としての誇りを失わずにすむと思ったから。いくら強い相手でも屈しないのが日本(武士)だと思う。

・ぼくはAです。そんな勝手なことは許しません。人はなぜいじめられるのか?弱いから?違います。戦う意志を見せないからです。牙を見せればひるむ相手もいます。負けてもいいんです。言いなりになってはいけません。日本バンザイ!


B 避戦論

・Bを選ぶ。なぜなら日本は日中戦争で弱っているから確実に負けると思う。国民の信頼を失うかもしれないが、日本国民は心が良く理解の早い人たちだと思うし、いままでみんなを引っ張ってきた政府に文句を言うはずはないので、決断すれば戦争はさけられると思った。もし戦えば、弱っているの負けてしましたくさんn被害が出ると思う。

・ハルノートを受け入れ、戦争をやめる方が国民的にも死者が出ないですむ。条件的にはよくないと思ったが、せんそうだけはやるべkではない。

・ぼくはBの方がいいと思います。戦争で日本がアメリカに勝つ確率はそんなに高くないと思うし、もし負けた場合、またアメリカにそれ以上のことをつきつけられるだけで、犠牲者が出てしまうので戦争はさけたほうがよいと思います。

・私はBです。立ち向かって戦争をしても、経済など日本より発達してるアメリカに勝てっこないと思うからです。たしかに、イギリスやアメリカはずるいことをやっているし、本気で世界の平和を考えてはいないだろうけど、強いんだからしょうがない。ただ、中国大陸から無条件で出て行けというのはかなりひどすぎるから、少しは変えてもらいたいと思います。

・Bです。アメリカは強いから、負けたとき、植民地になってしまいます。日本への石油の輸出が禁止されて、日本が圧倒的に不利な状況なんだから、ここはがまんすべきときだと思います。「がしんしょうたん」を思い出しましょう。

・今アメリカと戦っても日本は勝つことができないと思う。無理に戦って、すべてを失うよりは、ハルノートを受け入れて、それからまた力をつけていけばいいと思った。

・私はBを選びます。理由は日米交渉を続けても進展がなかったなら、ハルノートを受け入れてここはいったん謝ったほうが、日本のためになると思ったからです。

・戦争をした結果を知っているからかもしれないけど、戦わない方がいい。明治にもどっても、日本ならきっとまたもとにもどれるし、もしかしたら、もっと強置くなれるかもしれない。それに、満州を取られても、日本本土が守れるなら戦争はぜったいにやめたほうがいい。

・国土が小さくなるのはイヤだけれど、国民よりも大事なものなんてない。またがんばればいいんだから!

・ハルノートを受け入れて、一からやり直して行く方が、大きな危険が避けられる。そのほうが、今までの流れを見直しながら、今までよりももっと正しい選択ができるかもしれない。




*授業後、どちらでもないという者がいた。彼らのノートには次の通り書かれていた。とくに興味関心の高い生徒たちが、本やネットから情報を集めるようになり、一部ではあるが以前の中学生では考えられなかった学習が起きるようになってきている。

C 第三の道

・ぼくは、ハルノートを無視したい。当時のアメリカが平和ぼけしていたなら、アメリカからは日本に宣戦布告ができないので、無視していれば問題はないと思った。

・アメリカはほっといて、インドネシアとシンガポールだけ攻めて石油を確保すればいい。ルーズベルトは戦争はしないという公約で大統領になったから、よっぽどじゃないと自分からはやってこれない。うまくいけば、インドまで攻めてオランダとイギリスの植民地を解放できる。米英不可分論というのが当時もありました。


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『政府は対米開戦を決断しました。戦わないで明治以来の先人の努力を捨てアメリカに支配されるよりも、戦って日本の立場を世界に示そうと考えたのです。国力の差は日露戦争の時のほうが大きいと考えられていました』

