授業づくりJAPANの「日本人を育てる授業」

わたしたちは誇りある日本人を育てたい。真の国際派日本人を育てたい。

文字を工夫する日本人 ーかな発達の意義

●飯島利一さんの高等学校の授業です。
題して「文字を工夫する日本人--かな発達の意義」です。
アレンジすれば、中学校や小学校の授業にもなりますね。
かな文字は日本文化の核心にあるテーマです。

●飯島利一さんのブログを訪問してください。
おもしろくて有益な記事が満載です。
「授業づくりJAPAN TOKIO《高校》 日本人を育てる授業」
http://rekijtokio.blog.fc2.com/


文字を工夫する日本人 ーかな発達の意義
(高等学校 歴史と文化の授業)
           

☆はじめに
 
今日は、私たちが日常あたり前につかっている文字について考えていきます。日本の先人たちが古代に漢字を輸入してから、どのように「かな」文字を発達させていったのでしょうか。その過程を具体的に見ることで、私たちの先人たちが如何に文字を工夫してきたかを学び、外来文化に対する日本人の意識を探って行きたいと思います。


☆授業の展開


1.日本の文字について考えてみよう


 雑誌をひらくと、あらためていろんなタイプの文字が使われていることに気づきませんか。漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットもあれば、アラビア文字(数字)さらにフリガナの小さい文字。実に、にぎやかな文章であふれています。普段ほとんど意識することはないが、わたしたちは一つの文章の中でさまざまな種類の文字を使っている。そのため日本人の文字はとても複雑だと言われているのです。

問1「せんこう」と読む漢字を、思いつく限り書いてください。

 いくつ書けたでしょうか。「線香・先攻・専攻」など、さまざまな意味の熟語がありますよね。ほかにも「戦功・選考・先行・閃光・潜行・先公(笑)」と。アクセントの違いはあるけれど、同じ発音の言葉なのに、文字は何種類もあります。私たちは自然に、文脈や会話の中からその漢字を当てはめて理解しているのです。

問2 「十一月三日はちょうど祝日で日曜日です」日の字をそれぞれどう読みますか。

 皆さんは当たり前のように読めますね。みっ「か」、しゅく「じつ」、「に」ちよう「び」。短い一文の中に4回も同じ文字が出てきて、すべて読み方が違います。あらためて考えてみると、私たちは、ほとんど一瞬に判断して読み分けている。かなりすごいと思いませんか。
 このような言語と文字の例は、世界でもきわめて珍しい。そのため、日本人の文字は、風変わりで複雑なものと言われています。どうしてこのように複雑になったのでしょうか。日本人は、文字とどう向き合い、どのようにつきあってきたのか。具体的に探ってみましょう。


2.漢字が入ってきた 

 
まず日本人が最初に出会った文字は、漢字でした。我々の先人が漢字を文字として使用するようになるのは、諸説ありますが遅くとも4〜5世紀のこと、古墳時代にはみとめられます。


問3 漢字には、法律・宗教をはじめ中国文明の学ぶべき情報がたくさん詰まっていた。漢字を学んだ日本人は、しだいにその文字を自分たちの社会に役立てようと考えるようになりました。そこで、当時の日本人はどうしたでしょうか。

ⓐ漢字を正しく使いこなすために、当時の日本語(やまと言葉)をやめて、漢語(中国の言葉)を
  読み書き話す術を身につけようと努めた。

ⓑ自分たちの言葉(やまと言葉)を文字で表そうと、漢字の音(発音)を利用して当時の日本語
 (やまと言葉)を書き表した。

ⓒ漢語(中国の言葉)を話すことはできなくても、文字の意味がわかれば文化は吸収できるので、
  漢字を強引に日本語で読んだ。


 簡単に言うと、
ⓐは自分たちのしゃべっていた言葉を捨てて中国語を話すようにしたということ。
ⓑは厳密言うと違うのだけど、よく暴走族がやる落書きで「ヨロシク」を「夜露四苦」みたいに書いた。
ⓒは現代の私たちのイメージに近づけるために英語に置きかえて言うと、たとえば「DOG」という文字を強引に「いぬ」と読ませたということです。

 皆さんは、どれが正解だと思いますか。
ⓑⓒの2つが正解です。
まずⓑの場合から具体的な事例を見ていきましょう。

*****************

【資料1】

 ①獲加多支鹵
 ②巷宜有明子  
 ③有麻移刀等已刀弥弥乃弥己等 

*****************
鉄剣銘

 資料1の①〜③はいずれも人名です。
①は稲荷山古墳出土の鉄剣銘に刻まれた文字で「ワカタケル」と読みます。雄略天皇のことです。5世紀の「倭の五王」で学習しましたよ。
②と③は読みづらそうですが…。7世紀はじめ、推古天皇のころの超有名人です。
正解は②が「蘇我馬子」(ソガノウマコ)、③が「聖徳太子」です。聖徳太子は厩戸皇子(うまやどのみこ)でしたね。
③をしっかり読むと「うまやととよとみみのみこと」となります。

 それでは次にⓒの例を紹介します。
次の資料は有名な文章ですが、読める人はいますか。
『日本書紀』に記録された「十七条憲法」の一節です。

********************************

【資料2】 

 以和為貴、無忤為宗。
(やわらかなる(わ)をもって、とうとしとなし、さかうることなきをむねとせよ。)

********************************
十七条憲法

 聖徳太子の憲法十七条の第一条でしたね。この文章は、漢字ばかり並んでいるので一見漢文風だけど、実はやまと言葉でないと読めない文章なんです。漢字を強引に日本語で読んだ例です。たとえば「和」という字は本来「わ」としか読みようがないのに、「やわらか」という日本語の訳で読ませることにしたということです。

 以上の2つの資料から確認できたことをまとめましょう。

ⓑの表記を音仮名と言います。
ⓒは訓書きという方法です。

漢字による日本語の表記は、音仮名という中国文字の音をつかったものと、訓書きと言って日本語の訓訳をあてるものと2種類あるのです。
中国の文字を学んでも日本の言葉を捨てずに両方を使い分けたということです。
 ここまでいえば、漢字には音読み・訓読みがあることに思い当たるでしょう。音読みは中国語的な発音の読みで、訓読みは日本語で訳した読み方なのです。
 
 とりわけ、訓読み・訓書き方式の発明は画期的だったと言われています。と言っても、みんなは小学生の時から訓読み・音読みを体得させられているから、驚くに値しないかもしれないけれど…。

