授業づくりJAPANの「日本人を育てる授業」

わたしたちは誇りある日本人を育てたい。真の国際派日本人を育てたい。

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「満洲事変と満州国の発展」

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●本授業は齋藤武夫さん(授業づくりJAPAN)の授業案です。


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№58
世界の中の日本 5  【 昭和 1 】
「満洲事変と満州国の発展」

【授業の意図】
・戦後の東京裁判で、満洲事変以後の日本がまるごと犯罪国家として裁かれ、被告は全員有罪になりました。この時代の日本が「侵略戦争」と「残虐な戦争犯罪」を犯した犯罪国家として断罪されたのです。しかし国際法の世界では、この裁判はまったく不公正で虚偽と虚構に満ちた裁判だったという結論が出されています。
・現在の日本では、政治的な理由から、このときの検察側の一方的な主張(ウソや誇張でゆがめられた)だけが教えられています。これは日本の歴史教育の失敗です。
・これから先の授業では、一部の日本人が東京裁判史観の政治宣伝の場にしてきた近現代史を、日本人の手に取りもどすことが求められています。自国に誇りを持てる日本人を育てるためには、隠され禁じられてきた真実を教えさえすれいいのです。ということで、まずは「満洲事変」を当時の日本人の理解にもとづいて、共感的に学んでいきます。


【授業の流れ】

1 満州について確認する 
満州の地図を見る。日本は関東州を租借し、南満州鉄道(長春以南)の経営権などを持つ。それらは、日露戦争、ポーツマス条約によって清国が認めた合法的権利である。
 「関東」の「関」が万里の長城を意味すること、満鉄など。20万人の日本国民(朝鮮人を含む)が暮らし、関東軍1万5千人が駐留して国民の生命財産と権利を守っている。
 満州は軍閥張学良の支配下にあり暴政が続き、張学良の指示で条約違反の反日運動が展開されていた。その私兵が26万人いたことを教える。
満洲1
満洲事変地図

2 反日運動が満州で激発した
・2012年の中国における反日暴動をYouTubeの動画で見せる。
2012年中国の反日暴動

日本企業はたいへんな損害を受けたが、この暴動は中国政府が操ったといわれている。日本政府は簡単な抗議はしたが、在留日本人を保護する行動は取らず阻害賠償も請求しなかった。「冷静に!」
・以下の資料で、こんなものではなかった90年前の満洲を想像させ、居留民の苦しみに共感させる。

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【資料】満洲に住む日本人が反日暴動におびやかされていた
・共産主義者による事件が昭和4年までの10年間で108件。昭和5年、間島省で起きた事件では、日本領事館・駅・鉄道が放火され、市街戦となり日本人44人が殺害された。
・関東庁警察が扱った反日事件(鉄道妨害や企業・商店への破壊活動など)。
 昭和5年1年間で1249件起きた。
・日本人、朝鮮人居留民への迫害事件。暴行、傷害、放火、デマ宣伝など多数。
・排日教育政策による被害。児童への投石、暴行、唾の吐きかけ、ナイフによる脅迫など。
・万宝山事件(昭和6年5月)長春付近で朝鮮人が中国人に襲撃され多数の死者が出た。
・中村震太郎大尉虐殺事件(昭和6年8月)。この事件によって、国民の多くが政府の協 調外交に対して激高し、我慢の限界に達していた。
■幣原喜重郎外務大臣は中国との協調外交をめざした。何が起きてもがまんすることを国民に求めた。張学良の条約違反を中国政府に抗議したが、居留民保護などの具体的な軍事行動は禁止していた(いまの日本と似ていますね)。
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3 満州事変起きる
・昭和6年9月、柳条湖事件(鉄道線路爆破)という謀略によって、綿密な計画を立てた関東軍が行動を起こした。「柳条湖事件は張学良軍のしわざ」と宣伝して、自衛のための軍事行動とした。これは命令にもとづく軍隊としてはあってはならないことだが、満洲をおさえれば問題が解決できると考えて立ち上がったのだった。
・中心人物:石原完爾と板垣征四郎の写真を見せて名前を教えます。(マエストロ小澤征爾は二人を尊敬していた父が一文字ずつもらって命名した)
石原完爾
石原完爾
板垣征四郎
板垣征四郎



4 政府か関東軍か?
・政府はただちに戦いの不拡大を指示し、協調外交を維持しようとした。
・関東軍1万5千人は、張学良軍26万人に勝利して、満州全域に治安を確立した。
┌──────────────────────────────────────┐
│   みなさんが当時の国民になってみたら、どちらを支持するでしょうか?
│   政府か関東軍か。選んでノートに理由を書きましょう。
└──────────────────────────────────────┘
・意見分布を取り、理由を発表させる。
・政府は、結局関東軍の行動を認め、この軍事行動に予算を付けました。国民世論(朝日新聞など)が圧倒的に関東軍を支持したので、民主主義の政府としては従わざるをえない面もありました。