・昭和16(1941)年12月8日 対米英戦争開戦
 アメリカ領ハワイの真珠湾(アメリカ海軍基地)を攻撃。
イギリス領マレー半島上陸→シンガポール攻略

・12月12日、東条内閣はこの戦争名を「大東亜戦争」と決定した。

・資料「開戦の詔勅」(かんたん要約版)を読む。

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【資料】開戦の詔勅
 不幸にしてアメリカ・イギリス両国と争いを開始するにいたった。まことにやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。
 中華民国政府が日本との戦争を始めて4年あまりが過ぎた。中華民国政府はアメリカ・イギリスの援助を受け、いまだに日本と戦争状態にある。アメリカ・イギリス両国はアジアの平和を乱し、アジアを征服しようとしている。  
 さらに日本の貿易を妨害し、経済封鎖を行い、日本の生存に重大な恐怖を与えた。
 私は事態を平和的に解決しようと努力してきたが、アメリカ・イギリスはむだに解決を引きのばし、ますます経済・軍事上の恐怖を増大させ、日本を屈服させようとしている。
東アジア安定のための日本の長年の努力はむだになり、日本の存立も危うい。日本は今や自存自衛のためにふるいたち、いっさいの障害を取りのぞくほか内のである。
御名御璽    
昭和16年12月8日
昭和天皇
【昭和天皇】
*****************************************************

・戦争目的は「自存自衛」であり、この戦争が「自衛戦争」であったことを確認する。
・正当防衛(アメリカが先に挑発している)の自衛戦争は現在でも、世界各国のあたりまえの権利であることを教えて、授業を終える。
・「侵略戦争」ではないことをしっかり覚えさせ、忘れないようにする。

真珠湾攻撃
【真珠湾攻撃】

マレー半島コタバル上陸戦】
【マレー半島コタバル上陸戦】

シナ事変(日中戦争)の真実

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●本授業は齋藤武夫さん(授業づくりJAPAN)の授業案です。


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№59
世界の中の日本 6  【 昭和 2 】
「目を覚ませ日本人!シナ事変(日中戦争)の真実」


【授業の意図】
・日本は列強の一つとしてシナに進出していたが、最後はシナと手を組んで白人中心の世界支配を終わらせたいと願っていた。軍人も一般国民もアジア人として最後はシナと組めると考えていた。そのために孫文たちの辛亥革命を応援したのだから。
・しかし清朝を滅ぼした孫文が、あれほど世話になった日本(頭山満など)を裏切って共産主義ソ連と手を組んだ。孫文の後継者だった蒋介石も共産主義と手を組んだ。蒋介石はソ連だけでなく英・米とも手を組んで日本を倒そうとした。明治以来の発展をとげた大国日本の存在が中華思想・華夷秩序の中国には許せなかったのだ。中国は昔からてっぺんで無ければ気がすまない国だった。
・この授業は、戦勝国(アメリカ)が書いた虚偽の歴史を見直し、シナ事変と大日本帝国陸軍の真実を教えるものです。政府が言えなくても国民だけは真実が言える日本をめざしましょう。

【授業の流れ】

1 中国との戦争イメージ
・中国とタンクー停戦協定を結んだ日本は、満州国の発展に力を注ぎました。これで中国と距離を置ければ、ソ連の侵略は満洲で防げるし、日本の安全は盤石でした。しかし、4年後に中国(国民党と共産党が手を組んだ)と戦争になってしまいます。
 中国の戦争では、戦後70年もたっているのに「南京大虐殺」ということが言われ、帝国陸軍が30万人の女性や子供を虐殺したと言われ、いまだに日本が残虐な国のように非難されています。中国の戦争の最大の話題はこれなので、最初にこの話から行きます。

┌──────────────────────────────────────┐
日本軍が首都南京を占領したとき(1937年12月)何が起きたかは、国や研究者に
│よって意見が分かれています。どれが正しいと思いますか?

