授業づくりJAPANの「日本人を育てる授業」

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日本マラソンの父・金栗四三②

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日本マラソンの父・金栗四三②


道徳1-(2)強い意志~目標を貫いて生きる
「日本マラソンの父・金栗四三(かなぐりしぞう)」
        3度のオリンピッック(つづき)

金森四三
金森四三1


◆ 発問 3~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

【資料3】を読んでどう思いましたか?
このあと、金栗四三はどうなったでしょうか?


◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

「マラソンをやめた」
「もっと努力した」
「また教師に戻った」など

『資料4で確認しましょう』

【資料4】その後の金栗四三◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

四三は現役を引退しましたが、指導者として大きな功績を残しました。
その画期的な仕事のひとつが、マラソンシューズの開発です。
底にゴムを張りつけた「金栗足袋」は、全国の運動会などで愛用され、多くの選手たちを助けました。

四三は選手の育成、競技の普及のために全国をかけまわりました。
心肺機能の充実をはかる富士登山競争、高地トレーニング、インターバル・トレーニングなど次々と新しい練習方法を取り入れていきました。

また、
「マラソンは孤独で辛い。だから競技人口も少ない」
と、四三はチームで練習をやろうと考え、箱根駅伝を企画しました。
ふだんの練習をゲームにして、互いに励まし合って責任感とチームの和を育て、練習の質と量を高めてマラソンのレベルアップにつなげようとしたのです。

さらに、女性のスポーツが一般的でなかった当時、四三は女子体育の大切さを説き、全国に普及させました。

四三は常に日本スポーツ界の先頭に立って、全国を回り、オリンピック運動や陸上競技の普及・向上に努めました。
抜群の発想力、企画力、行動力、指導力、組織力を発揮し、日本スポーツ界のパイオニアとして活躍しました。

戦後も全国マラソン連盟の会長となり、現在のマラソン界につながる試みのほとんどが四三の発案です。
我が国が長距離走に強いのは、四三のおかげと言ってもいいでしょう。

一方で後輩たちからは「お釈迦様」と呼ばれるほど、誠実で温厚な人柄でした。

金栗四三
金森四三2


そんな四三の座右の銘は
「体力、気力、努力」
です。

現役時代から換算すると四三の全走行距離はなんと25万km、およそ地球6周以上にもなります。


世界のマラソン界でも金栗四三の名は知れ渡り、いつしか四三は「日本マラソンの父」と呼ばれるようになりました。

そんな彼のただひとつの心残りがストックホルム大会での挫折でした。

初のオリンピックを途中棄権してから50年余りが過ぎた昭和42(1967)年。
75歳になった四三のところにスウェーデンのオリンピック委員会から招待状が届きました。
「ストックホルムオリンピック開催55周年」を記念する式典に招待するというのです。

実はストックホルム大会の時、正式に棄権届けを出していなかったので、四三は
「競技中に失踪し、行方不明」
として扱われていたのです。
その「消えた日本人選手」が、今も健在であることを知った委員会が四三を招待したのでした。
その招待状には、なんと次のように書いてあったのです。

「あなたは、1912年のストックホルムオリンピックマラソン競技において、まだゴールをされていません。
あなたがゴールするのをお待ちしております」


四三は、半世紀ぶりに思い出のスタジアムを訪れました。
するとそこには、一本のゴールテープが用意されていました。
彼のためだけに用意されたゴールです。
観客の割れるような拍手の中、四三は20メートルほどの直線を走ってテープを切りました。
スタジアムには、

「ただいまゴールしたのはミスター・カナグリ。ジャパン。
タイムは54年8ヶ月6日5時間32分20秒3。
これで第5回ストックホルム大会は、全日程を終了しました」


とアナウンスが流れました。
観客たちは、20歳でスタートし、75歳でゴールした四三を声援と拍手でたたえました。

四三は、これに答えて

「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」

とユーモアあふれるコメントを返し、ストックホルムの人々は大喜びです。

この記録はオリンピック公式記録として認定されました。
今後、この記録が破られることはないでしょう。

54年8ヶ月6日5時間32分20秒3でゴールした瞬間
金森四三3


昭和59(1984)年11月13日、四三は93才で永眠しました。
箱根駅伝では、彼の功績をたたえて、最優秀選手に「金栗四三杯」が贈呈されています。

◆(資料ここまで)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


◆ 発問 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

【資料4】を読んで、考えたことや感心したことは何ですか。
今日の学習内容に照らして、現在の自分はどうですか。


◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

(授業 終わり)


日本マラソン界に多大なる貢献をした四三の功績を称えるとともに、不屈の闘志で頑張った四三から
「努力を続けることの大切さ」
を学びとらせたいですね。

また、スウェーデン人の粋なはからいに感動しました。
偉大な人の功績は、国境を越えるのでしょう。

現在、ストックホルム近郊のマラソンコースがあった町「ソレントゥナ」に金栗四三の記念銘板が設置されています。

ストックホルム近郊のマラソンコース上の町・ソレントゥナに設置された金栗四三の記念銘板
金森四三4


左の女性が、四三を介抱してくれた農家の人の子孫ですって。
JOCの竹田会長からプレート贈呈。

JOCが感謝のプレート贈呈 百年前、マラソン金栗を介抱した家族の子孫に
金森四三5



■参考文献■

・『熊本陸上競技史』(熊本陸上競技協会創立60周年記念)
平成19年3月発行
・熊本県和水町HP「マラソンの父・金栗四三」
 http://www.town.nagomi.lg.jp/default.asp
・熊本県立玉名高等学校HP「大先輩」
 http://www.higo.ed.jp/sh/tamanash/
・『走れ25万キロ―マラソンの父金栗四三伝』
 豊福一喜、長谷川孝道(講談社)
・『走ったぞ!! 地球25万キロ―マラソンの父・金栗四三』
 浜野卓也、清水耕蔵(佼成出版社)
・ビデオ『夢をかなえた男マラソン王 金栗四三』
 (テレビ熊本偉人シリーズ)1999年作品
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日本マラソンの父・金栗四三(かなぐりしぞう)

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道徳1-(2)強い意志~目標を貫いて生きる

「日本マラソンの父・金栗四三」
         3度のオリンピック


◆ 発問1 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

あなたは挫折したことがありますか?
どんなことで落ち込みましたか?
あなたは、なぜ挫折をしないのでしょうか?
今は立ち直ってますか?
どうやって立ち直りましたか?
どうすれば立ち直れると思いますか?