 例えば「山」を「やま」とよむのは当たり前と思うでしょう。しかし、これは相当奇抜な発想なのですよ。現代の私たちの感覚に近づけて言うと、mountainという英語がありますね。これはマウンテンとよんで「山」のことだと習いますが、英語のmountainを直接「やま」とよむのだ、dogを「いぬ」、catを「ねこ」と読むのだと言われたら、相当戸惑うでしょう。

 私たちの先人たちは、見ようによってはかなり大胆なことをやってのけた。すなわち訓読み・訓書きは、漢語(中国語)としてよむ以外にないものを、自分たちの言葉でよむことし、内容豊かな古代中国の古典などの学習を可能にしたというのです。

 ちなみにⓐの場合をとっていたらどうなっていたでしょうか。
 たしかに当時の日本人は漢語をかなり懸命に勉強したでしょうが、決してやまと言葉(日本語)を捨てようとはしませんでした。もし自分たちの言葉を捨てていたなら、中国文明の影響によって、日本独自の文化形成は阻まれていたかもしれません。たとえば、フランスの植民地だったアフリカの地域では、国の指導者はフランス語を話し、一般の民衆は現地語で会話するので、その国の文化の独自性が阻まれているという例があるのです。


3.万葉仮名という方法
 

 漢字を学んだ日本人は、しだいに自分たちの言葉に近づけて文字を表そうと模索します。純粋な日本語を写そうとしたり、声に出して読めるようにするには、語順や助詞などを含め、表記を日本語に適した形にもっていかざるをえない。しかし、そもそも中国語には助詞がなく活用もない、さらに語順も違います。そこで、当時よく使われていたのが万葉仮名です。漢字仮名交じり文ともいい、万葉集で使われていた日本語の表記方法なのです。

問題4 次の文字は暗号のようにみえるが、実は『万葉集』巻第三・318 山部赤人の和歌(日本古典文学大系『萬葉集一』)。訓として読む漢字(訓書き)と音として読む漢字(音仮名)とを区別して解読してみよう。

 田児之浦従 打出而見者 眞白衣 
 不盡能高嶺尓  雪波零家留
 田子の浦
                         

 読めますか。下線部を助詞・活用語尾と判断すると分かりやすいと思います。正解は「田児の浦 打出で(て)見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」となります。意味は、「田子の浦(現在は静岡県富士郡)を通って(眺望のよいところに)でてみると、真っ白に富士山の高嶺に雪が積もっていることだ。」雪化粧をした富士山とは、実に日本的な風景ですね。

 よく間違えてしまうところは、「白衣」を「はくい」「びゃくえ」とよんでしまうことです。やはり「しろいころも」と思ってしまいますよね。でも答えは「真白に」。「衣」の字を助詞として音仮名で読んでいいのか、「ころも」と訓で読んでいいのか、わかりづらいのです。全部漢字で書かれているので、その区別が難しい。和歌のように五七五七七と定められていればそれに合わせて読めばよいが、散文では訓としての漢字と、音として読む漢字としての漢字の区別がよけいに困難になるのです。そこで、ひらがな・カタカナが登場してくることになります。


4.ひらがな・カタカナの発明
 

 日本の文字は、平安時代中期、いわゆる摂関政治の時代に大きな転換期を迎えることになります。すでに9世紀ころから唐の衰退により、その文化の影響力は低下していて、漢字をもとに略したり、部首をとってみたり、独自の「かな」が用いられるようになります。たとえば[ひらがな…安=あ 以=い ][カタカナ…阿=ア 伊=イ]となります。

問題5 当時の日本人が発明したひらかな・カタカナをどのように生み出されたのでしょうか。
 

ⓐ唐に対抗して、日本独自の文化をつくろうという国風文化の風潮のなかで、天皇や摂関家など朝
  廷が中心となり、国家事業として「かな」を制定し日本の文字として推奨した。

ⓑ貴族社会のなかで、日常の細々とした記録や消息、本の書きこみなどから字形の簡略化がすすみ、
  自然発生的に「かな」は生まれてしだいに普及していった。


 平安朝廷が国家事業として「かな」を制定したのか、それとも自然発生的にうまれたものなのか、どちらでしょうか。正解はⓑです。中国の文明の象徴である漢字の威厳にとらわれず、日本では実用性から労力経済が働き、しだいに文字を簡略化する方向にいったと考えられます。

 日本の「かな」は実用性から出発したために、しだいに庶民にも広まります。ところで中国では、文字は支配階級(士大夫)の特権だったらしい。文字は生活に余裕のある者だけが学べるものであり、一般大衆を寄せつけなかった。だから漢字には威厳があり、そのためには必要以上に難しくないといけないという風潮があったようです。その点、情報伝達の手段という実用性からうまれ、やがて広く庶民にも普及した、日本人の文字は中国の場合と対照的ですね。


5.まとめ 日本人の文字


1.「かな」の発明が日本の文化を生んだ

日本人にとって、「かな」が生まれたことはどのような意味があったのでしょう。

********************************

【資料3】 紀貫之「ひらがなの序文」

「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。
よのなかにある人ことわざしげきものなれば、心におもふを見るものきくものに
つけていひいだせるなり」

(意訳)「和歌というものは、人の心の中にある感情を核として生まれた言葉に
よってできている。世の中に生きている人間にはいろんな事が起きて忙しいけ
れども、その忙しさが人間に働きかけて、いろんな感情を生む。その感情があ
るからこそ、人間は何かを見たり聞いたりするにつけて、自分の感情を形にし
た歌を詠むのである。」
********************************
古今集仮名序

 これは和歌について語る文章ですが、人間の感情の発生を語る文章でもあります。そして日本人にとってその心を最もよく表現する道具は、外国語である漢字や漢詩ではなくて、日本製のひらがなであったことを示すものです。

 自分たちの考えや気持ちを自分たちの言葉と自分たちの文字で、何の束縛もなく自由自在に記しうること、そして日本的な感性を育んだこと、この重要性はいくら強調してもしすぎるということはないでしょう。

 さらに言えば、『古事記』『万葉集』から『竹取物語』や『源氏物語』『伊勢物語』『平家物語』、さらに歌集・日記類から随筆『徒然草』に至る膨大な「かな古典文学」とも言えるものが創造されるようになりました。これがなかったら、現代の日本文化はなかったと言えるでしょう。日本人は「かな」をつくり、「かな」が日本の文化をつくったということなのです。

2.漢字を捨てなかった日本人 その理由 

「かな」ができたからと言って日本人は漢字を捨てたわけではありません。むしろ積極的に漢字の良さを自分たちの文化のなかに取り入れようとしました。具体例を紹介しましょう。