│  A 一般市民30万人を虐殺した(中国政府と日本の学者A)。
│  B 一般市民10万人を虐殺した(日本の学者B)。
│  C 一般市民数千人を虐殺した。(日本の学者C)
│  D 一般市民の殺害はほとんど無かった。(日本の学者D )
└──────────────────────────────────────┘

・挙手で意見分布を確認し、理由があれば発表させる。(戦死と捕虜の処刑は含まない)
『この時代から、日本について言われていることは学者であっても信用できなくなります。その理由はまたあとで勉強しますが、南京事件について事実を見ておきます。いくつか参考になること事実を教えましょう』・資料を配付する

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「南京大事件」をめぐる参考になる事実

【事実1】 虐殺があったとされる12月から3月の写真(日本や外国の新聞に載ったもの)

南京g
●戦禍の終わったことを知り、防空壕から出てきた南京の女性たちを庇護する日本兵ら(南京陥落の翌日12月14日。朝日新聞 1937.12.16付)

南京あ
●中国兵たちの悪行にうんざりしていた南京市民たちは、日本軍の入城を歓声をもって迎えた。(イギリス系新聞「ノース・チャイナ)これは日本軍の入城式の日(1937年12月17日)に、食糧やタバコの配給を受け、 歓声をもって迎える南京市民ら。市民がつけている日の丸の腕章は、民間人に化けた中国兵ではないことを証明するために、日本軍が南京市民全員に配ったものである(毎日版支那事変画報 1938.1.11発行) │
(注)兵士が市民に化けるのは戦争犯罪であり、処刑されても仕方がない。

南京●南京市民に食糧等を配る日本兵たち。デイリー・ニュース」1937.12.24付 南京占領の11日後)

南京3
●南京市民と楽しく会話する日本兵ら(1937. 12.20撮影 南京占領の7日後 支那事変 写真全集1938年刊)

南京6
●中国負傷兵を看護する日本の衛生兵(南京占領の7日後 1937.12.20林特派員撮影朝日版支那事変画報1938.1. 刊)

南京い
● 安全区で南京市民に食糧や菓子を配る日本兵ら(南京占領の5日後 1937.12.18付東京日日新聞より)

南京c
●疫病防止のため南京市民に予防措置を施す日本の衛生兵(南京占領の7日後 1937.12.20 林特派員撮影 朝日グラフ 1938.1.19刊)│

南京b
● 日本兵から菓子をもらって喜ぶ南京の家族(1937.12.20撮影 朝日版支那事変画報 1938.1.27刊)

南京15
●「中国人は日本人カメラマンが行くと、積極的に子供をかかえて撮影に協力してくれる。日本兵や日本人を恐れていなかった」(カメラマン佐藤振寿氏。南京占領の2日後1937.12.15撮影 南京安全区にて)

南京h
●南京の街路で日本兵相手に商売をする中国人(毎日版支那事変画報 1938.2.1刊)

南京j
● 平和の戻った南京で、ジョン・マギー牧師のもと日曜礼拝を持つ中国人クリスチャンら(朝日新聞1937.12.21付の「南京は微笑む」の記事より)

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【事実2】南京の中国人の人口は占領したとき20万人だった。日本が占領すると南京から逃げていた民衆がたくさんもどってきた。1ヶ月後には25万人になった。

【事実3】中国国民党の総統・蒋介石は、もともと南京にいた人です。しかし彼は、日本軍が攻めてきたことを知ると、南京の防衛はさっさと部下にまかせて、南京を出てしまいました。そののち終戦に至るまで、蒋介石は中国人民向けに何百回ものラジオ演説を行なっています。ところが、その中で彼はただの一度も、「南京で大虐殺があった」と言っていません。

【事実4】南京に住む欧米人による「南京国際委員会」の被害届には、日本兵によるとされる犯罪が425件記されています。その大部分は伝聞です。たとえすべてを事実と仮定しても、そのうち殺人事件は49件です。その49件のうち国際委員会の委員が直接目撃したものはわずか2件でした。また、その2件のうち1件は、ジョン・マギー牧師が目撃したものですが、日本兵が、軍服を脱いで民間人に扮している中国兵を探している中不審な者を見つけて身元を尋ねたとき急に逃げ出したので撃ったというものでした。しかし、これは国際法上合法的なものです。もう1件のほうも合法的なものでした。伝聞は証拠にはなりません。