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

中学生といえども、たいがい誰でも大なり小なりの挫折を経験しているものです。
今日の徳目は「強い意志」とは何かを考えること。
ひとしきり生徒に自分自身を振り返らせたあと、【資料1】に入ります。

【資料1】オリンピック日本人選手第1号◆◇◆◇◆◇◆

箱根駅伝
金栗四三1


今や正月の恒例行事となっている箱根駅伝。
その第1回大会は大正9年(1920年)2月14、15日に行なわれました。
慶応大・明治大・早稲田大・東京高等師範(現筑波大学)の4校で競いました。
数々のドラマはこの時から始まりました。
この箱根駅伝の提唱者が金栗四三という人です。

さて、日本が初めてオリンピックに参加したのは1912年、スウェーデンで開催された第5回ストックホルム大会です。
参加した日本代表選手は、たったの2人。
そのひとりがマラソン代表の四三(しぞう)でした。

日本で「マラソン=42.195キロ」が定着したのは1911年。
このストックホルム大会の前年に行われた国内予選のことです。
これが日本初の公式マラソンでした。

日本マラソンの始まりは劇的でした。
羽田からスタートして川崎を経て、東神奈川で折り返すコースです。
この大会で四三は、雨風の悪条件の中、2時間32分45秒のタイムで優勝し、なんと当時の世界記録(2時間59分45秒)を27分も縮めたのです!

東京中に号外が舞ったといいます。
この驚くべき記録で優勝した四三は、翌年のストックホルムオリンピックに「日本人選手第1号」として出場することになりました。
この時、20歳の若者でした。

金栗四三は、明治24(1891)年8月20日、熊本県和水(なごみ)町の造り酒屋に生まれました。
父親が43歳の時に生まれたので、四三と名付けられました。
小学校時代は往復12キロの道のりを、毎日走って通学したといいます。
中学校時代は特待生に推薦されるほどの秀才で、スポーツの経験はなかったそうです。

東京高等師範学校(現筑波大学)に入学した四三は、校長の嘉納治五郎(かのうじごろう)(講道館柔道創始者)に才能を見出されます。
陸上競技部に入部し、独特の工夫とアイディア、人の何倍もの努力を積み重ね、たちまち学校を代表するランナーに成長していきました。

オリンピック代表選手に選ばれた時、四三は、国際オリンピック委員会(IOC)委員でもある嘉納校長に、胸の内を打ち明けました。

「先生、羽田のレースでは幸運にも勝つことができました。
しかし、充分な練習も準備もできていないまま、たとえ3、4ヶ月のトレーニングを積んだとしても全く自信はありません。
行けば是非勝ちたいと思うでしょう。
また、勝たねば期待してくれる国民諸君に申し訳ありません」

日本人初のオリンピック出場に、四三には巨大なプレッシャーがのしかかっていました。

1924年に開催されたオリンピック、第8回パリ大会での金栗四三選手
金栗四三2

「日本マラソンの父」といわれている金栗四三の現役時代(左)。足に履いているのは何でしょう?

◆ 発問 2~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

金栗四三はオリンピックへの出場を決意するのですが、それは何のためだと思いますか?

ア、自分自身のため
イ、家族や世話になった人達のため
ウ、その他

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

【資料2】「JAPANなら、やめます」◆◇◆◇◆◇◆◇◆

オリンピック出場に迷う四三に対して、嘉納は
「君の足で、君のマラソンの力で、日本のスポーツの海外発展のきっかけを築いてくれ。
勝ってこいというのではない。
最善を尽くしてくれればいいのだ。
日本スポーツ界のために『黎明(れいめい)の鐘』となりなさい」
と説きました。

黎明とは、夜明けのことです。
「黎明の鐘」という言葉にしびれた、と四三は決意します。

「実力を発揮すれば必ず金メダルが獲得できる!」
マラソンシューズなどは持っていないので、四三は底を厚く縫い合わせた足袋を履いて競技していました。
この格好で、絶対に優勝してみせるとの信念で、ストックホルムへと向かいました。

開幕の直前、組織委員会から「日本の国名標示をどうするか」と問い合わせが来ました。
四三が「正式の国名どおりに漢字で『日本』とすべきでしょう」と提案。
「それでは外国人には読めない。やはり英語でJAPANに」と国際通の監督。
ところが、四三は
「それは外国人が勝手につけた名前です。
『日本』という本当の呼び名を使い、世界の人々に知らせる必要がある。
JAPANならプラカードを持つのをやめます」
と譲りません。
困ったみんなが一斉に団長の嘉納治五郎の顔を見ます。
「ウーム、どちらも一理ある。発音はニッポン、標記はローマ字。つまりNIPPONでどうか」
この調停に一件落着しました。

このエピソードは、四三が母国日本のために戦うと強く決意していたことを良く表しています。

◆(資料ここまで)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

●発問2の答は「その他」→「日本のため」でした。
「国の代表」という重みと四三の気概を感じ取らせたいところです。

五輪ストックホルム大会旗手
金栗四三3

1912年7月14日 開会式の入場行進
短距離走の三島弥彦が国旗、四三はプラカードを持つ。
出場選手わずか2名のため、行列人数が非常に少なく、観衆の同情をひいた。


【資料3】歴史に残る過酷なレース◆◇◆◇◆◇◆◇◆

オリンピック最終日、マラソンがスタートしました。
しかし、四三は冬のマラソンしか経験が無かったのです。
しかも当日は北欧では珍しい猛暑の40度近い炎天下、参加選手68人中で完走したのはわずか37人でした。
意識不明で死者まで出る歴史に残る過酷なレースになったのです。

母国日本の期待を一身に背負った四三も、初めての海外遠征・慣れない洋食・白夜(びゃくや)とストレスによる睡眠不足がたたり、25キロを過ぎたところで意識不明となりました。
熱中症です。

近くの農家に助けられ、目を覚ました時は翌日の朝になっていました。
競技中に姿を消したので大騒ぎになり、「日本人選手が行方不明」と新聞にまで載ってしまいました。

四三は日記に

「大敗後の朝を迎えた。
自分の一生で最も重大な記念すべき日だったのに。
しかし、失敗は成功の基、またその恥をすすぐ時が来る。
雨降って地固まるの日を待つのみ。
笑わば笑え。
この敗北は日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものである。
重い責任を果たせなかったことは、死んでもなお足らないけれども、死ぬことは簡単なことである。
生きてその恥をすすぎ、粉骨砕身(ふんこつさいしん)してマラソンの技を磨き、日本の名誉を示そう」

と、あふれる涙をぬぐいながら書きました。

■翌日の日記原文
大敗後の朝を迎う。終生の遺憾のことで心うずく。
余の一生の最も重大なる記念すべき日になりしに。
しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ。
人笑わば笑え。
これ日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり。
この重任を全うすることあたわざりしは、死してなお足らざれども、死は易く、生は難く、その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん。(以上抜粋)


帰国後、四三は4年後の第6回ベルリン大会を目標に練習に励みました。
日本選手権などで2回も世界最高記録を出し、誰もが今度こそ金メダル間違いなしと思いました。

しかし、1914年に第一次世界大戦が勃発し、オリンピック自体が中止になってしまいました。

それでも、四三はまったくあきらめませんでした。
歴史と地理の先生をしながら、さらに自分の走りに磨きをかけます。
そして迎えた第7回アントワープ大会。
優勝を期待されながら、今度は寒さによる足の痙攣(けいれん)で無念の16位。

次の第8回パリ大会(1924年)では、四三すでに33歳。
32キロ地点で棄権を余儀なくされました。

結局、四三はストックホルムのリベンジを果たせないまま、悲運のアスリートと言われるようになりました。
金栗四三4

第八回パリ大会で激走する四三(1924)

◆(資料ここまで)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


◆ 発問 3~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

【資料3】を読んでどう思いましたか?
このあと、金栗四三はどうなったでしょうか?


◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

(つづく)

道徳「一輪の花から始まった絆」(アーレイ・バーク)

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●この授業は「授業づくりJAPAN横浜・高校」代表の服部剛さんの授業です。

●「集団生活に必要なものは何か」を考える授業です。
 もちろん、それは「日本人の伝統的精神」から学ぶことになります。

徳目は 4-(4)「集団の一員としての自覚」
(2-(2)「おもいやり」で捉えても良いお話だと思います)


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道徳「一輪の花から始まった絆」

《授業開始》
一輪の花1


◆ 発問 1~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
これは五輪招致のプレゼンテーションの時の写真です。
滝川クリステルさんは、何と言っているでしょうか?


◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
お・も・て・な・し

答え:「お・も・て・な・し」

●有名なシーンですね。生徒もみんな知っていました。
ここでまったく無関係のような質問をします。

◆ 発問 2~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

ところで、「トモダチ作戦」を覚えていますか?
知っていることをどうぞ。


◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

●これがほとんどの生徒は知りませんでした。
最初から知らないのか、忘れちゃったのか…。
適度にヒントを出しながら、説明しました。
ヒント:「東日本大震災」「アメリカ軍」「救援」

在日米軍が助けてくれたことは、ある程度知っていました。
よかった。

では、【資料1】を読みましょう。

【資料1】 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

今日は、外国人を感動させた日本人の「おもてなしの心」について勉強しましょう。
平成23年(2011)3月11日、日本に甚大な被害をもたらした東日本大震災がおこりました。

一輪の花2

自衛隊や警察、消防が必死の救援活動を繰り広げました。
この時、すかさずアメリカ軍が「トモダチ作戦」と名付けた日本への復興支援を開始し、瓦礫(がれき)の除去や多くの救援物資を届けてくれました。
実は、この話の裏には60年以上も前におきたひとつの物語があったのです。

それは、大東亜戦争(太平洋戦争)の終結からわずか5年後、昭和25年(1950)9月のことです。
まだ戦争の傷跡が残る日本に、一人のアメリカ人がやってきました。
アメリカ海軍の提督、アーレイ・バークです。

アーレイ・バーク

バークは駆逐艦乗りです。
巨大な戦艦を追い回す駆逐艦乗りには、日米ともに猛将といわれた人が多くいました。
バークもその一人です。
バークは大東亜戦争の中でも、日米合わせて9万人以上もの犠牲を出した激戦「ソロモン海戦」で日本軍の脅威となった男です。
そのバークが、敗戦国日本を支配する占領軍の海軍副長として、アメリカから派遣されてきたのです。
それは、「朝鮮戦争」勃発の直後でした。

バークが東京の帝国ホテルにチェックインした時のことです。
従業員「バーク様、お荷物をお持ちいたします」
バーク「やめてくれ。最低限のこと以外は、私に関わるな!」
実は、バークは筋金入りの日本人嫌いでした。
親友を日本軍の真珠湾攻撃によって失い、血みどろの戦いで多くの仲間や部下を失っていたからです。
戦争中、バークの心には、敵である日本人への激しい憎悪が燃えていました。

「日本人を一人でも多く殺すことなら重要だ。
日本人を殺さないことならば、それは重要でない」
という訓令を出したほどでした。
また、公の場で日本人を
「ジャップ」「イエロー・モンキー」
と差別的に呼び、露骨に日本人を蔑みました。
したがって、どれだけ日本人の従業員が話しかけても無視しました。
「腹立たしい限りだ! 黄色い猿どもめ!」

日本に来てから1ヶ月ほどしたある日のこと。
「なんて殺風景な部屋なんだ!」
ベッドと鏡台とイスだけの部屋を見て、せめてもの慰みにと、バークは一輪の花を買ってきてコップに差しました。

このあと、この花が意外な展開をたどることになります。
翌日、バークが夜勤から戻ってみると、
コップに差した花が、花瓶に移されていたのです。

◆(資料ここまで)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

◆ 発問 3~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

花瓶に移されていた花を見たバークは、
このあとどうしたと思いますか?


◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

●想像でどうぞ。
○生徒:「ほめた」「お礼を言った」「やっぱり怒った」など。

●【資料2】で確認しましょう。

【資料2】 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

バークはフロントに行き、苦情を言いました。
バーク「なぜ、余計なことをした。誰が花を花瓶に移せと言った!?」
従業員「恐れ入りますが、ホテルではそのような指示は出しておりません」
バーク「何だって?」

この時は誰が花瓶に移したのか分からなかったのです。
さらに数日後…。
何と花瓶には昨日まではなかった新しい花が生けられていました。
「いったい誰がこんなことを…」

花はその後も増え続け、部屋を華やかにしていきました。
バークは再びフロントへ行きました。
「私の部屋に花を飾っているのが誰なのか、探してくれ」

調べた結果、花を飾っていた人物が分かりました。
それは、バークの部屋を担当していた女性従業員でした。
彼女は自分の乏しい給料の中から花を買い、バークの部屋に飾っていたのです。

それを知ったバークは、彼女を問い詰めました。
「君は、なぜこんなことをしたのだ?」
「花がお好きだと思いまして」
「そうか。ならば、君のしたことにお金を払わねばならない。受け取りたまえ」
と、彼女にお金を渡そうとするバーク。
ところが彼女は…
「お金は受け取れません。私はお客様にただ居心地よく過ごしていただきたいと思っただけなんです」
「どういうことだ!?」

アメリカではサービスに対して謝礼(チップ)を払うのは当たり前のことです。
しかし、彼女はお金を受け取りません。
このあと、彼女の身の上を聞いたバークは驚きました。
彼女は戦争未亡人で、夫はアメリカとの戦いで命を落としていたのです。
しかも、彼女の亡き夫も駆逐艦の艦長で、ソロモン海戦で乗艦と運命を共にしたのでした。
それを聞いたバークは、
「御主人を殺したのは、私かもしれない」
と、彼女に謝りました。
ところが彼女は毅然としてこう言ったのです。
「提督。提督と夫が戦い、提督が何もしなかったら提督が戦死していたでしょう。
誰も悪いわけではありません」
バークは考え込みました。
「自分は日本人を毛嫌いしているというのに、彼女はできる限りのもてなしをしている。
この違いは、いったい何なんだ…!?」

      ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

のちに、バークは次のように言っています。
「彼女の行動から日本人の心意気と礼儀を知った。
日本人の中には、自分の立場から離れ、公平に物事を見られる人々がいること。
また、親切に金で感謝するのは日本の礼儀に反すること。
親切には親切で返すしかないこと、を学んだ。
そして、自分の日本人嫌いが正当なものか考えるようになった」
こうして、バークの日本人に対する見方は一変したのです。
折りしも朝鮮戦争は激しさを増していました。
バークは一刻も早くアメリカ軍の日本占領を終わらせ、日本の独立を回復するようにアメリカ政府に働きかけるようになりました。
加えて、日本の独立と東アジアの平和を維持するために、日本海軍の再建を説きました。
まだ終戦5年後ですから、アメリカ人の大多数が反日感情を持っている中です。
バークは根気強く説いてまわり、ついに海上自衛隊を作ることに成功したのでした。