5 満州国の建国
・1932(昭和7)年3月、関東軍は日本の傀儡国として満州国を建国しました。アメリカがパナマ運河を取るために、コロンビアからパナマ共和国を独立させたやり方と似ていますが、こちらは孫文に滅ぼされた清朝最後の皇帝溥儀が希望して満州国(故郷)の皇帝になったので大義名分があります。清朝とは満洲族がシナを征服した王朝でしたから。
・溥儀(ふぎ)の自伝『わが半生』に「私は感激がこみ上げてきた」とあります。
溥儀
溥儀

・満州国を承認しなかった犬養毅は5・15事件で暗殺されます。
犬養毅
犬養毅

・やがて日本政府(斎藤実内閣)は「日満議定書」を結び正式に満州国を承認しました。

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資料「日満議定書」
・満州国は日本と中国で結ばれた条約を尊重する。
・日本と満州国は共同で国家を防衛し、満州国に日本陸軍を駐留する
 (いま、日本全国にある米軍基地と似ていますね)。
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6 国際社会の反応と日本
・中国は強く抗議し、最初は日本に肯定的だったアメリカも後に態度を変えて日本を叩きました。国際連盟も一連の日本の行動を批判しました。
・資料で、双方の意見を読む

****************************************
【資料】国際連盟の意見
・日本が満州でやったことは2つの条約に違反している。
1 パリ不戦条約違反・・・満州事変は条約が禁じた「侵略戦争」にあたる。
2 九ヶ国条約違反・・・満州国は条約が禁じた中国の領土変更にあたる。

【資料】日本政府の意見
・日本の行動は次の理由で正当である。
1 満州事変は、中国側や共産主義者の反日暴動やテロ行為に対する正当防衛であり、国 民の生命財産と権利を守る自衛の戦いである。パリ条約は自衛戦争は禁止していない。
2 満州は中国の領土ではなく満洲人の土地である。満州国は、満州民族の独立運動の結 果であり、満洲民族の皇帝溥儀を君主とする満州民族の国家である。
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・国際連盟は日本の主張を受けて、リットン卿(イギリス人)を団長とする調査団を派遣することになりました。日本もこの調査団派遣を歓迎します。
リットン調査団
リットン調査団柳条湖付近の調査

・資料「リットン報告書の要点」を読ませ、以下のようにまとめます。

****************************************
【資料】リットン報告書の要点
1 満州における日本の権利は正当であり、中国人の反日行動は違法である。また、中国 国民党が反日運動をやらせている事実は条約違反の違法行為である。
 (これは、関東軍の行動は正当防衛であり「侵略戦争ではない」と認めたことになる)
2 しかし、満州国建国は認められない。中国の主権を認め、満州に法と秩序を守れる政 権をつくれ。
 (これは九ヶ国条約違反ではないという日本側の主張を否定したものです)
****************************************

 7 リットン調査団報告書を受け入れるべきか、拒否すべきか?
┌──────────────────────────────────────┐
│   当時の日本のリーダーの一人として、受け入れるか拒否するかを選び、
│  ノートに理由を書きなさい。
└──────────────────────────────────────┘
・意見分布を取り、理由を言わせる。

【日本は、リットン報告書を受け入れなかった】
・1933(昭和8年)日本は、満州国を承認しない国際連盟で孤立し、国際連盟を脱退 した(松岡洋右代表)。
(日本が世界中から孤立してしまったととらえる考えと、大国アメリカのいない連盟を脱退しても、まだ十分日本の外交は成り立ったという考えと、両方あることを教えます。)
・同年5月、日本と中国はタンクー停戦協定を結んだ。
(これは、実質的に、中国が満州国の成立を認めたものであると教えます)
満洲2
満洲国旗
満州国国旗