【事実5】中国軍は日本軍を悪者にする政治宣伝やウソのニュースを大量に計画的に流していた。その中には中国軍がやった非人道的な行為を日本軍のせいにするものが多かった。
南京事件を報道したジャーナリストは中国軍の工作員だった。


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┌──────────────────────────────────────┐
│  最初の質問に戻ります。意見が変わった人はいますか?
└──────────────────────────────────────┘
・挙手で人数分布を確かめ、理由を言わせる。
・あくまで事実に基づいて考えさせ、教師の考えを押しつけない。


2 なぜどのようにしてシナ事変になったか? 

『では、シナ事変(いまは日中戦争とよばれる)がどうして起きたかを確かめましょう。』
┌──────────────────────────────────────┐
│  シナ事変(日中戦争)はどのようにして起きたのでしょうか?
│  一つ選んで理由も書きましょう。
│ A 中国に非はないのに、日本が計画的に中国を奪い取りに行った(侵略戦争)。
│ B 中国と日本の両方に間違いがあって、やむをえず起きた。
│  C 日本は平和を求めたが中国が日本を戦争に引きずり込んだ。
└──────────────────────────────────────┘
・人数分布を確かめ、理由を言わせる。
・年表資料で、経過を知る。

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【資料】年表「日中戦争は、なぜどのように起きたのか」

昭和12(1937)年
◆7/7午後10:40
 日本の駐屯軍(5600名)が対岸から2度にわたって10数発の銃撃を受けた
 「盧溝橋事件」。わが軍は「暗号書なし、鉄帽なし、空包使用の演習中」。

◆7/8午前3:25 再び数発の銃声あり。午前5:30 中国軍の攻撃を受ける。
 「我が軍は7時間にわたって銃撃に耐えた」。日本政府は「不拡大方針」で派兵せず。

◆7/9 現地で停戦のための話し合い。中国軍は協議に違反して撤退しなかった。

◆7/11「現地停戦協定」が結ばれ平和がもどった。
・・・しかし、すぐに中国軍の日本に対する挑発行為が続いた。

・7/13 中国軍が北京で日本軍を襲撃し4名を爆殺した。
・7/14 通州で日本の近藤二等兵が惨殺された。
・7/20 盧溝橋で日本軍が一斉射撃された
・7/25 「廊坊事件」日本軍電信隊が襲撃された
・7/26 「広安門事件」広安門の城壁上から中国軍が乱射を受けた
・・・これらは日本でも報道され、国民の怒りが高まっていった。

◆7/28 日本政府はやむなく陸軍の派兵を決定。開戦を通告し攻撃開始(挑発への反撃は正当防衛・侵略ではない)。
 翌日、北京を占領した。日本は治安を守ってこれ以上戦争を拡大しない方針を固めた。

◆7/29 「通州事件」が起きた。・・・むごたらしい挑発!
 ・北京東方の通州で中国保安隊が日本人居留民(一般市民)を襲撃した。日本守備隊が守ったが150名全員が戦死した。日本の民間人380名中260名が虐殺された。女性や子供や老人が中国人のあまりにもむごたらしいやり方(ここには書けないので大人になったら調べてください)で殺されたので、日本国民の怒りは頂点に達した。不拡大方針をで平和を守ろうとする日本政府と軍部を非難する声が全国にあふれた。

◆8/7中国国民党の総統:蔣介石は「日本と全面的に戦う」ことを決定した。

◆8/9日本は平和を求めて、「船津(辰一郎)和平案」にもとづき、平和会談を進めた。 ・平和会談の最中に大山勇夫海軍中尉と部下が虐殺された。会談はつぶされた。

◆8/13 「上海事変」が起きた。国民党軍による一方的攻撃が始まった。中国軍約3万人、日本軍は上海防衛の約4000人にすぎなかった。
 ・蔣介石は、国際都市・上海に国民党軍を入れ無差別攻撃した。日本艦船、日本領事館、その他上海市街を空襲し、外国人・中国人を含め多数の死者が出た。
 ・ついにわが軍も派兵しこのとき本格的な全面戦争になった。完全に準備を整え、近代的なトーチかをつくって中国軍は日本軍を迎え撃った。激戦でわが軍の死傷者は4万3672名(戦死9150名)。中国軍は首都南京に退却しわが軍はこれを追撃した。