その後、バークはアメリカ海軍のトップである作戦部長に就任します。
3期6年間も作戦部長を務めたのは海軍史上でバークだけです。
バークは、最新鋭の哨戒機P2Vを16機、小型哨戒機S2F-1を60機も海上自衛隊に無償で供給しました。

1961年、海上自衛隊の創設に力を尽くした功で、バークは日本から勲一等旭日大綬章(最高の勲章)を贈られました。

1991年、バークは96歳で亡くなります。各国から多くの勲章を授与されたバークですが、葬儀の時に胸に付けられた勲章は、日本の勲章ただ一つ。
それは本人の遺言でした。
そのため、ワシントンの海軍博物館にあるバーク大将の展示には、日本の勲章だけが抜けたままになっています。

◆(資料ここまで)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

◆ 発問 4~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

【資料2】を読んで、感心したことは何ですか?
3つ以上、書きましょう。


◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

●女性従業員の偉さはもちろんですが、素直に自分を変えたバークも偉いとの声もあり。
今も墓の中でバークが日本の勲章を付けていることに感銘の声も出ました。

●でも、この話はまだ続きがあったんです。
歴史の数奇な繋がりをどうぞ。

【資料3】 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

平成23年3月11日、東日本を巨大地震が襲いました。
この戦後最大の国難に際して、在日アメリカ軍は直ちに「OPERATIONTOMODACHI=トモダチ作戦」を発動しました。

一輪の花3


このトモダチ作戦で、もっとも早く被災地に着いたのが、
原子力空母ロナルド・レーガンでした。

一輪の花4


本来、韓国に向かう任務で移動中でしたが、艦長の独断で日本の救援に駆けつけたのです。
その艦長の名は、海軍大佐トム・バーク。
そう、あのアーレイ・バークの孫です。

一輪の花5

バーク大佐は、ヘリコプターのパイロット出身でしたから、空母のことは副長に任せ、自分は救援物資を積んだヘリを操縦して、避難所を飛びまわったそうです。

このような自然災害が発生した場合、世界中でどんな光景が見られるか知っていますか…。
住民たちによる食料の取り合いが始まります。
こうなると、ヘリコプターといえども危険で着陸できないそうです。
何と着陸した途端、被災民が銃をぶっ放して、食料を取りに来ることもあるといいます。
したがって、たいていは低空からの空中投下になるそうです。

しかし、東北地方は、どの避難所にもヘリが着陸しやすいように、ヘリ着陸の目印「H」が書いてありました。
ヘリが着陸すると、被災民が荷降ろしを手伝いました。
終わったら、全員がお礼を言って見送ってくれます。

一輪の花6

これには、世界各地で救援活動をしてきたバーク大佐も驚いたそうです。
「東北地方では、一件の略奪も殺し合いもなかった」
と軍の機関紙『星条旗』に書いています。
さらに、住民たちは必ず
「ここはこれだけで良いから、別の避難所に持って行ってくれ」
と言いました。
そんなことを言われたことも、日本だけだったそうです。
人間、極限状況にある時ほど、その本性があらわれる
と言いますね。

トム大佐は帰国後、日本で経験した驚きの出来事を家族に話しました。
もし、バーク大将が生きていたら、
「そうじゃろう。じーちゃんが日本好きになった訳がわかったじゃろう」
などと応えたでしょうね。

時が流れていくと、変わってしまったり、失われてしまうものがある中で、変わらないのが日本人の「人を思いやる心」です。
いつまでも護り伝えていきたいですね。

◆(資料ここまで)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

◆ 発問 5~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

今日のお話を通して、学んだことや感想を書きましょう。
日本人の伝統的精神「人を思いやる気持ち」は、
今の自分に照らしてどうですか。

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

《授業終わり》

●「おもてなし」や「思いやりの心」とは、温かい「人間愛」の精神であることをわからせたい。

●実感としては、「親切」をしたり、されたりした時の気持ちを思い浮かべてみよう。

●震災時の日本人の米軍に対する態度は「助けられる時の『おもてなし』の態度」(変な言い方ですが)と言えるのではないか。

●日本の「伝統的精神」の良さを知り、日本人の一員として、他人に対して思いやりの心を持とうとする態度を育てましょう。

トモダチ作戦4
一輪の花7


【参考資料】 勉強になりました! ありがとうございました。
■『海の友情―米国海軍と海上自衛隊』阿川尚之 (中公新書)
■ビーバップ!ハイヒール「半世紀の時を超えて…『一輪の花』から始まった絆の物語」
  ABC(朝日放送)2013年放送

歴史の中にはご先祖様が生きている

●齋藤武夫さんの「ご先祖様の授業」です。
この授業は、歴史を「他人事(ひとごと)」ではなく「我が事」学ばせたいという願いから生まれました。
命の縦のつながりを教えながら、「日本人」として命を受け継いだ「私」の「先祖の歩み」を学ぶのが歴史だとわかります。
「命のバトン」と「国づくりのバトン」が歴史を学ぶキーワードになります。

●全国の小中学校で追試されて大きな成果を上げている授業です。どうぞお試しください。

【片親など配慮を要する児童がいる場合の注意】
・授業前に呼んで事前指導をする。大切な授業をするのだが系図を書いてもらうことになる。何か困ることがありますか?と聞く。父の名前を知らない-「お父さん」と書けばいいよなど、具体的に指導し安心させる。


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  【歴史入門】 歴史の中にはご先祖様が生きている


【授業の流れ】
1 系図(命のバトン)

*自己紹介する感じで「私」の系図を示す。両親と祖父母まで3世代。

系図1


『この資料は歴史を調べるときによく使われるモノです。なんと言 いますか?』
・系図(けいず)
『そうです。これは私の系図です。私が歴史に名前が残ったらこれ を研究する学者があらわれるかもしれません』
・系図の読み方を教える。縦線(親子)、横線(結婚)、横縦線(兄 弟姉妹)
『では、みなさんも将来の学者たちのために系図を書いておいてあ げましょう』

*ワークシート「私の系図」を配る。

系図2


・名前がわからなければ「おじいちゃん」「おばあちゃん」と 書かせる。
『いまから50年くらい前に4人の祖父母がいて、両親が出会わなければいまみんなはい ないんですね。生まれてきてよかったね!』
┌──────────────────────────────────────┐
│ 4人の祖父母の上の系図はどうなっているだろうか?            │
└──────────────────────────────────────┘
・8人の曾祖父母がいる。(2倍になる理由を確認する)
・その上は?16人。『およそ100年前には16人のご先祖様がいたんですね。すごい ね。ありがたいことです』
・その上は?32人。その上は?64人。128人。256人。
『200年前には、みなさん一人一人のご先祖様がこの日本列島のどこかに256人いら っしゃったと言うことになります』
・これを命のバトンと呼ぶことにする。
┌──────────────────────────────────────┐
│ 私たちがこうして今ここ生まれるために全部で何人のご先祖様がいたのでしょうか?    │
└──────────────────────────────────────┘
・列指名で言わせる。
『私のご先祖様が何人ぐらいいたか、計算してみましたので見てください』