8 満州国の繁栄と滅亡
・次の資料で、満州国の繁栄を教え、授業を終える。

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【資料】繁栄した満洲帝国
 満州国は「五族協和」のスローガンのもと「王道楽土」の理想を持って発展していきました。EUの父と言われたクーデンホーフ・カレルギーはこう言います。
「今日において満州はシナ全体で最も繁栄し最も発展している。人口は増え、各種工業が発展して経済上の中心地になっている。日本は何十億円という巨費を投資し、シナ革命によって混乱をきわめているシナで治安の良い別天地を作った。シナ全土から移住してくる数百万のシナ人移民に安住の場所を与えたのである」
 ラルフ・タウンゼント(1931年上海アメリカ副領事)はこう言う。
「そこに暮らす三千万の中国人には満州国は天国である。中国の領土保全、門戸開放、機会均等を説いたいわゆる『九か国条約』が結ばれてから十年、一体全体その条約が誰かの役に立ったか。役に立っていない。逆説的な言い方になるが、いくら『条約が破られた』と嘆いたとしても、その結果、満州に暮らす人に安寧と繁栄がもたらされたのである」
満洲の町並み
満洲の町並み
満洲アジア号
アジア号

 昭和11年(1936年)4月に第一次産業開発5か年計画が定められ、満州は繁栄期に入ります。電力、鉄鋼、石炭、液体燃料、アルミニウム、鉛、亜鉛、石綿、塩、ソーダ灰、パルプ、畜産加工、兵器、飛行機、自動車、車両の増産が図られていきました。満州の熱気を象徴するものに豊満ダムがあります。このダムは吉林省の上流20キロの地点に作られました。貯水面積は620平方キロで琵琶湖大の人造湖が忽然と満州の中央に出現しました。多目的ダムであり、洪水防止、灌漑、飲料水、工業用水、航運、発電に利用されました。このダムの完成後、視察に訪れたフィリピンの外相はその規模と効用の大きさに驚嘆し、「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカの支配下で40年が経過している。だが住民の生活向上に役立つものは一つも作っていない。満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と歓声を発したといいます。
豊満ダム
豊満ダム

 満州の人口は1915年には2000万人でしたが、昭和16年には4300万人になっています。年間百万人前後の人間が安住の地、天国、満州めざしてなだれ込んでいったのです。
(参考)ラルフ・タウンゼント「暗黒大陸中国」(芙蓉書房出版)、宮脇淳子「世界史のなかの満州帝国」(PHP新書)ほか
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・1945(昭和20)年、8月、日ソ中立条約を一方的に破ったソ連軍の暴虐によって、満州国は滅びたことを教えます。12年間の「幻の帝国」に終わりました。
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「松江豊寿陸軍大佐と『武士の情け』」

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●本授業は飯島利一先生(授業づくりJAPAN)の実践です。自由主義史観研究会HPから転載させていただきました。


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№57
世界の中の日本 4  【 大正 3 】
「松江豊寿陸軍大佐と『武士の情け』」




【授業の意図】
 松江豊寿(とよひさ)陸軍大佐が、板東俘虜収容所の所長として、どのように行動したか。その考えや思いを理解することを通じて、「武士の情け」のもつ意味を理解させる。「武士の情け」とは、西欧的な博愛やヒューマニズム的に基づく優しさとは違う。たとえ敗れても、果敢に正々堂々と戦った勇者に対する敬意の念が込められている。この点を学習者に気づかせることがねらいである。

【授業の流れ】

1.板東俘虜収容所とは? 
板東俘虜収容所という施設。戦争に敗れ投降した軍人を収容する施設です。ここに約1000名のドイツ人が収容されていました。場所は現在の徳島県鳴門市です。それにしても、どうしてドイツ人が捕虜となって日本に来たのでしょうか。[  ]のキーワードを入れながら、確認していきましょう。

松江1


【1】第1次世界大戦における日本とドイツ
①1914年におこった[ 第1次世界大戦 ]で、日本は日英同盟を理由にドイツへ宣戦。
②日本は、[ 青島(チンタオ) ]の要塞など、中国大陸におけるドイツ植民地を攻撃。
③ドイツ軍は勇敢に戦う。しかし降伏し約4000名が俘虜となって日本の収容所へ移送。
  ⇒1915年から各地にドイツ人俘虜が収容される。
    1917年、丸亀・松江・徳島などの収容所を統合して、
   [ 板東俘虜収容所 ]を建設。
②勇敢に戦いながらも降伏し捕虜となったドイツ将兵は、日本の収容所での生活に不安があったようです。当時、捕虜(俘虜)になると、どうような扱いを受けたのでしょう。

【2】捕虜(俘虜)のあつかい
①近代以前
・[ 奴隷 ]にされる
・[ 虐殺 ]される 
・捕虜と引き換えに[ 身代金 ]を要求される
②国際法の規定
[ ハーグ陸戦条約 ] (1899)=捕虜は保護されると規定.虐待・殺害すると戦争犯罪となる ・・・しかし各国ともあまり守っていなかった
③日本の場合
捕虜になると辱めを受けるので、[ 自決 ]することが望ましいと考える風潮。
◆国際法では捕虜を保護する規定がありましたが、どこの国もあまり厳密に守っていなかったようです。虐待・殺害などが禁止されているのは、従来、捕虜に対する扱いが非情に残酷であったことを示していると言えるでしょう。