**********************

【資料4】

①鰯・鰹など魚片の漢字
②政界・政局・政断など「政」に関わる語句
③「はかる」という日本語
  =「計・図・測・謀・量」の使い分け
④谷川俊太郎
 「このこのこのこ どこのここのこ
  このこのこののこたけのこきれぬ」

**********************

①は日本人が元来の漢字にはない日本製漢字を生み出した例。
②は漢字を組み合わせて、日本人はあらたな造語をつくった例。
③は漢字を使い分けることによって、一つの意味であった和語(日本語)が精密化された例。
⑤漢字によって文字列が読みやすく、かなだけでは理解しづらい例(その面白さを詩に生かした)。

***********************

【資料5】中国の外来語辞典に載る和製漢語

 背景 理想 版画 不動産 領土 理性 

***********************

 これらの語句は、中国の外来語辞典に日本の語として掲載されたものです。驚いたことに、日本人がつくった語句を、現在、中国人たちが使用している例なのです。いわば、ちょうど漢字の「逆輸入」ともいうべき現象がおこっている。それだけ日本人は漢字を自分たちのものに消化したことを示しているのではないでしょうか。


3.日本人の外来文化に対する意識

最後に、山本七平氏の一文を読んで終わりたいと思います。

【資料6】 山本七平「日本人とは何か。」

 日本人は、かなによる自国の世界を生きつつ、同時に漢字という当時の東アジアの「世界文字」につながって生きていたということ。すなわち日本の独自性と世界の普遍性を併せもつことで日本の文化が形成された。その姿勢は多様性を認めるということ。漢字を捨てず平仮名・片仮名など文字や文章に統制を加えず、自然のままにしておく。日本人は、文字をはじめ文化に対して多様性を尊重する民族と言えよう。今日私たちの周りにある衣食住をみても思い当たる節があろう。

問題6 今日の授業を学んで、思ったこと・考えたこと等をまとめて、感想を書きましょう。


[参考文献]
①山本七平「文字の創造」『日本人とは何か。』PHP文庫 1989 
②樺島忠夫「漢字からローマ字まで」『日本語の歴史』大修館書店 1977 
③樺島忠夫『日本の文字』岩波新書 1979 
④小松茂美『かな その成立と変遷』岩波新書 1968 
⑤西尾幹二「日本語確立への苦闘」『国民の歴史』 1999 
⑥高島俊男『漢字と日本人』文春新書 2001 
⑦大野晋『日本語はいかにして成立したか』中公文庫 2002


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飯島利一の道徳「空の武士道~ 航空自衛官の殉職 ~」

■この授業記録は要約です。
授業の詳細は、今週1月21日(水曜日)発行のメールマガジン「授業作りJAPANの日本人を育てる授業」をご購読ください。


https://my.melma.com/mytop/(右のリンクをクリックしてください)

どうぞよろしくお願いします。


[はじめに]

・遅ればせながら、みなさま、明けましておめでとうございます。
今年は大東亜戦争終結70周年です。
大正時代から始まり、GHQの占領の検閲によって確定し、198年代から再び悪意ある工作が広がった反日プロパガンダが今年はなおいっそう激しく燃えさかるでしょう。
しかし、私たち日本の教師は決して揺らぎません。
今年こそ日本再生のための教育元年としたいと考えております。
どうか変わらぬご支援をよろしくお願いします。

・さて、新年最初の授業は、飯島利一さんの「空の武士道」です。
わが国の教育は自衛隊をしっかり教えることを避けてきました。
いやそれどころかつい最近までは、マスコミも自衛隊を何か悪いものであるかのように取り上げるのが常でした。
みなさんはこの記事を覚えていらっしゃいますか?
今日の授業はこの事件を正しく生徒に教える授業です。

1.png
平成11年11月23日付『朝日新聞』一面トップの記事

・この授業を受けた生徒は次のような感想を書きました。

*私は狭山市に住んでいて入間川の河川敷で昔よく遊んだりしていました。
初めは迷惑だなと思っていましたが、いろいろな資料を読んでいるうちに、入間川の近くに祖父母が住んでいるので、もしかしたら死んでしまっていたかもしれないと思うと、停電程度で済んだことを感謝したい気持ちになりました。
家に帰ったら、事故のことを母や父に詳しく教えてもらいたいとおもいます。

*人のことをこんなにもよく思える人が死んでしまったのは、もったいないと思った。
この授業で生死について考えさせられた。
中川さんや門屋さんの死よりも大都市の停電を取り上げてしまうマスコミや、防衛庁長官が言った「誠に遺憾」という言葉は、こういう人の死の状況をよく知ってから言ってほしかった。
2人ともよい人です。
こんな人になれるように頑張りたい。

*やっぱり日本人には「武士道」があり、この事故はそれを体現するようなものなのだと思います。
現代人みんながこういう場面で、この2人みたいな行動が取れるなら、くだらない殺人や、いじめなども無くなるのだろうと思いました。こいうことに深く考えることも、とても重要なことだと思いました。

*最期まで自分の生き方を曲げなかった2人の自衛官に感動した。
自分のことを考えるだけではこんなことはできないとおもう。
自分のことより、自分のすべきこと・自分のできることを考えていたのだと思う。
2人の勇姿に、僕も合掌したい。

・まさに、偉大な自衛官と不道徳なマスコミ・不道徳な政治家が浮き彫りになる授業であり、我が国の現状の真実を伝える授業です。


[道徳] 空の武士道~航空自衛官の殉職 ~


1 ある新聞記事から

■授業は新聞記事を読むところから始まります。

・次の新聞記事は、ある事故に関するもので、平成11年11月23日付『朝日新聞』一面トップの記事です。みなさんは、これを読んで、どのような印象をもつでしょうか。

・まず新聞の見出しに注目してください。

「東京・埼玉の80万戸で停電がおこった。埼玉の狭山で空自機が墜落して高圧線を切断したからである。これにより交通・ATMも乱れた。空自機の2乗員は死亡した」

と、読みとることができます。見出しは、記事の概要を知るためには大変便利なものです。

 では、この記事の見出しが最も強調している点は、どこにあるでしょう。記事の並びや文字の大きさから、そのニュースが、どのように価値判断されているかが分かります。

 見出しの字が最も大きく、白抜きで目立つのは、

「東京・埼玉80万戸停電」

です。
つまり、この記事は、事故によって東京都や埼玉県で80万戸が停電になった事態を、最も大きく報道しているということです。
 たしかに記事の詳細にも、

「この停電のため、首都圏のJRや私鉄が一時止まり、約6万5千人に影響した。また、防衛庁長官が記者会見で陳謝し」、

今回の事故について

「乗員2人が死亡するとともに東京電力の高圧線を切断しました。このような事故が発生したことは誠に遺憾で、今なお一部の方々にご迷惑をかけています。心からお詫びします」