*資料「歴史の中にはご先祖様が生きていた」を配る。

先祖の数

・2倍計算、25年一世代を確認する。
・人物写真で歴史上の人物を見せながら、人数を言わ せていく。
『鎌倉幕府ができた頃(およそ800年前)、私の先 祖がこの日本列島のどこかにおよそ43億人もいた ことがわかりました。これは計算の上では!という ことで、この数字には謎があります』


2 年表(国づくりのバトン)

『数字の謎はあとでやります。ちょっと見方を変えてみましょう』
*等尺年表(1枚400年を6枚、時代名だけ入れて)を黒板にはる。
┌──────────────────────────────────────┐
│ これがわが国日本の年表です。1枚400年。時間の長さとテープの長さが同じにな    │
│るように作ってあります。私たちの先祖はいつごろから日本にいたのでしょうか?      │
└──────────────────────────────────────┘
・400年ごとに年表を指さしながら挙手させる。
『どうしてそんな大昔までいたと言えるのですか?』
「命はつながっているから」など。
『その通りですが、実は大切なことがひとつあります。命のバトンだけでは、今の私たち はいないのです』
・世界には滅びてしまった国がたくさんある。国が滅びてしまって世界中に散らばった民 族もいる。国をつくる前に乗っ取られてたくさん殺されてしまった民族もある。日本は 一度も滅ぼされず、大量の民族移動もなく、乗っ取られることもなかった、世界一古い 国なのです。
『大切なことというのは、その国づくりのバトンです。』
『先祖が命のバトンをつないだだけでは、日本人としての私たちはいません。先祖が古い 時代に国を作り、文化を創り、命がけで敵と戦い、守ってきた。そういう国づくりの努 力があったからこそ、今の日本があり、日本人としての私たちがいるのです。』

★その国づくりのバトンリレーを学ぶのが「歴史(国史)」です。先祖たちが何を思い、 何を迷い、何に悩み、そしてどうしてそういう道を選んだのか? 有名な歴史人物を通 して学んでいきます。どの時代にも自分たちの先祖が共に生きていて、歴史人物たちと 運命を共にしてきたんですね。


3 先祖の人数の謎と真実

日本の人口推移

*資料「歴史の中の日本の人口」を見せ、日本人も歴史を遡れば 遡るほど人口は少ないこと、日本の人口が1億人を超えたのは ほんの40年前であることを確認する。
*両親がいなければ子は生まれないので計算の結果は正しい。し かし、この表も正しい。『どうしてこんな不思議なこと、矛盾 したことが起こるのでしょうね?』(これは児童に答えを求め ないでいい)
★答えはひとつ。それは私たちの先祖はほとんど重なっていると 言うこと。同じ先祖の人がほとんどだと言うこと。つまり、日本人はみんな親戚だと言うことがわかるのです。



4 相田みつを「自分の番・・・命のバトン」を読む。
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*「自分の番」という詩は命のバトンを受け継いで生きるという詩です。が、今日しっかり学んだみなさんいとっては、国づくりのバトンを受け継いでよりよい日本をつくる、次の世代に渡すために日本を守る。その自分の番でもあります。



5 なぜ歴史を学ぶのか

┌──────────────────────────────────────┐
│ ①歴史は先祖の国づくりの歩みです。歴史を学ぶ意味の第一は、命のバトンと国づく    │
│ りのバトンを、私までつないでくれた先祖に対する感謝の気持ちを表すことです。       │
│ ②第二は、国づくりのバトンの自分の番(責任)を果たすためです。先祖の思いや願     │
│  いを知り、自分の番に生かすためです。               │
└──────────────────────────────────────┘

【児童の感想】
■私は今まで先祖のことを考えたことなどありませんでした。先祖のうちだれか一人がいないと、私はいないのでびっくりしました。自分の先祖が信じられないくらいの人数になることにもおどろきました。それから子孫を残すのも大切だなと思いました。これからしっかり歴史を勉強していきたいです。
■ぼくはご先祖に感謝しなくてはならないと思った。なぜか。ご先祖がいたから今がある。ご先祖がいたからぼくがいるからです。ぼくは感謝しながらご先祖の時代を覚えて、そして、大人になったら自分の子どもに教えてやる。子どもに正確に教えるために、これから、ご先祖さまのことを思いながら、がんばって勉強したいと思います。
■ぼくの先祖がたくさんいることがわかってとてもびっくりした。もしかしたら歴史の事件とかにかかわったのかなと思うと、とてもわくわくしてきた。歴史が好きになりそうだ。

道徳「拉致事件から家族愛を考える」

・おなじみ、服部剛さんの道徳です。
・徳目は4-(6)「家族愛、充実した家庭生活」
・授業で使用するDVDは、政府製作の『アニメ「めぐみ」』です。全国の学校に無償で配布されている(はず)です。
・今日は、生徒の反応もお読みください。

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道徳「拉致事件から家族愛を考える」

《授業開始》
◆ 発問 1~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

最近、家族と過ごしていて、家族との関わりで印象に残っていることは何ですか?

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

・DVDを一緒に見た。
・叱られたこと。
・英検3級合格してほめられたこと。
・いろいろなところに出かけたこと。
・元旦から二日、おばあちゃんと一緒にいたこと。
・手伝いをして、冬に水を使うのがたいへんだと思ったこと。
・誕生日プレゼントをあげたら、喜ばれた。
・家族全員で、外に食事に出かけたこと。
・勉強しろといわれた。
・手伝いをしてお小遣いをもらった。
・家族でスキーに行った。

『ビデオ(『アニメ「めぐみ」』25分)を視聴します。
両親の思いが感じられるところをメモしながら見ましょう』

《視聴》

◆ 発問 2~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

両親の思いが感じられたところをどうぞ。

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

・ずっと探し続けようとしているところ。
・お父さん、写真撮りすぎ。
・何年たってもめぐみさんのことを心配していて、親は子供のことをとても大切にしているという
ことが伝わった。
・最後まで、死んでいないと信じて、探し続けていること。
・すごい「愛」が感じられる
・マスコミを前に話をしているシーンが印象に残った。。
・自分の娘のことを信じているところ。

◆ 発問 3~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

めぐみさんが生まれた時、父のしげるさんが言った「人並みの幸せ」とは、どういうことでしょうか。

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

・特別「すごい幸せ」とかではなく、他人と同じくらいの幸せでいい、という意味。
・他の人よりも大きい幸せをもらわなくていいから、人と同じくらいの幸せをもらいなさい、という意味だと思います。
・家族一緒で生活すること。
・普通に暮らして、普通に生きること。
・事故も何もなく、幸せに生きる…みたいな。

資料を配布します。
【資料】(抜粋)

【資料1】1980年産経新聞
当初、行方不明として報道された
拉致1


【資料2】1997年産経新聞
横田めぐみさんの拉致の疑いを報道したスクープ
拉致2


【資料3】2002年10月15日
5人の拉致被害者が24年ぶりに帰国を果たし、家族と再会
2002年10月15日 5人の拉致被害者
拉致3



【資料4】拉致事件に対して、日本の政治家や外務省が発言してきたこと
彼らは何がしたいの?