2.所長松江豊寿と収容所の生活
・所長は松江豊寿という人物でした。厳めしい髭は、カイゼル髭と言います。
松江2



【3】松江豊寿所長のプロフィール
①会津(福島県)の出身だった
明治5年(1872)に、会津藩士だった松江久平の長男として生まれる。会津藩は佐幕派だった ので、戊辰戦争で薩長(新政府軍)と戦って敗れた。そのため、幼い頃から貧しく苦労した。
②陸軍のエリート軍人だった
成績が優秀で、当時超難関だった陸軍幼年学校・陸軍士官学校をでる。日清・日露戦争に従 軍。1917年に、板東俘虜収容所の所長となる。陸軍大佐で44歳。
③節を曲げぬ反骨の人だった
大尉のときに朝鮮駐留司令官の副官となったが、長州閥の上官と意見が対立。自分の信念を まげず結局副官を解任され、左遷された経歴がある。

・それでは、この収容所のドイツ俘虜の生活はどのようなものであったか。具体的に考えていきましょう。

【問題1】
****************************************
・収容所でのドイツ人俘虜は、どのように処遇されたのでしょうか。かれらに許可したものを○、ダメなものを×で答えてください。
①ドイツ皇帝の誕生日やクリスマスには、ドイツの歌を合唱し、お酒を飲んでパーティをした。  
②日本語教室がひらかれ、希望者は勉強することができた。  
③簡単なチェックだけで、収容所から自由外出が許され、地元の人と接触することができた。  
④テニス、ボクシングなどのスポーツ大会が盛んに実施された。  
⑤ドイツ人俘虜が編集者となって新聞を発行し、ドイツの戦況や日本の様子が記事になった。  
⑥ドイツ人俘虜は収容所の食事が口に合わず、ソーセージ・チーズなどをつくって食事した 。
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・いくつ○印がついたでしょうか。実は正解は全部○。収容所の内容を写真で見ていきながら、事実関係を確認しましょう。

松江3
ヘルマンハイゼン楽団

松江4
地元の人との交流

松江5
収容所内のテニスコート           

松江6
 「ディ・バラッケ」紙の挿絵

①…ヘルマン・ハイゼン楽団という、楽器を演奏できる俘虜達によるオーケストラがつくられ、日本で初めてベートーベンの交響曲第九番が演奏されました。

③…地元の人との交流はとても盛んでした。板東の公会堂を借りて「ドイツ俘虜による作品展覧会」が開催され、絵画・カメラ・食品・雑貨などドイツの技術や文化が、地元周辺の人々に紹介されました。地元の人は親しみを込めて「ドイツさん」と呼んでいたほどです。

⑤…収容所内には印刷所が設けられ、「ディ・バラッケ」という新聞が、ドイツ俘虜の編集によって発刊されていました。またこのほか、ドイツ人捕虜の妻たちは収容所を訪れ、いつでも面会することができました。彼女たちははるばる日本にやってきて、板東の付近に移り住んできたのです。

・収容所内の俘虜の多くは、戦地で離れてしまった戦友・銃後をまもる家族への思いでストレスをかかえていました。ノイローゼなどの精神的な病気になる、また収容所脱走の原因になる場合もあります。松江所長は、国際法を研究して俘虜の将校と交渉を重ねました。そして規則は規則として厳守させながら、可能な限りドイツ人俘虜の願いを実現させるようにつとめたのです。とくに、望郷の念、祖国や家族への心情には常に配慮しました。

【松江所長の方針】
 このような方針に反発する意見もありました。
(1)所内の部下から「所長は俘虜に甘いのではないか」と指摘される。
(2)俘虜情報局の上官からは収容所に金を使いすぎると叱責され、予算を削減されました。
・しかし、所長は決して自分の信念を曲げず、収容所の方針を変えることはありませんでした。彼の姿勢は、つぎの言葉に表れています。彼は何故ドイツ俘虜に配慮を示したのか、その理由となることを次の言葉から考えてみましょう。