◆12/13 日本軍、首都・南京(ナンキン)を占領。
・両軍あわせて10余万の戦死者を出す激戦だったが、蒋介石も南京防衛の大将も逃げてしまったので中国兵はやぶれかぶれの規律のない戦い方をした。20万の南京市民は全員市内の「安全区」に避難していた。日本軍は南京の一般市民を保護した。

◆蒋介石は首都を「重慶」に移し(重慶政府)、いつまでも降参しなかった。

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・解説しながら読んでいく。
・両国の指導者を教える。蒋介石(上)、近衛文麿首相(下)
蒋介石
近衛文麿

『こうして日中の全面戦争になりました』

・はじめの発問に戻り、意見を変えた者がいるかどうかを確かめ、改めて人数分布を確認する。意見を変えた者に理由を言わせる。

・児童には、年表資料による思考と判断にゆだね、教師の考えを押しつけない。     



3 大日本帝国陸軍は「全体として」どんな戦いをしたか?

・まず次の写真を見せる。
南京f

  ┌─────────────────┐
この写真を見て、気づいたことを発表しましょう。
└─────────────────┘

・中国無名戦士の墓
・最敬礼している日本軍将校
・お参りする人々。
・敵の死者にも敬意を払う日本軍
・武士道の伝統

『現代の戦争はまことに悲惨で残酷な戦いでした。戦場ではどんな兵士も平常な精神状態ではいられません。ですから戦場の混乱や狂気じみた精神であり得ない行動に出た人もたくさんあったことでしょう。それは日本人だけでなく各国の兵士も同じでした。でも、この写真のようなことを自発的にやった軍隊は日本軍だけでした。これは悲しい現実の中の一筋の希望です』

・ほかにも南京郊外の孫文の墓をけんめいに守った話など、武士道精神にもとづいて、他国の軍隊では考えられない数々の人道的な行為を大日本帝国陸軍の将兵はやっている。

・次に、こうした日本精神に連なるもうひとつのエピソードを教える。

・以下の資料を読む。

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【資料】黄河を決壊させた蒋介石と日本軍

 1938年(昭和13年)6月に黄河の堤防が決壊し、津波のように流れ出した大量の水が周囲の都市や田畑を襲い多くの人々が死亡する大災害が起こりました。この災害は自然災害ではなく、とんでもない人災でした。
 1937年(昭和12年)盧溝橋事件から支那事変がはじまり、その後日本軍は進撃し翌年6月には河南省の中心地である開封(かいほう)という町を占領します。このままだと国民党政府にとって重要な都市である武漢が危うくなります。そこで蒋介石は、日本軍の進撃を阻止するために黄河の堤防の爆破を命じたのです。大河の水はものすごい勢いで町や村を襲いました。
 氾濫は3つの省にまたがる54,000平方kmの領域に及び、水没範囲は11都市と4000村。3省の農地が農作物ごと破壊され、水死者は100万人、被害者は600万人という大惨事になってしまいました。
 54,000平方kmといっても広すぎてなかなかピンとこないのだが、日本の近畿地方と四国を合わせたよりも広い面積です。

 中国軍はいつものように、これも日本軍がやったと宣伝しましたが今度ばかりは世界はだまされませんでした。
 決壊地点がまだ日本軍が到達していない地点だったからです。

 このように、中国は自分がやった残虐行為をすべて日本軍の仕業と宣伝し続けていました。
 戦争中はこの中国のウソ作戦は成功しませんでしたが、戦争に負けて日本がアメリカに支配されると、中国の「日本軍は残虐だった」というウソ作戦はアメリカ軍の支配の下で成功し、今では日本人までが信じ込むようになってしまったのです。