土井 辻本
拉致4

■土井たか子(社民党元党首)
「北朝鮮に対する食料援助は、少女拉致疑惑などとは切り離して人道的見地から促進すべきだ」(97年)

■辻元清美(社民党衆院議員)
「かつて植民地にして、北朝鮮には補償を何もしていないのだから、『9人、10人返せ!』ばかり言ってもフェアじゃない」(01年)

拉致5


■鳩山由紀夫(元首相・民主党)
「拉致事件などの問題が解決しないと援助できないというのでは、北朝鮮の気持ちは和らげることができないのではないか」(97年)

■田中眞紀子(元外務大臣・当時自民党)
「拉致疑惑があるからけしからんという意見もあるが、50万トンと言わず、100万トンでも援助米は出した方が良い」(01年)
拉致6

■阿南惟茂(あなみこれしげ)(外務省・元中国大使)
「拉致疑惑には亡命者の証言以外に証拠がない。
韓国に捕まった工作員だから、彼らが何を言うかわからない」(97年)
拉致7


■槇田邦彦(外務省・元アジア局長)
「たった10人のことで、日朝国交正常化が止まっていいのか。
拉致にこだわり、国交正常化がうまくいかないのは国益に反する」(99年)
拉致8


【資料5】アメリカの政府関係者は…?
■ アメリカ元CIA東アジア部長アーサー・ブラウン氏
「拉致とは、国家主権を侵されたということで、これを解決しなければ、国家と国民の繋がりがなくなってしまいます。
国民を救出しない国は国とは言えません。
もしアメリカ人がメキシコかキューバに拉致されたなら、次の日には戦争になるでしょう。
軍事行動をできないなら、経済手段に訴える。
北朝鮮と取引する銀行とは日本は一切取引をしないと宣言する。
全ての銀行が日本を選ぶでしょう。
北朝鮮に経済的に大打撃を与えられる」(「WiLL」2008年12月号)

《資料おわり》

◆ 発問 4~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

【資料】を見て、思ったことや考えたことをどうぞ。
◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

●日本の政治家とアメリカの政治家の思考はぜんぜん違うことが分かった。
●30年以上離されるのはキツい。日本の政治家は「腰が低い」なぁ!!アメリカは言うことがすごいぜ!!
●日本の政治家とか意味が分からん。人が死んでいるかもわからんのに放置できるのがおかしい。
●罪のない人が拉致され、怖い思いをしているのに、何もしてあげられなかったことが、私は辛いです。
●日本の政治家は無責任だ。日本とアメリカとでは全然違う。同じ日本人なのにどうして助けないのか。アメリカを見習ってほしい。
●日本もアメリカのような対応をとるべきだと思います。
●日本よりアメリカの方が、国民思いだと思った。
●日本に助けようとしない政治家がいるなんて、驚いた。
●政治家の発言で「たった10人のことで」というのがあったけど、その考え方はおかしい。
●辻本清美さんのコメントを見て、サイテーだと思った。
●政治家は自分が拉致されても、そんなことを言えるのか!
●政治家は横田めぐみさんのことは何も思っていなくて、北朝鮮のことばかりを思っていてダメだなと思った。
●産経新聞、頑張って!と思った。


◆ 発問 5~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

今日、学んだことに照らして、
①あなたが家族からの愛情を感じるのは、どんな時ですか。

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

●家族と話している時。
●自分のことを心配してくれている時や応援してくれた時。
●一緒にいることだと思います。それに、学校にも行けるし。それが愛情だと思います。
●おこられたりとか、ほめられている時とか。心配してくれる時が愛情を感じる。
●外に出かける時とかに、心配してくれるとき。
●よくわからないけど、いつも一緒にいて、私のことをいつも思っていてくれている。
●ご飯をつくってくれて、食べる時。
●カゼをひいた時、心配してくれる。
●焼き肉を食べに行った時、「いっぱい食べな!」って言われる時。
●ん~、よくわからん。日常を生きている事なのかなぁ。
●どんな時でも感じています。


◆ 発問 6~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

家族の一員として、今の自分はどうですか。これからどうしますか。
◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

●一日一日を家族と大切に過ごしたいと思った。
●なるべくおこられないように頑張るぞ。
●反抗期。これからは家族に優しくしていきたい。
●何かと素直になりたい。
●もっと家族と話をしたい。
●これからはもっと家族に気配りをする。
●もっといろいろなことを考えなきゃいけないなぁと思いました。
●家のことは何もしないので、自分のことは自分でした方がいいなぁっておもった。
●家族の大切さは、家族がいなくなってわかるのだと思う。家族に感謝!!
●今はあまり役に立っていないけど、これから家族の役に立てるように頑張っていきたい。あと、いつも一緒にいられること(時間)を大切にしたいと思う。
●わがままなところがあるから直さないとダメだと思った。大事なものがなくなってから気づくのでは遅いと思った。
●今の自分は家で自由人です。でもこれからは親の手伝いをして楽させてあげたいと思います。
●感謝の気持ちをもって家族と接したいと思います。
●たぶん大丈夫。自分は家族を必要としているし、家族も自分を必要としていると思うから。

《授業終わり》

さくらを愛でる日本人 ー桜に託された日本人の心

●飯島利一(高校)さんの「歴史と文化の授業」です。これは、前に紹介した服部剛さんお中学道徳の授業「日本人の心・さくら」の原作です。
 私たちはオリジナルな教材開発を生かして、他の校種の授業をつくったり、さらに発展させる追試をしたりして、研究を深めています。研究方法の一端を知っていただくともに、教師の個性によって教材が多様に生かされることを味わっていただきたいと思い、原作を紹介します。


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高等学校 歴史と文化の授業
さくらを愛でる日本人------桜に託された日本人の心.



☆はじめに

⒈日本人はさくらをどのように愛でてきたのか。生徒がよく知っている、さくらのヒット曲を手がかりに、和歌などの史料からさくらに対する日本人の心情を探るのが、この授業のねらいである。

⒉「さくらの散りゆくさま」が、もののあはれをはじめ、日本人の鋭い感性をあらわしてきたことを学び、さくらは日本人の心であり、日本を象徴する花であることを学習する。

桜1

☆授業の展開 (以下の○は生徒の発言である)


1.授業のテーマは何でしょうか?