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【資料1 松江所長のドイツ人俘虜にむけた訓示】

「諸子は祖国を遠く離れた孤立無援の青島において、絶望的な状況のなかにありながら、祖国愛に燃え最後まで勇戦敢闘した勇士であった。しかし刀折れ矢尽き果てて日本軍に降ったのである。だが、諸子の愛国の精神と勇気とは敵の軍門に降ってもいささかも損壊されることはない。依然、愛国の勇士である。それゆえをもって、私は諸子の立場に同情を禁じえないのである。願はくば自らの名誉を汚すことなかれ。…」
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・松江所長は「俘虜は犯罪者ではない」「彼らも祖国のために戦ったのだから」が、口癖でした。彼らを祖国のために敢闘した勇士として迎えたのです。


3.会津人としての松江豊寿
(1)松江所長の信念には、どのような背景があったのでしょうか。最初に俘虜を受け入れる日の前日、松江は身の上話をして、部下にある告白をしています。これは彼の考えをよく示していると言えるでしょう。[ A ][ B ]に入るキーワードを考えながら読んでいきましょう。

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【資料2 松江が収容所の部下に語る】 

 実は、私は[ A ]人だ。…戊辰戦争のみぎり、鶴が城に拠って官軍に抗し、朝敵の汚名をこうむった[ A ]藩士の子として、この世に生をうけた。私の父祖たちは、鶴ガ城落城と同時に俘虜となって、[ A ]降伏人とよばれ、屈辱と惨苦の境涯におちいったのである。…降伏人、すなわち俘虜というものがどんなに悲しいものであるかを、私は幼心に深く刻み込まれ、それはいまも忘れることができない。…「薩長人ら官軍にせめて一片の武士の情けありせば」とは、あのみぎり大人たちがよく口にしていた言葉であった。これも、今もなお私の耳底に残って忘れることのできぬものである。さて、明日は第1次俘虜が当所にやって来る。そこで諸官へ、所長としての私の俘虜に対する方針を述べておきたい。[ B ]、これを根幹として俘虜を取り扱いたい。わかってくれるかね。
****************************************

・プロフィールでも紹介したように、[ A ]には「会津」が入ることは分かります。

[ B ]に入るキーワードは何でしょうか。キーワードとなる言葉を、上の資料2「松江が収容所の部下に語る」から抜き出して、答えてください。

・答は「武士の情け」です。敗者となった会津藩士の子として塗炭の苦しみを経験したことから、彼は「武士の情け」をもってドイツ人俘虜に接したことがわかります。

(2)松江の出身である会津藩は、どのような藩だったのでしょうか。会津藩は徳川将軍家との関係が深く、初代藩主保科正之は3代将軍家光の弟です。そのため、将軍家に危難があれば、藩を賭して守護する藩風がありました。
 とくに、武士の子弟教育は独自のものがあり、その教えは「会津武士道」と表現されています。まず会津藩士の子弟は、10人1組で「什」というグループをつくり、遊びや勉強など常に行動を共にします。そのグループには守らなければならない規則があり、互いに切磋琢磨して自律心を養いました。

****************************************
【資料3 「什の掟」】

一 年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二 年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三 虚言をいふ事はなりませぬ
四 [ C ]な振舞をしてはなりませぬ
五 [ D ]をいじめてはなりませぬ
六 戸外で物を食べてはなりませぬ
七 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです(上の各条を固く守りなさい)
****************************************・[ C ]には「卑怯な」、

[ D ]には「弱い者」が入ります。
・いかなる理由があろうとも、上の掟を破ることは許されませんでした。破ると厳罰がまっています。会津藩士は、幼い頃の厳しい教育によって、武士としての優れた人格を培っていったのです。明治初期に生また松江も、このような気風をもつ環境の中で、正々堂々と戦った者への敬意の念や、敗者に対するいたわりを身につけていきました。

(3)会津武士の精神は、戊辰戦争で発揮され、敗れたとはいえ、堂々とした戦いぶりは大いに薩長軍を悩ませました。しかし新政府軍(薩長軍)の態度は苛酷なものだったのです。
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①会津藩は恭順の意を示したが、朝敵の汚名を着せられ容赦なく攻撃される。
②女・こども(白虎隊の悲劇)など約3000人が戦死・自決を余儀なくされる。
③女分捕り隊・物品押収隊が派遣され城下が荒らされる。
④会津人の死者は埋葬が許されず、屍は放置されたままだった。
⑤明治に入って会津人は青森県斗南に一時移され、極貧で罪人のような暮らしを強いられた。  
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・松江の父祖が経験した会津藩の悲運を考えると、彼の言う「武士の情け」の重みが理解できるのではないでしょうか。


4.ドイツ人俘虜の帰国、その後 

①1918年、ドイツの敗戦が板東にも伝わります。収容所内でドイツの勝利を祈っていた俘虜たちは大きく動揺しまし、将軍・士官たちはドイツ人としての誇りを失います。松江所長は次のように言いました。