とあります。
 このように記事を読むと、停電の原因となった空自機(航空自衛隊機)に対して、新聞の読み手はどのようなことを感じるでしょう。生徒には次のように問いかけます。

『この記事から、墜落した空自機に対して、どんな印象をもちますか』

多くの生徒が、次のように答えました。

* 大事故を引き起こして、とても迷惑だ。
*危険。あぶない。自分たちの上に落ちたら怖い。

生徒は素直ですから、新聞のねらい・意図のとおりに反応していると言えるでしょう。

■新聞記事には明らかに伝えたい「ねらい」があることがわかります。
事故に対する怒り、事故を起こした自衛隊に対する怒りを持つことを読者に期待しているのです。




2 事故はどのようにして起こったか

 大停電を引きおこした航空自衛隊機の事故は、どのような状態で起こったのでしょうか。その実態を探るために、まず事故機と管制塔の交信記録、また当日の目撃者証言から再現してみましょう。

 平成11年11月22日、13時2分。
 航空自衛隊パイロット、中川尋史二等空佐と門屋義廣三等空佐は、飛行訓練のため、T33練習機に搭乗し、航空自衛隊入間基地を飛び立ちました。2人とも、航空学生*出身で飛行時間5000時間を超えるベテランのパイロットでした。

*航空学生は、将来自衛隊のパイロット等を養成するコースで、第12飛行教育団で約2年間、基礎教育・飛行訓練を受ける。入隊時からパイロットをめざしているので、技量の優れたパイロットが多いと言われる

 この訓練は、「年間飛行」といって現場を離れたパイロットの技量維持が目的でした。
そのため、内勤になった中川二佐が、前部のコックピットに乗って機長として操縦桿を握り、現役パイロットの門屋三佐が教官として後部席に乗りました。約40分の飛行予定は、高度な技量を要する訓練とは程遠いものでした。

 13時38分、入間基地の管制塔に、2人の乗ったT33から無線連絡が入りました。

「マイナートラブル発生」

 そのとき、T33は入間基地まで北東39キロ、高度760メートルの位置を時速450キロで飛行中でした。

「マイナートラブル」。つまり、このとき、中川機長は軽いトラブルと認識していました。機体に異常な振動があり、オイルの臭いがすると伝えています。

 13時39分、さらに無線が入ります。

「コックピット・スモーク」

 操縦室に煙が充満したので、直線距離の最短コース(ストレートイン)でもどるとの連絡です。このとき、基地から約18キロの地点でした。

「大丈夫だろう。降りられる」

 中川機長は落ち着いた声でそう言うと、基地への帰路を確認しました。

 ところが、13時40分。

「エマージェンシー!(緊急事態)」

 T33が「緊急事態」を告げます。
管制塔は、瞬時に緊張に包まれました。
 エンジントラブルは思ったよりもひどく、機体はどんどん降下していきます。
当日、複数の地域住民が目撃したところによれば、「プスンプスンと変な音を立てながら、機体が急降下していった。エンジン音はしなかった」(現場から数百メートル北に住む男性)「飛んでいるときのエンジン音はしなかった」(近くに住む主婦)と、エンジンはすでに止まっていたと考えられます。

 2人はエンジン停止という状況下で、あらゆる手を尽くしますが、急激に高度が低下し、もはや基地への帰還は困難と判断したようです。

 13時42分14秒。
「ベールアウト!(緊急脱出)」

 中川機長から、緊急脱出が宣言されます。
 高度は360メートル、基地まであと4キロの距離でした。
 脱出するには、ある程度の高さが必要で、この機の場合、300メートルなければパラシュートが十分に開かないのです。

 しかし、その13秒後の13時42分27秒。

「ベールアウト!」。

 管制塔がふたたび同じ言葉を受信。
中川機長たちは、まだ脱出していなかったのです。
高度は300メートル、安全に脱出できるギリギリの高さでした。
しかし、この受信を最後に、中川機長からの無線連絡は途絶えます。

 そして9秒後の13時42分36秒。
 2人の乗ったT33は、地上約60メートルの高圧送電線に接触、入間川の河川敷に墜落しました。これにより、東京・埼玉で80万世帯に停電が起こったのです。

 T33が送電線と接触する直前、近所の目撃者が乗員1人の脱出を見ていました。
高度約70メートル。
後席の門屋三佐でした。
門屋三佐はパラシュートが完全に開かないまま墜落し、地面に叩きつけられ、亡くなりました。中川機長の脱出は、高圧線と接触したその瞬間だったようです。
垂れ下がった送電線のほとんど真下に中川機長は放り出され亡くなっていました。

■さて、授業はこのあと、



3  事故の真相を探る 2回のベールアウトの謎

で、少しずつ真実が明らかになります。

[資料]は、「中川機長と管制塔との交信記録」と、授業者がGoogleEarthを使って作成した写真資料が使われます。

4.png

生徒が自ら真実を発見し、驚き、感動に至る授業記録はほんとうにすばらしいものです。


4 2人はどのようなパイロットだったのか

■雑誌記事や証言などの資料によって、中川機長と門屋三佐の人柄や生き方が明らかになります。
7.png


5 事故から学ぶ大切なこと

■最後に、現場近くに住む主婦の証言(新聞投書欄)や葬送式における家族の言葉などから、この事故の全体像がさらに明確にされ、生徒は「生き方」とあわせて、メディアリテラシー(マスメディアの読み方)も学び取ります。


■この授業記録は要約です。
授業の詳細は、今週1月21日(水曜日)発行のメールマガジン「授業作りJAPANの日本人を育てる授業」をご購読ください。

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服部剛の道徳5 「人種差別について考える」

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★この授業は、文科省『中学校学習指導要領』道徳の内容4「主として集団や
社会とのかかわりに関すること」の(3)「正義を重んじ,だれに対しても公
正,公平にし,差別や偏見のない社会の実現に努めるを指導するためにつくら
れた授業です。
日本人とアメリカ黒人との意外なつながりを通して、人種差別を憎む心を育み
ましょう。

★服部剛さんがブログを始めました。すぐに使えて役に立つ歴史・公民・道徳の
授業がこれからどしどし公開されていきます。どうかご活用をお願いしますす。
題して『授業づくりJAPAN横浜《中学》 「日本人を育てる歴史と道徳」』です。
http://jdjapany.blog.fc2.com/


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【ワークシート】

  道徳ノートNo. 「人種の平等について考える」
組  番 氏名(             )



1.アメリカの黒人たちは、日本人のことをどのように見てきたと思います
  か?