今日は新学期にふさわしい授業です。

まず問題です。今日のテーマを当ててみてください。次の〔  〕のなかに入る言葉は何でしょう。

「世のなかに絶えて〔  〕のなかりせば
    春の心はのどけからまし」   『古今集』五三



これは『伊勢物語』の主人公として有名な在原業平の歌です。世の中に、これがなかったら、春はさぞかしのどかに過ごすことができだろうに、ということです。何がなかったら、春はのどかなのでしょうか。

○・・・?分からない。

それではヒントをだしましょう。次キーワードから連想される言葉が[ ]の答えです。
(次の語句を一つずつ生徒に提示する。

①遠山の金さん ②上野公園・靖国神社 ③森山直太朗・ケツメイシの歌 ④入学式・新入生など。)

○あっ、わかった。さくらだ。

そう、正解。みなさんは、さくらからどのような連想をしますか。今日は、わたしたち日本人が、どのような想いでさくらを見てきたのか、そしてさくらは日本人にとってどのような存在なのか、みなさんといっしょに探っていこうと思います。



2.現代若者のさくらのイメージ

まず、現代の私たちの場合。最近見られる「さくら」に関するヒット曲から考えてみましょう。最近のJポップで「桜・さくら」のつくものにどんなものがあるでしょうか。

○コブクロのさくら

○さくら(森山直太朗)
○サクラドロップス(宇多田ヒカル)
○サクラ咲ケ(嵐)
○桜坂(福山雅治)

こうしてあげていくと、意外に「さくら」の曲はいっぱいありますね。しかも誰もが知っている大ヒット曲です。実はこれらの曲の歌詞を読んでみて、面白いことに気づいたのです。


【問題1】 次のヒット曲(抜粋)は、さくらのどのような様子を歌っているでしょうか。共通して言えることは何でしょうか。


1.さくら(森山直太朗)

  「さくら さくら 今咲き誇る 刹那に散りゆく運命と知って」
  「さくら さくら ただ舞い落ちる いつか生まれ変わる瞬間を信じ」

2.さくら(ケツメイシ)

  「さくら舞い散る中に忘れた記憶と 君の声が戻ってくる」
  「花びら舞い散る 記憶舞い戻る」

3.桜(コブクロ)
  「桜の花びら散るたびに届かぬ思いがまた一つ」

4.SAKURA(いきものがかり)
  「さくら ひらひら舞い降りて落ちて 揺れる想いのたけを抱きしめた」
  「君と春に願いし あの夢は今も見えているよ さくら舞い散る」


○さくらが舞っている? 散っている?

そう、そのとおり。詩の内容から共通していえることは、いずれも、さくらが散りゆく情景を描写していることです。友人や恋人との出会いや別れ、せつなく美しい思い出など、想いはいろいろだけれど、すべてさくらの散る様子に託してうたっているのです。咲きはじめや満開ではなく、何故さくらの散りゆくさまに、その心情をこめるのでしょうか。



3.「さくらの散りゆくさま」を日本人はどのように見たのか

わたしたち日本人が散りゆくさくらに魅了され、想いを込めるのは、歴史をさかのぼって確かめることができます。そこで私たちにとって「さくらの散りゆくさま」は何を表現しているのか、和歌などから分析してみましょう。


【問題2】 つぎの和歌の〔  〕に入る言葉は何でしょうか。さくらが咲いては散っていく様子にもっともふさわしい言葉はこれ以外にないと言っています。(あ)〜(え)のどれが適切だと思いますか。
    〔  〕をほかにもいはじ桜花
     咲きては散りぬあはれ世の中  (藤原実定『新古今集』)

    (あ)かなしさ   (い)せつなさ   (う)はかなさ   (え)うれしさ



○「せつなさ」か、「はかなさ」だと思う。

○「うれしさ」はないと思う。

なかなかいいですね。日本的な感性だと思いますよ。正解は(う)です。これは、貴族から武士の世にかわり、時代の移ろいを嘆く、大徳寺左大臣藤原実定の歌です。
満開のさくらが散っていくさまは、諸行無常・盛者必衰などの仏教的な無常観を表現しているといわれます。この無常観は、やがて、「もののあはれ」という日本人的な、独特の情緒につながっていきます。「もののあはれ」とは、人間のはかなさや悠久の自然の中で、移ろいゆくものを美しいと感じる感性を言います。散りゆくさくらが美しいと思うのは、まさにこれにあたるといえるでしょう。

「もののあはれ」から、さくらを最も愛した歴史人物、さくらを詠んだ歌人といえば西行法師の名があがるでしょう。西行は『山家集』のなかで、さくらの和歌を140首も詠んでいます。


【問題3】 西行は『山家集』に載るある和歌で、「願わくば」と詠んで、さくらの花の下で「あること」を叶えたいと思っていました。その「あること」とは何でしょうか。
     (あ)酒がのみたい   (い)踊りたい   (う)死にたい   (え)眠りたい



○(あ)だったら、お花見になる。

○(う)かな。たしか桜の下に死体が埋まっているというのを、何かで聞いたことがある 。

よく知ってますね。そういう小説もあります。この和歌は、西行がとてもさくらに憧れていたことを物語るものとしてよく知られています。正解は(う)。
「ねがはくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」。実際に、この歌の通り、西行はさくらの季節満月のもとで生涯を閉じたということです。西行はさくらとの一体化を望むほど、その美しさ・はかなさ「もののあはれ」にのめり込んでいたのではないでしょうか。

散りゆくさくらを美しいと思う気持ち、いわゆる「もののあはれ」という情緒は、日本人がとりわけ鋭いと指摘するのが、藤原正彦氏です。 近年話題のベストセラー『国家の品格』のなかで、「情緒と形の国、日本」と題して、すぐれた日本人の感性について述べています。資料を一読してください 。

【資料1】

悠久の自然と儚い人生との対比の中に美を発見する感性、このような「もののあはれ」の感性は、日本人がとりわけ鋭い。(中略)
この一例が桜の花に対するものです。桜の花はご存知のように本当に綺麗なのはたったの三、四日です。しかも、その時をじっと狙っていたかのように、毎年風や嵐が吹きまくる。それで「アアア」と思っているうちに散ってしまう。日本人はたった三、四日の美しさのために、あの木偶の棒のような木を日本中に植えているのです。
桜の木なんて、毛虫はつきやすいし、むやみに太いうえにねじれていて、肌はがさがさしているし、花でも咲かなければ引っこ抜きたくなる木です。しかし、日本人は桜の花が咲くこの三、四日に無常の価値を置く。たった三、四日に命をかけて潔く散っていく桜に、人生を投影し、そこに他の花とは別格の美しさを見出している。だからこそ桜をことのほか大事にし、「花は桜木、人は武士」とまで持ち上げ、ついには国花にまでしたのです。(中略)
アメリカ・ワシントンのポトマック川沿いにも、荒川堤から持って行った美しい桜が咲きます。日本の桜より美しいかもしれない。しかしアメリカ人にとってそれは、「オーワンダフル」「オービューティフル」と眺める対象に過ぎない。そこに儚い人生を投影しつつ、美しさに長嘆息するようなヒマ人はいません。

日本人のさくらに対する気持ちが、面白く理解することができます(傍線部を中心に説明する)。朽ちゆくもの・枯れゆくもの・滅びゆくものに、美しさを感じる心は、欧米人には、およそ理解できないのかもしれませんね 。