****************************************
【資料4 松江所長が収容所のドイツ人に語る】 

諸君。私はまず今次大戦に戦死を遂げた敵味方の勇士に対して哀悼の意を表したい。もとい。いま敵味方と申したが、これは誤りである。去る6月28日調印の瞬間をもって、我々は敵味方の区別がなくなったのであった。同時にその瞬間において、諸君はゲファンゲネ(俘虜)ではなくなった。ドイツ国民の一人一人であり、一個の自由なる人間になったのである。…さて、諸君が懐かしい祖国へ送還される日も、そう遠くではないとおもうが、すでに諸君が想像されているように、敗戦国の国民生活は古今東西を問わずみじめなものである。私は幼少期において、そのことを肝に銘じ、心魂に徹して知っている。それゆえ、帰国後の諸君の辛労を思うと、今から胸の痛む思いである。…どうぞ諸君はそのことをしっかり念頭において、困難にもめげず、祖国復興に尽力してもらいたい。
****************************************

②1919年、パリ講和会議が開かれてヴェルサイユ条約が締結されると、徐々にドイツ人たちは帰国していきました。この年の4月に収容所は閉鎖されています。その後、松江豊寿は大正11年(1922)に陸軍少将になりますが、その年の12月に会津若松市の市長に就任します。約3年間つとめて、白虎隊の慰霊碑を整備するなど地元会津のために力を尽くしました。そして昭和57年に87歳で永眠しました。

③この収容所での生活はその後もずっと、ドイツ人の心に残ったようです。ドイツ人は、松江の精神をヒューマニズムや博愛と形容して讃えています。

****************************************
【資料5 ドイツ人俘虜からの手紙】

●ポールクーリー(リューデンシャイト市在住)
「私は、今度の第二次世界大戦にも召集をうけ、運わるくソ連の捕虜となり、1956年に解放されましたが、ソ連のラーゲルで冷酷と非情をいやというほど知らされたとき、私の脳裏に浮かんできたのは、バンドウのことでありました。バンドウにこそ国境を越えた人間同士の真の友愛の灯がともっていたのでした。…私は確信をもっていえます。世界のどこにバンドウのようなラーゲルが存在したでしょうか。世界のどこにマツエ大佐のようなラーゲルコマンダーがいたでしょうか。」

●エドアルド・ライポルト(コーブルグ市在住)
「懐かしきバンドウの皆さま。私は今から47年前、貴町の俘虜収容所にいた元俘虜であります。バンドウラーゲルの5ヵ年は、歳月がどんなに経過しても、私たちの心の中で色褪せることはありません。否、ますます鮮やかによみがえります。あのころの仲間で、現在も生き残って西ドイツに住んでいる者のうち、連絡のとれる33名は、年に何回かフランクフルトに集まって「バンドウを偲ぶ会」をもう20数年続けております。会合のたびに、私たちはバンドウのめいめいの青春の日々を限りなく懐かしみ、遥かな御地へ熱い思いを馳せているのです。…目をつむると今もまざまざと、マツエ大佐、バラック、町のたたずまい、山や森や野原などが瞼に浮かんできます。…」

****************************************

・ドイツと収容所のあった鳴門市との文化交流は、100年足らずたった現在でも盛んです。鳴門市ドイツ館というその象徴的な施設があります。


5.「武士の情け」とは何か

①昭和に入って松江の息子智寿が父豊寿について、以下のように語っています。

****************************************
【資料5 松江の息子智寿が「父の性格」を語る】

(収容所所長をやった父のことを)、アウシュビッツやソンミ村事件に比べて、ヒューマニズムという言葉でいう人もありますが、ヒューマニズムというような今日的な言葉よりも、「武士の情け」という言葉のほうが、一番ぴったりしているように思います。父は武士らしい厳しさと、強い正義感をもつ反面、人間を全面的に信頼し、情にはひどくもろいところがありました。
****************************************

・アウシュビッツは第2次世界大戦のナチスドイツがユダヤ人の虐殺を行った収容所として有名。ソンミ村事件とはヴェトナム戦争中におこった、アメリカ軍人よる非武装民間人の虐殺事件です。この場合のヒューマニズムとは、西欧における人道的・博愛的な人間中心主義を指しています。しかし、西欧外来の言葉を借りずとも、日本では「武士の情け」という言葉で、その美徳を表現できるのです。

②今日のキーワードは「武士の情け」でした。これまで見たように、松江の「武士の情け」は、西欧でいう人道的・博愛的な優しさを示すことではありません。最後に理解したことがらをまとめてみましょう。