                    ア、好意的
具体的には?(想像で)     イ、嫌い
                    ウ、無関心


2.今からおよそ100年前の1904年、日本とロシアの間に戦争が始まりました。
  アメリカの黒人たちは日露戦争が始まったことを知って、どう考えたでし
 ょうか?

  ア、日本を応援した
  イ、ロシアを応援した
  ウ、無関心


→【資料1,2】で確認しよう



3.1920年代のアメリカで、日本人移民はとても差別されました。黒人たちは
 どうしたと思いますか?


→【資料3】で確認しよう 


4.1941年、自分の国アメリカが日本と戦争になりました。アメリカの黒人たち
 は、どう考えたでしょうか?


  ア、日本を応援した
  イ、アメリカを応援した
  ウ、無関心


→【資料4,5】で確認しよう



5.あなたは今、黒人の人たちに対して、どのような気持ち・感情を持っていま
 すか?

  また、あなたは真の国際友好を築くためにどのように行動したら良いと思い
 ますか?





■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■


 【道徳資料】「人種の平等~アメリカ黒人社会の日本観」   

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【資料1】「アメリカ黒人」のはじまり

 アメリカ大陸がヨーロッパ人によって「新大陸」として開拓(かいたく)され
た時、労働者として送り込まれたのが西アフリカの黒人たちでした。北米の多
くの地方では「黒人は生きているかぎり働かなければならず、その子供たちも
同様である」とする法律が作られました。
 アメリカのフロンティアは、アメリカ先住民(いわゆるインディアン)の弾圧
とアフリカ黒人の酷使(こくし)によって成り立っています。白人植民者は先住
民から土地を取り上げ、黒人を労働力として投入したのです。
「自由と平等」を掲げて建国したアメリカには、人間を他の人間の所有物に
するという明らかな矛盾(むじゆん)が存在していました。しかも、それが矛盾
であるということにすら気がつかない人々が数多くいたのです。
 黒人たちは、この差別を取り除くために闘い続けました。彼らは脱走を試み、
南北戦争にも参加しました。また、白人からのリンチと戦い、一方で自分自身
を磨き、どん底の生活から一歩一歩はい上がる努力を続けていったのです。


【資料2】明治の日本人

《黒人紙インディアナポリス・フリーマン》

 東洋のリングで、茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめし続けている。事実、
ロシアは繰り返し何度も、日本人にこっぴどくやられて、セコンドは今にもタオ
ルを投げ入れようとしている。有色人種がこの試合をものにするのは、もう時間
の問題だ。長く続いた白人優位の神話が、ついに今突き崩されようとしている。


《ニューヨーク・エイジ紙)》

 さあ、行け。小さな茶色い男たち。攻めて攻めて攻めまくれ。鋭い剣をさやに納
めず、天罰を与えつづけるのだ。お前たちは、天地をひっくり返した。ロシアをや
ったんだ。プライドと力におぼれる、ほかの連中に同じ道をたどらせるのも、お前
たちなのだ。

 日露戦争の時、アメリカ黒人紙に載った記事です。黒人はこの戦争を、白人の大
国に有色人種の小国が独立をかけて果敢(かかん)な戦いを挑んでいる、と見ていま
した。多くの黒人は日露戦争を人種間の戦争としてとらえ、白人による支配から有
色人種を解放してくれる国として、日本に期待しました。

 日本が白人の大国ロシアに勝利したことは、「有色人種は白人に勝つことができ
ない」という考えを崩壊させました。これ以来、黒人は「日本人は自分たちと同じ
有色人種だ」という仲間意識を、強く抱くようになったのです。
 当時、日本を訪れた黒人たちは
「まるで兄弟のように親密な歓迎(かんげい)を受けた」
「日本人には人種偏見(へんけん)は全くないという確信を持った」
「日本人ほど親切な民族に会ったことはない」
とその喜びを表しています。

 東京で開かれた環(かん)太平洋新教育会議に参加した黒人女性のマクギーさんは、
黒人の境遇(きようぐう)やアメリカの現状を話しました。最後に「あらゆる人種は
お互いに協調し、平等に扱われるべきだ!」と訴えました。

 のちにマクギーさんは「聞いていた日本人の目には、涙があふれていた」と日本
人の姿に感動し、次のように感想を述べています。
「わたしは、何か新しい人々に出会ったような気分になった。それまでまったく意
識したことのなかった人々に…、信心深く、穏(おだ)やかで、情けに満ちたこの人
々は、たいていの人がお世辞でしか言わないことを、心の底から言ってくれるのだ」。

 謙虚(けんきよ)で、おごりのない日本人。このような姿が、戦前の日本にはあっ
たのです。


【資料3】黒人の日本人に対する連帯意識

1920年代、アメリカでは日本人移民に対する差別がひどくなりました。そんな中、
日系人に温かく接したのは黒人たちでした。

《フィラデルフィア・トリビューン紙》
黒人たちは日本人を心から尊敬している。
 同じ『抑圧(よくあつ)された民族』であるのにもかかわらず、自分たちのために
一所懸命努力する日本人の態度は見習うべきものである。

《カリフォルニア・イーグルス紙》
ほとんどの病院が黒人に固く戸を閉ざしている昨今(さつこん)、日系人の病院が
どの人種にも門戸(もんこ)を開放していることは、本当に喜ばしい限りである。
「黒人を差別しない日本人」というイメージは、またたく間に西海岸に広まってい
きました。
 1923年、関東大震災の深刻な被害を知ったある黒人は、シカゴ・ディフェンダー
紙に「アメリカの有色人種、つまりわれわれ黒人こそが、同じ有色人種の日本人を
救えるのではないか」と投書し、それを受けて同紙はすぐに日本人救済キャンペー
ンを始めます。

<たしかに我々は貧しい。しかし、今、お金を出さなくていつ出すというのか>

 同紙の熱心な呼びかけは、多くの黒人の間に浸透(しんとう)していきました。
 ハーバード大学で学び、米国黒人として最初の博士号(はかせごう)をとった黒人
解放運動の指導者・デュボイスは1936年、中国大陸の満州(まんしゅう)に1週間、
中国に10日間、日本に2週間滞在(たいざい)しました。そして、ピッツバーグ・
クリア紙に「忘れがたい経験」と題したコラムを連載(れんさい)します。