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┌──────────────────────────────────────┐
ここで問題です。これを見た日本軍はどうしたでしょうか。
│  A 武漢を攻撃するために水没地帯を大きく迂回した。
│  B 急ぐ戦いでもないので、水が引くまで待つことにした。
│  C 攻撃はいったんやめて、中国民衆の命を救う作戦を展開した。
└──────────────────────────────────────┘

・意見分布を確認し、理由を言わせる。
・次の写真を見せ、解説文を説明し、正解はC:救助であることを確認する。

黄河決壊事件3

・中国軍はこの救助活動を行う日本軍医攻撃を加えただけでなかった。仲小路彰さんはこう書いている。「修理を為さんとする良民に対し、支那兵は悪鬼の如く機関銃を猛射せるなり。」(西尾幹二『GHQ焚書図書開封5』)

・英・仏・米・スペインなど各国がこの事件と日本軍の救助活動を伝えている。

・また、中国民衆も日本軍に協力していることを次の資料で読む。

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【資料】日本軍の救助活動と中国民衆

 河南省の人々は日本軍を支持し、日本軍のために道案内、日本軍側前線に対する後方支援、担架の担ぎ手を引き受けるのみならず、軍隊に入り日本軍による中国軍の武装解除を助けるなどした者の数は数え切れない程だった。

 1944年春、日本軍は河南省の掃討を決定した(一号作戦)。そのための兵力は約6万人であった。
 この時、河南戦区の蒋鼎文司令官は河南省の主席とともに農民から彼らの生産手段である耕牛さえ徴発して運送手段にあてることを強行しはじめた。これは農民に耐え難いことであった。

 農民は猟銃、青龍刀、鉄の鍬で自らを武装すると兵士の武器を取りあげはじめ、最後には中隊ごと次々と軍隊の武装を解除させるまでに発展した。
 推定では、河南の戦闘において数週間の内に、約5万人の中国兵士が自らの中国農民に武装解除させられた。すべての農村において武装暴動が起きていた。

 日本軍に敗れた中国兵がいたるところで民衆によって襲撃、惨殺、あるいは掠奪され、武器は勿論、衣服までも剥ぎ取られた。
 3週間以内で日本軍はすべての目標を占領し、南方への鉄道も日本軍の手に落ちた。この結果30万の中国軍は全滅した。

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・中国との戦争については、これまで言われてきたことが見直されている。

『昨年も、朝日新聞が韓国と日本の歴史について、20年間もウソの報道をしていたことを認め謝罪したが、朝日新聞が報道してきた「日本が一方的に悪く、中国は一方的に正しい」というシナ事変についての見方もきわめて怪しいことがわかってきた。
 とくに「南京事件」は朝日新聞が言い始め、それから後に中国も騒ぎ始めたたことであり、それまでは中国もこの件で日本を攻撃したことはなかった。
 これらのことから、朝日新聞が、中国や韓国のために日本を攻撃する材料を創作してきた疑いが濃くなっている。
 朝日新聞などこれまで中国に味方してきたマスコミや学者、教師たちが、中国共産党の利益のために宣伝活動をしてきた疑いが高まっているのだ。
 実際に現在、中国・北朝鮮・韓国のスパイがたくさん日本国内に入りこんでいると言われている。
 よい子のみなさんは、誇りある日本国民としてくれぐれも用心して、日本を守るための真実を見極めていかなければいけないね』

 
 こう解説して授業を終える。


【参考】
劉震雲『温故一九四二』(中国出版)、
西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封』(新潮社)、
田中秀雄『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』(草思社)
東中野修道『南京虐殺の徹底検証』(展転社)『再現 南京戦』(草思社)
北村稔・林思雲『日中戦争 戦争を望んだ中国・望まなかった日本』(PHP研究所)
ブログ「しばやんの日々」、
サイト「南京事件の真実」
ほか
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