【問題2】
 松江の行動や会津の武士道から、「武士の情け」の意味をどのように考えますか。


(答えの例:武士の情けは、敗者に対するいたわり・優しさを表現している。だが、そこには果敢に正々堂々と戦った勇者に対する敬意が込められている。)


《主な参考文献》
・棟田 傳 『板東俘虜収容所物語』 光人社NF文庫
・星 亮一 『松江豊寿と会津武士道』 ベスト新書
・星 亮一 『会津武士道』青春出版 インテリジェンス
・中村彰彦 『二つの山河』 文春文庫
・会津若松市発行 『会津人の誇りを持ち信念をつらぬいた人 松江豊寿』

中2歴史 「第一次世界大戦と人種平等提案」

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●授業づくりJAPANさいたま「学校でまなびたい歴史」(代表・齋藤武夫)の「第一次世界大戦
と人種平等提案」をお届けします。


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№56
世界の中の日本 3  【 大正 2 】
「第一次世界大戦と人種平等提案」


【授業の意図】

・第一次世界大戦に参戦した日本は、シナと太平洋にあったドイツ権益を肩代わりすることになります。大戦中の経済成長もあり、日本は名実ともに世界の5大国にのし上がりました。まさに列強の一員として世界に存在感を示した日本でしたが、戦後の新しい国際秩序の形成にはあまり大きな影響力を発揮することはできませんでした。

・この授業では、アメリカの日本人差別、ドイツとの戦争、最後に日本が国際連盟規約に盛り込もうとした「人種平等案」とそれが拒否されたエピソードを取り上げます。

・前時のボースをめぐる日本人の話、本時の人種平等案、のちの大東亜会議とチャンドラ・ボースの話が大きな筋でつながります。前時に続いて、国内に反英米感情が高まっていく流れを理解します。

【授業の流れ】

『大正時代の2時間目です。』

1 アメリカの太平洋進出と人種差別

・プリント資料「アメリカの太平洋進出と人種差別」を読み、地図などを使って説明する。
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【資料】アメリカの太平洋進出と人種差別

・1893年、ハワイ王国を倒した(女王を退位させた)。1898年ハワイ併合
・1898年、アメリカ・スペイン戦争でスペインの植民地だったフィリピン・グアム・プエルトリコを奪った。
・1903年、アメリカはパナマ運河地域をコロンビアから独立させパナマ共和国とし、パナマ運河をつくりアメリカのものにし       た。1914年(開通)

◆アメリカは武力で太平洋に進出して、日本に対抗するようになった。
アメリカの太平洋進出009

◆アメリカの日本人移民に対する差別がひどくなった。 

・1913年(大正2年)、排日土地法(カリフォルニア州 では、日本人は土地を所有できなくなった。州からの日本人の追放              がねらいだった)
・1924年(大正13年)、排日移民法(日本人の移民を禁止した)

JAP.jpg


・・・・資料終わり
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『ペリー以来、日本とアメリカ、日本とイギリスは友好的でした。
日露戦争の勝利は日英同盟とセオドア・ルーズベルト大統領の仲介おかげでした。
大正時代の日本人はアメリカから入ってきたハリウッドの映画やジャズなどのアメリカ音楽が大好きでした。
それは今も変わりません。
しかし、この資料で示したアメリカの攻撃的な動きは、日本人の中に強い反米感情を生み出します。
前時でやったアジアの独立を応援する気持ちが少しずつ日本人の反英感情を育てたように、アメリカの人種差別は日本人の反米感情を爆発させました』

・板書:アメリカの日本差別法・・・日本世論は反米に向かった。



2 第一次世界大戦

『大正時代の日本は平和な時代でした。
しかしヨーロッパは4年間続いた第一次世界大戦のために850万人が死に主要都市は廃墟になりました。
科学の進歩は戦争も変えたのです』