デュボイスが東京の帝国ホテルで、支払いをしている時に、「いかにも典型的な
アメリカ白人女性」が、さも当然であるかのように、彼の前に割り込んできました。
 しかし、日本人のフロント係は、女性の方を見向きもせずに、デュボイスへの対
応を続けました。勘定(かんじょう)がすべて終わると、彼はデュボイスに向かって
深々とお辞儀(じぎ)をし、それからやっと、その厚かましいアメリカ女性の方を向
いたのでした。

 「フロント係の毅然(きぜん)とした態度は、これまでの白人支配の世界とは違った、
新しい世界の幕開けを予感させた。
『母国アメリカではけっして歓迎されることのない』一個人(いちこじん)を、日本人
は心から歓(よろこ)び、迎え入れてくれた。日本人は、われわれと同じ苦しみを味わい、
同じ運命を背負っていることを、心から理解してくれているのだ」。

 さらに、上海(シャンハイ )での出来事です。デュボイスの目の前で4歳くらいの
白人の子どもが、中国人の大人3人に向かって、どくように言うと、大人たちはみな、
あわてて道をあけました。

 「これはまさにアメリカ南部の光景と同じではないか! 上海、この世界一大きな
国の世界一立派な都市は、なぜか白人の国によって支配され、統治(とうち)されてい
る。それに対して、日本は『有色人種による、有色人種の、有色人種のための国』で
ある」。

WEB・デュボイス
黒人解放運動の指導者  WEB・デュボイス



【資料4】日本人と戦う理由は…

 1941年、日本とアメリカで戦争が始まると、黒人社会の世論(よろん)は割れました。

 「人種問題はひとまず置いて、母国のために戦おう」という意見。
 「アメリカの勝利に貢献(こうけん)して、公民権(こうみんけん)を勝ち取ろう」。
 さらには、
 「黒人を差別するアメリカのために戦うなんて、バカげている」という意見まで…。
 
 黒人指導者デュボイスは、日米の戦いを人種戦争という観点でとらえ、
「アメリカが日本人の権利を認めてさえいれば、戦争は起こらなかったはずだ」と主張
しました。

 戦争が進むにつれて、黒人たちの多くは、白人が日本人を「イエロー・モンキー(黄
色い猿)」「リトル・イエロー・デビル(小さな黄色い悪魔)」などの蔑称(べつしよう)
をさかんに使うことに、ますます人種戦争との確信を深めていきました。

 アメリカ政府は、日本兵の残虐(ざんぎゃく)行為を紹介し、「野蛮(やばん)な日本人」
というイメージを広めようと宣伝に努めました。

 しかし、黒人紙ピッツバーグ・クリアは、

「ビスマーク沖での海戦で、アメリカ軍は多数の日本の艦船(かんせん)を沈めた後、
波間に漂っていた多くの日本兵をマシンガンで皆殺しにした」

「本土爆撃では、わざわざ人の多く住んでいる場所を選んで、大人から赤ん坊まで無差別
に殺した」

「広島と長崎に原爆が落とされた時、何万という人間が一瞬にして殺された。これを残忍
(ざんにん)と言わずして何を残忍と言おう!」
と主張しました。

 軍隊の中でも差別されていた黒人兵たちにとって、白人のために、同じ有色人種である
日本人と戦わなければならない理由は見いだせなかったのです。ある黒人部隊を指揮して
いる白人隊長は、「隊の95%は戦う気力がまったくない」と報告しています。

 黒人兵の間では、こんなジョークが語られました。「墓石(はかいし)にはこう刻んでくれ。
『白人を守ろうと、黄色人種と戦って命を落とした黒人、ここに眠る』と」。




【資料5】日本人移民の強制収容!

 戦争が始まった時、アメリカの日本人移民は、市民権(国籍)を持っている人まで、強制収
容所に入れられました。苦労して築き上げた財産も、アメリカ政府に没収されてしまったの
です。
 このことに黒人たちは大きな衝撃(しょうげき)を受けました。なぜなら、アメリカの敵国
の中で日本人だけが収容され、同じく敵国のドイツ系もイタリア系も収容されなかったのは、
あきらかに人種差別のせいではないか、と感じたからです。そして「市民権を持っている日
本人さえもが強制収容されるなら、黒人にも同じ事が起こる可能性がある!」と不安になっ
たのです。

 「11万5千人もの人々(日本人移民)が、アメリカ人としての自由を奪われるのを、われ
われ黒人は黙(だま)って見過ごすというのか」

とロサンゼルス・トリビューン紙の記者が全米黒人向上協会に呼びかけました。

 協会は、「われわれは人種や肌の色によって差別され、アメリカ人としての当然の権利を
侵害(しんがい)されることには断固として反対していかねばならない」と決議文を出してい
ます。

 1945年、日本は敗れ、大戦が終わりました。やっと日本人移民は強制収容所から解放されて、
町に戻ってきました。この日本人たちを歓迎(かんげい)し、温かく迎えたのは黒人社会でした。
彼らは、何もかも失った日本人のために仕事を探したり、教会に招いたりしてくれたのです。


【参考】レジナルド・カーニー『20世紀の日本人 アメリカ黒人の日本人観』
    国際派日本人養成講座『Japan On the Globe「人種の平等~米国黒人社会の日本観」』

合掌の碑

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服部剛の道徳4 「戦場の知事・島田叡」

★「文科省学習指導要領」中学道徳「内容4 主として集団や社会とのかか
わりに関すること」の「(4)自己が属する様々な集団の意義についての理解
を深め,役割と責任を自覚し集団生活の向上に努める」について学ぶ授業です。

この授業はブログ「授業づくりJAPAN横浜《中学》『日本人を育てる歴史と道徳』
(服部剛代表)にご本人が書いています。授業の記録も挿入しながら、たいへん
わかりやすく書かれています。ぜひこちらもご覧ください。URLは以下の通りです。
http://jdjapany.blog.fc2.com/

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 道徳ノート No.     組  番 氏名(             )

        「役割と責任」

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1.みんな毎日、忙しく学校生活を送っていますが、気がのらない仕事もあり
ますか? 
「自分がなりたくてなった係じゃない」とか「何で自分がやらなくちゃいけ
ないの」とか…。
  また「こんなこと、自分にはできそうもないよ」という仕事を任されること
もあるでしょう。

 ●こんな時、あなたはどうしていますか?

 
 ──────────────────────────────────

 ●その理由は?


 ──────────────────────────────────


→【資料1】へ




2.【資料1】で、あなたが島田叡(あきら)だったら、何と答えますか?


 ──────────────────────────────────


→【資料2】で確認しよう




3.【資料2】を読んで、島田知事の持ち物から、何がわかりますか?