4.さくらのイメージ 日本人の心

藤原正彦氏が説くように、私たちの先人は、さくらを「国花」と考えるようになりました。さくらは、日本を象徴する花と位置づけられるようになったのです。


【問題4】 次の歌は国学者本居宣長の詠んだもの。〔   〕に入る言葉を考えましょう。宣長は何をたとえて「朝日ににほふ山桜花」と言ったのでしょうか。

   敷島の 〔   〕を 人とはば
 朝日ににほふ 山桜花



○朝日だから、日出ずる国のようなことかな?
○日本のこころのような言葉じゃない?
○大和魂みないな。

答えは、ずばり「大和心」です。日本人の心を指して、大和心(やまとごころ)と表現しています。その心は、清々しい「朝日ににほふ山桜花」であると詠んでいるわけです。


本居宣長の思想は、幕末・明治維新前後から、日本人のナショナリズムに大きな影響を与え、宣長のこの歌によって「桜=国花」というイメージが定着するようになったといいます。
明治時代になると、桜のなかでも、ソメイヨシノ(染井吉野、江戸末期の新種)が人気を呼び、城跡や公園・堤防や学校に盛んに植栽され、さくらのイメージが日本人の間に普及していきました。

それでは、本居宣長が、さくらに喩えた「大和心」(日本人の心)とは、何を表しているのでしょうか。 次の資料にあげた新渡戸稲造の『武士道』(奈良本辰也訳)を読んでいきましょう。


【資料2】

たしかに、サクラは私たち日本人が古来から最も愛した花である。そしてわが国民性の象徴であった。宣長が用いた「朝日ににほふ山ざくらばな」という下の句に特に注目されたい。
大和魂とは、ひ弱な人工栽培の植物ではない。自然に生じた、という意味では野生のものである。それは日本の風土に固有のものである。その性質のあるものは偶然、他の国土の花と同じような性質を有しているかもしれない。だが、本質において、これは日本の風土固有に発生した自然の所産である。
また私たち日本人のサクラを好む心情は、それがわが国固有の産物である、という理由によるものでない。サクラの花の美しさには気品があること、そしてまた、優雅であることが、他のどの花よりも「私たち日本人」の美的感覚に訴えるのである。私たちはヨーロッパ人と、バラの花を愛でる心情をわかちあうことはできない。バラには桜花のもつ純真さが欠けている。それのみならず、バラはその甘美さの陰にとげを隠している。バラの花いつとなく散り果てるよりも、枝についたまま朽ち果てることを好むかのようである。その生への執着は死を厭い、恐れているようでもある。しかもこの花にはあでやかな色合いや、濃厚な香りがある。これらはすべて日本のサクラにはない特性である。
私たち日本の花、サクラは、その美しい粧いの下にとげや毒を隠しもってはいない。自然のおもむくままに、いつでもその生命を棄てる用意がある。その色合いは決して華美とはいいがたく、その淡い香りには飽きることがない。(中略)
太陽は東方から昇り、まず最初に極東のこの列島に光を注ぐ。そしてサクラの芳香が朝の空気をいきいきとさせる。このとき、このうるわしい息吹きを胸一杯に吸うことほど、気分を清澄、爽快にするものはないであろう。

新渡戸は、日本の武士道を世界に紹介するために、英文でこの本を書きました。その中で、「武士道」という日本人の精神を、さくらにたとえている。とりわけ、さくらのぱっと咲いて、ぱっと散るさまに、日本人の高潔さ・いさぎよさという美徳を見出しているのです(傍線部を説明する)。

このさくらのイメージは、日本人の美徳を示すものとして、日本人(とくに軍人)のあるべき姿として、とらえられるようになりました。「同期の桜」をはじめ、軍歌などにも盛んにさくらがうたわれています。兵隊さんたちは、散りゆくさくらに自分を重ね合わせていたのです。


【資料3】

①いざさらば 我は御国の 山桜
 母の御元に かえり咲かなむ  (海軍中尉、緒方襄)

②散る花の いさぎよきをば めでつつも
 母のこころは かなしかりけり

③蕾にて 散るも又よし 桜木の
 根のたゆことの なきを思へは  (海軍少尉、滝沢光雄)


①を詠んだ緒方中尉は、関西大学在学中に学徒出陣し、パイロットになり、志願して神風特別攻撃隊の桜花隊に入いりました。この歌で息子の思いを知った母、三和代さんは②の歌を詠みました。中尉の歌は、祖国日本のために命を捧げる高潔さ・いさぎよさが、散りゆくさくらに託されています。

③を詠んだ滝沢少尉(当時は一飛曹)は、甲種飛行予科練習生に志願し、昭和19年、第一神風特別攻撃隊山桜隊の隊員としてレイテ湾にて戦死を遂げました。 蕾のままでもよいと歌った滝沢少尉は、当時何歳だったと思いますか。実は、みなさんとほぼ同じ18歳だったということです。



5.日本人にとって桜とは?〈まとめ〉

今日は、わたしたち日本人のさくらへの想いを考えてきました。やはり、わたしたちにとって花とは、菊でも、チューリップでも、バラでもなく、さくらなのだなという実感が湧いてきませんか。


歴史的に見ていくと、日本人は、その時代の心情を、さくらに託してきたということです。
「さくらの散りゆくさま」は、「もののあはれ」という日本人の独特の情緒をあらわし、やがて日本人の心となって、とくに高潔さ・いさぎよさを表現してきたことがわかります。

まさに、さくらは私たち日本人を代表する、日本を象徴する花と言えるでしょう。そして、日本人がうけついできた桜のイメージは現代のヒット曲のなかにも通じるものがあるのではないでしょうか。



☆生徒のおもな感想

○桜はぼくの大好きな花です。日本人にふさわしい花だと思います。派手すぎず、そして早いうちに散ってしまう、いさぎよさがぴったりです。小学校のときに桜の詩を書いて先生にすごくほめられたことが今でも心に残るさくらの思い出です。

○桜の季節になると、なぜ天気予報とか、みんなで取りつかれたように騒ぐのだろうと思っていたけれど、今日の授業で、さくらと日本人の深いかかわりを知ることができた。

○わたしは、満開のさくら道を歩くのが好きです。それから、外国の人はさくらをあまり好きでないというのを聞いたことがあります。でも日本人ならではの、その良さを共感しえることは、うれしいことだと思いました。

○さくらはどの時代でも人々から愛されている花だなと思った。日本人は感受性が豊かなので、その時代、その歌を詠んだ人の心情を知ると、とても奥が深いものだなとおもった。

○散るさくらに対する日本人のイメージは今も昔も変わっていない部分があるのだなと思った。昔の和歌からいろいろ情景とか心情とかを考えられて勉強になった 。


☆参考文献
①牧野和春 『新桜の精神史』 中公叢書

②小川和佑 『桜の文学史』 文春新書 2004

③田中秀明 『桜信仰と日本人』 青春出版社 2003

④白幡洋三郎 『花見と桜』 PHP新書 2000

⑤藤原正彦 『国家の品格』 新潮新書 2005

⑥新渡戸稲造・奈良本辰也訳『武士道』 三笠書房 1993

⑦靖国神社編 『いざさらば我はみくにの山桜』 展転社 1994

⑧靖国神社編 『散華の心と鎮魂の誠』 展転社 1995
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