次の写真のうち第一次世界大戦で初めて使われた兵器はどれでしょうか?
第一次大戦1
火縄銃
第一次大戦2
第一次大戦3
第一次大戦4
原爆

・発表させる。
【戦車・飛行機・毒ガス(ガスマスク)・潜水艦】
・火縄銃は16世紀、原爆は第二次大戦、

以下の内容を説明する。
・1914年(大正3年)6月、オーストリア帝国の
皇太子がセルビアの青年に暗殺された。・8月までに「ドイツ・オーストリア・イタリア」(三国同盟)と「イギリス・フランス・ロシア」(三国協商)が宣戦布告し、日本は日英同盟のよしみでイギリスから参戦の要請を受けた。
・大隈重信内閣は参戦を決定し、加藤高明内閣は次のように述べた。
「日本がイギリスを援助する以上、日英同盟や日本の戦略的必要から、すべての軍事行動を取らなくてはならない。(略)日本も交戦国となったからには、東アジアにおける日英両国の利益をおびやかすドイツ勢力を一掃する軍事行動は当然である」
・こうして次ぎの戦闘行為を行った。
(1)中国山東省の青島(チンタオ)を攻撃し、ドイツ軍は降伏した。
(2)南太平洋のマーシャル群島・マリアナ諸島・パラオ諸島・カロリン諸島を占領した。(3)太平洋の通商路を脅かしたドイツ海軍を撃破した。
・このときドイツ人の戦死者はおよそ300人。残りのおよそ4600人のドイツ人を、日本は戦争終結まで4年間捕虜とした。

3 ベルサイユ講和会議と人種平等提案

『第一次世界大戦は4年間も続き、1918(大正7)年まで続き、翌年パリのベルサイユ宮殿で講和会議が開かれました。
日本の全権代表は牧野伸顕、日本は五大国の一国としてこの会議に参加しました。
議長はアメリカのウイルソン大統領でした。ウイルソンの提案で国際連盟が発足しました。
しかし、おかしな話ですが、提案国のアメリカは国際連盟には参加しませんでした。』

『日本に関して決まったことは2つでした』
(1)南太平世の島々は日本領とはせず、国際連盟から日本が委任されて統治することになった。
  ●日本はこれらの島々のために、親切に面倒をみた。いまも親日国が多い。
(2)中国山東省のドイツの支配地域は日本が引き継ぐことになったが、中国はこれを認めなかった。
  ●3年後、日本は一部の鉄道と鉱山の権利以外はすべて中国に返還した。しかし、その後中国はこの約束を守らず、    日本の権利は中国政府や中国人に何度も侵害された。

日本はこの会議で、国際連盟のための重要な提案をしました。次のどれでしょうか?

 A 植民地をやめよう
 B 戦争をやめよう  
 C 人種差別をやめよう

・人数分布を確認してから、次の資料を読み事実を知る。

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【資料】日本の「人種差別撤廃」提案  
日本全権:牧野伸顕
牧野伸顕

 日本政府はこの会議で、国際連盟における人種差別撤廃を提案しました。なぜなら、日本はこれまでの苦労を通して本当に心配だったからです。国際連盟では白人国が圧倒的多数になります。有色人種の多くは植民地で支配されていて国の代表ではないからです。そうなると、国際連盟のいろいろな規則を白人側に有利なように決めて、日本は大変不利になるのではないかと心配したのです。
 さらに、各国の国内でも人種差別を止めてもらいたいと強調しました。移民問題でアメリカやその他の国に日本は人種差別を受けていたからです。
 しかし、欧米の植民地を解放しろとまでは言いません。それでは日本がまったく孤立してしまいます。あくまで国際連盟に参加する責任ある国どうしでは人種平等にしようということでした。
 しかし、イギリスをはじめオーストラリア・ニュージーランド・カナダ・南アフリカなどイギリス人が現地人を支配する国々は大反対でした。とうてい無理だとわかった牧野たちは、人種平等を国際連盟の規約にするのはあきらめました。そして、拘束力の無い原則的な宣言のかたちに提案を改めました。
 牧野伸顕は何度も提案演説を行い採決になりました。出席16ヶ国のうち11ヶ国が賛成でした。アメリカを含む5ヶ国が反対でした。牧野たち日本代表は圧倒的な賛成多数に一安心しました。
 すると議長のアメリカ大統領ウイルソンはこう言ったのです。
「この問題はたいへん重要な問題なので多数決では決められない。全員賛成ではないのでこの提案は否決します」
 牧野全権は「これまでは多数決で決めておきながら、日本の提案だけ全員一致でなければだめだというのはおかしい」と抗議しましたが会議はくつがえりませんでした。日本の提案は記録に残されただけで終わってしまいました。
 日本の世論はこの結果に激しく怒りました。人種差別反対は道徳的に正しいことは明らかなので、現地フランスの新聞は日本に同情的な記事を書きました。しかし現実は変わりません。
 日本国民の多くは、道徳的な正義を平気で踏みにじる英米などの白人諸国が許せませんでした。
人種差別反対の精神はその後も日本政府の一貫した方針になりました。第二次世界大戦では、同盟国ドイツに迫害されたたくさんのユダヤ人の命を、日本は人種平等の原則によって救ったのです。

ウイルソン大統領
ウイルソン


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・日本は世界で初めてに人種平等の提案をしたが、ウイルソンによって否決された。
・感想を書いて授業を終える。 
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