 ──────────────────────────────────



→【資料3】【資料4】へ




4.【資料3】と【資料4】を読んで、島田知事の行動をどう思いましたか?


 ──────────────────────────────────


→【資料5】へ




5.島田知事が、人に請(こ)われると好んで書いた字があります。
  漢字一字で書いてみましょう。

  
  ────


  ●この字はどういう意味でしょうか?
 島田知事の行動に照らして、考えてみましょう。


 ──────────────────────────────────




6.今日の勉強を通して、学んだことや感想を書きましょう(足りなければ裏へ
 どうぞ)。


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    【道徳資料】「戦場の県知事・島田叡(あきら)」


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沖縄戦地図

合掌の碑

◆大東亜戦争での沖縄戦では、多くの人が犠牲になりました。
県の各地には写真のような大きな慰霊碑が数多く建てられています。



【資料1】────────────────────────────── 
 大東亜(だいとうあ)戦争(太平洋戦争)の末期、日本は戦況が悪化し、沖縄県
も空襲をうけるようになりました。

 沖縄県知事の泉(いずみ)守紀(もりのり)氏は空襲を恐れ、あちこちに県庁を
移転させたので行政が滞っていました。また、住民の疎開や食料の搬入を進め
る政府や軍にも非協力的でした。とうとう泉知事は出張と称して本土に出かけ、
そのまま沖縄に帰ってこなかったのです。

内務省では、後任の知事を誰にするか困ってしまいました。
 なぜなら、まもなくアメリカ軍の沖縄上陸が確実だったので、引き受ける人
物がいなかったからです。

そこに、沖縄守備軍の司令官・牛島満(みつる)中将から「ぜひ島田叡(あきら)
君を」との指名がありました。

島田叡とはこんな人です
080316_01.jpg


島田叡は兵庫県神戸市出身。内務省のエリート官僚です。中学から東京大学ま
で野球選手として活躍し、勉強とスポーツを両立させた秀才でした。当時43歳の
島田は、大阪府に務めていました。島田は以前から牛島中将と親交があり、深く
信頼されていたのです。

昭和20(1945)年1月11日、府知事から呼び出された島田は、「沖縄県知事になっ
てほしい」と要請されました。


┌────────────────────┐
│あなたが島田叡だったら、何と答えますか?  │
└────────────────────┘


→ 道徳ノートの2へ



【資料2】─────────────────────────────── 

 島田は即答しました。

「私が行きます」。

府知事は「君、家族もあるのだから、三日ほどよく考え、相談した上で返事して
も良いんだぞ。断っても良いんだぞ」と言いました。しかし、島田は

「いや、これは、妻子に相談することじゃありません。私が決めることです」

と答えたといいます。
自宅に帰って、妻に「朝から何か良いお話でしたの?」と聞かれた島田は

「沖縄県知事の内命やった。もちろん引き受けて来たわ」

と落ち着き払って答えました。
驚いた妻の「なぜ、あなたが!?」との問いに、島田はこう言いました。

「誰かが、どうしても行かなならんとなれば、言われた俺(おれ)が断るわけには
いかんやないか。俺が断ったら誰かが行かなならん。俺は行くのは嫌やから、誰か
行けとは言えん」

 「これが若い者なら、赤紙(召集令状)一枚で否応(いやおう)なしにどこへでも行
かなならんのや。俺が断れるからというので断ったら、俺は卑怯者(ひきようもの)
として外も歩けんようになる」

のちに島田はこうも言っています。

「牛島さんから赴任(ふにん)を望まれた。男として名指しされて断ることはでき
へんやないか」

こうして、1945年1月31日、島田叡(あきら)は沖縄県知事として単身、赴任(ふに
ん)しました。
島田の荷物はトランク2つだけ。中には衣服と茶道具、愛読書数冊、薬。そして、
ピストル2丁。胸ポケットには青酸カリが入っていました。


→ 道徳ノートの3へ



【資料3】─────────────────────────────────
 
 過酷な運命を覚悟した上での赴任(ふにん)でした。県庁の職員を前にした島田知事
の挨拶(あいさつ)は次のようなものでした。

「本当の奮闘はこれからだ。一緒になって共に勝利への道に突進しよう。無理な注文
かもしれないが、まず元気にやれ。明朗にやろうじゃないか。私が万一、元気を無くし
たら強くしかってもらいたい。これからは知事も部長も課長も思い切ったことを言い、
創意と工夫を重ねて良心を持ってやろう。そして力一杯、早くやることだ」

 これを聞いた職員の多くは「この長官は自分たちを捨てていかない。この人になら最
期(さいご)までついていける」と思いました。

 ある人から「泉(いずみ)知事は逃げてけしからん。知事さんも大変ですね」と言われ
た島田知事は、

「人間、誰でも命は惜しいですから仕方がないですね。私だって死ぬのは恐いですよ。
しかし、それより卑怯者といわれるのは、もっと恐い。私が来なければ、誰かが来ない
といけなかった。人間とは運というものがあってね」

 と、前の知事の悪口は一言も言わなかったといいます。
 島田知事は軍との協力に努め、遅れていた県民の疎開を推進しました。その結果、
約16万人の県民の命が救われることになります。
 また、食料・医薬品等を確保し、台湾から約3600トンもの米を運びこみました。
やがて県民は知事に深い信頼の念を抱くようになっていきます。
 また、たびたび農村を視察した島田知事は、勝利を信じてひたすら軍に協力する
住民が不憫(ふびん)でなりませんでした。

 「アメリカ軍が上陸すれば、どうなるのか…。少しでも楽しい思いをさせてやり
たい」

 島田知事は酒の増配を実施し、禁じられていた村の芝居(しばい)も復活させて県
民を楽しませました。
 この知事のためなら死んでもかまわないと思った県民も多かったといいます。




【資料4】────────────────────────────────
 
 3月に入り空襲が始まると、県庁を首里に移転し、地下壕(ごう)の中で仕事をするよう
になります。
 壕内はかなり暑く、天井は鍾乳石(しようにゆうせき)がむき出しで、頭がぶつかりそう
な低さでした。
 職員全員が家族を疎開させ、想いを断ち切って、県民のために尽くそうとしました。

 この頃には島田知事の姿勢が職員にも浸透していたのです。
 ある日、女子職員が島田知事に顔を洗うように勧めると

「お前が命懸けで汲んできた水で顔が洗えるかい」

と言い、他の職員と同じように米の研ぎ汁を浸した手拭いで顔を拭っていました。

アメリカ軍が上陸し、「ありったけの地獄を一つにまとめたような戦い」といわれた激戦
が続きました。多くの命が失われ、軍・民ともに沖縄本島南部に追い詰められていきました。
行政は無力になり、県庁も崩壊しました。

「知事さんは県民のためにもう十分働かれました。文官なんですから、最後は手を上げて、
出られてもよいのではありませんか」

と提案された島田知事はこう言いました。

「君、一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね? 沖縄の人がどれだけ死んでいる
か、君も知っているだろ」とその責任感はまったく衰えませんでした。そして、

「それにしても、僕ぐらい県民の力になれなかった県知事は、後にも先にもいないだろうなあ。
これは、きっと末代(まつだい)までの語り草になると思うよ」

と県民を守り通せなかったことで自分を責めていたといいます。

いよいよ最期の時が近づきました。島田知事は、女子職員に「僕たちはこれから軍の壕に行く。
君たちには(米軍は)どうもしないから、最後は手を上げて出るんだぞ」と言いきかせました。

それを聞いた女子職員は、
「悔しくて、悔しくてたまりませんでした」と語っています。

その後、激戦のなか、軍の壕を目指して出て行った島田知事は永遠に消えてしまいました。
その遺体は今もって不明のままです。


→ 道徳ノートの4へ



【資料5】────────────────────────────────────── 

昭和47年、島田知事の最期(さいご)を目撃した人が名乗り出ました。
当時、分隊長だった山本初雄さんによると、摩文仁(まぶに)の海近くの壕で

 「島田知事は頭を奥にし、体の左側を下にしておられた。『負傷しているんですか』ときくと、
『足をやられました』と言われた。知事さんが『兵隊さん、そこに黒砂糖がありますからお持ちな
さい』と言った。何も食べ物がない時ですよ。偉いと思います。・・・翌日、壕を訪ねると亡くな
ったという。壕に入ると膝(ひざ)のそばに拳銃があった。右手から落ちたような感じで『ああ自決
したんだなあ』と思った。合掌して壕を出ました」。

 終戦から6年後の昭和26(1951)年、県民からの寄付によって、島田知事と亡くなった県職員453名
の慰霊碑が、摩文仁(まぶに)の丘に建てられました。その名も「島守(しまもり)の塔」。
 島田知事が在任したのは、たった5ヶ月足らずです。しかもそれは地獄の日々でした。
 しかし、「島守の塔」は今でも参拝する人びとでお線香の煙が絶えることはありません。
 戦場での県民保護に全力を挙げ、43歳で摩文仁(まぶに)の丘に散った島田知事。毎年6月22日には
慰霊祭が行われています。

→ 道徳ノートの5


★上の写真が「島守の塔」。
 島田知事は誰言うともなく「沖縄の島守」と呼ばれるようになりました。
 沖縄の土となって、今でも島を守ってくれている、と 沖縄県民は信じているのです。

■参考図書 ~興味を持ったら読んでみよう。
・田村洋三『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり』
・浦崎純『沖縄の決戦』



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     【道徳ノート解説】「役割と責任」

■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■
 
1.みんな毎日、忙しく学校生活を送っていますが、気がのらない仕事もあり
ますか?
 「自分がなりたくてなった係じゃない」とか「何で自分がやらなくちゃいけ
ないの」とか…。
  また「こんなこと、自分にはできそうもないよ」という仕事を任されること
もあるでしょう。

 ●こんな時、あなたはどうしていますか?

 
 ──────────────────────────────────

 ●その理由は?


 ──────────────────────────────────


→【資料1】へ




2.【資料1】で、あなたが島田叡(あきら)だったら、何と答えますか?


 ──────────────────────────────────


→【資料2】で確認しよう




3.【資料2】を読んで、島田知事の持ち物から、何がわかりますか?

   決死の覚悟
 ──────────────────────────────────



→【資料3】【資料4】へ




4.【資料3】と【資料4】を読んで、島田知事の行動をどう思いましたか?


 ──────────────────────────────────


→【資料5】へ




5.島田知事が、人に請(こ)われると好んで書いた字があります。
  漢字一字で書いてみましょう。

    断
  ────


  ●この字はどういう意味でしょうか?
 島田知事の行動に照らして、考えてみましょう。

  決断   断固行う   迷いを断つ  など
 ──────────────────────────────────




6.今日の勉強を通して、学んだことや感想を書きましょう(足りなければ裏へ
 どうぞ)。


──────────────────────────────────

────────────────────────────────── 

────────────────────────────────── 

──────────────────────────────────

────────────────────────────────── 




■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■


【授業の解説】
「沖縄の島守(しまもり)」戦場の県知事・島田叡(しまだあきら)


■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■
 

・指導項目:役割と責任 

・ありったけの地獄を一つにまとめたような戦いといわれる沖縄戦において、
島田叡は、県知事として何を考え、どのような行動をとったのか?

・わずか5ヶ月足らずの島田叡の行動が、「沖縄の島守」として、現在に至るま
で多くの県民に慕われ続けているのはなぜなのか?

《エピソード(補)》

■佐賀県警察部長時代(30代半ば)。

西郷隆盛の勉強会にて、西郷が桐野利秋の質問「偉い人とはどんな人ですか」
に答えた言葉を生涯の修養の目標にした。

 西郷「偉い人とは、大臣であるとか大将であるとかの地位ではない。
    財産の有無ではない。一言につくせば、後ろから拝まれる人だ。
    死後、慕われる人だ」
  ↓
これを聞いた島田は、先生に…

 島田「今夜は本当に痛棒を喫しました。中学時代から野球選手としてチヤホヤ
    されていい気になり、大学卒業後は官吏となって部下から頭を下げられ
    てうぬぼれていました。泡のような人気、煙のような権力の地位、今後
    こうした臭みを一掃して、真の自己完成に精進します」

  ↓

 島田は死して「島守の神」となり、本当に「後ろから拝まれる人。死後、慕われ
る人」になったのです。

■座右の書は『南洲翁遺訓』と『葉隠』 →沖縄赴任の際に持参した本。

■沖縄を守るために最期まで壮絶な戦いを指揮し、沖縄の土となった牛島中将も西郷
 に私淑していた。

 →上海総領事館警察部長時代の島田と知り合い、肝胆相照らす仲だった。

→今、沖縄県知事をやれるのは「島田君しかいない」との確信を持って、知事に要請
  した。

■島田がいつも部下に語った言葉

  「人間、アホになれたら一人前や」
  「アホの勉強、忘れなよ」

         →アホだから常に勉強だということでしょう。

合掌の碑

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