授業づくりJAPANの「日本人を育てる授業」

わたしたちは誇りある日本人を育てたい。真の国際派日本人を育てたい。

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佐久間海軍大尉の遺書


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●本号から授業の紹介にもどりたいと思います。よろしくお願いします。
●今回は、高等学校の地歴科の先生、飯島利一さんの授業実践
「佐久間海軍大尉の遺書」です。

◎どんな人物でしょうか
次の写真の人物を、誰だか知っていますか。日本ではほとんど知れていないのに、欧米をはじめ海外の教科書にでてくるような著名な日本人は結構多いのです。歴史上のどんなことをした人物でしょう。写真からうけた印象を述べて下さい。
(「佐久間勉」と板書、生徒に写真の印象を聞いたあと、次の資料を読む)
佐久間勉

◎アメリカの教科書に登場した佐久間勉

「ニューヨークタイムズ」の記者で、ピュリッツアー賞を受賞したハンセン・ボールドウィン(Hanson Baldwin)という作家がいます。

氏は、軍事評論家でもあり、一九五六年に『海戦と海難―七つの海の真実の物語』(SEA FIGHTS AND SHIPWRECKS)を著しました。その本のなかで、佐久間勉という日本人を紹介し、全米で話題となりました。これがきっかけとなり、佐久間勉のエピソードが、カリフォルニア州の高校教科書「リーダーシップ」で取り上げられたのです。

佐久間勉は、明治十二(一八七九)年九月十三日、福井県若狭町に生まれました。明治二七(一八九四)年に日清戦争が起こり、中学三年だった佐久間は海軍に憧れ、海軍兵学校への志望をかためます。その後、中くらいだった成績を向上させ、懸命に勉強して、難関の海軍兵学校に入りました。

海軍の将校となった佐久間は、戦艦「吾妻」などに乗艦して、日露戦争に従軍しました。その後、佐久間は当時最新の兵器として開発に期待がかかっていた潜水艇を研究することになりました。大尉に昇進すると、国産初の第六号潜水艇の艇長に任命され、潜航実験・訓練に取りくむ毎日を送ります。

そして、明治四十三年四月十五日、佐久間は運命の日を迎えるのです。



◎第六号潜水艇の事故
佐久間勉はじめ十四名の乗組員は、この日もいつものように、第六号潜水艇に乗り込み、潜航実験のため、瀬戸内海の新湊沖へ出ました。

第六号潜水艇

第六号艇は、米英製にくらべて形も小さく、性能も貧弱で、波に耐える力が弱く、「ドン亀」と呼ばれていました。そのため操作が難しく、乗組員はみなベテランばかりでした。

午前十時頃から、現場では半潜航という訓練に入りました。半潜航というのは、潜水艇を水中に入れ、通風筒の先だけを海面上に出して、海上航走します。ところが、その時どうしたことか、突然通風筒から、どっと海水が入ってきたのです。佐久間は、ただちに通風筒のバルブを閉じるように命じましたが、悪いことが重なります。開閉バルブのチェーンがはずれてしまったのです。佐久間はすぐに手動で閉めるように言いましたが、チェーンほど速くはいかず、海水が容赦なく艇内に入ってきました。

必死で閉め終わったときには、すでにかなりの海水が艇の後部に入りこみ、配電盤もショートして、艇内は真っ暗になってしまいました。その上、ショートによって絶縁体のゴムが焼け、悪臭のガスが発生して、乗組員の呼吸を困難にしていきました。

その間、第六号艇はどんどん海の中へ沈んでいきました。艇内に侵入した海水が予想以上に多かったのです。佐久間以下乗組員は、手動ポンプによる排水を代わる代わる懸命に試みました。しかし、一向に艇は浮上する気配を見せません。焦る乗組員を、佐久間は大声で励ましながら、少しでも潜水艇を軽くしようとガソリンの輩出にあたります。が、そのパイプは無惨にも破れ、裂け目からガソリンが床に広がり、鼻を突く臭気が息苦しい機関室に立ちこめました。

苦しい呼吸の中で乗組員は、パイプに布をあてガソリンの流入を止めようし、別の者は手動ポンプで排水作業を続け、みな懸命に力をふりしぼりました。しかし無念にも、潜水艇は海底に沈んで止まってしまいました。深水計は五十二フィート(約十六メートル)を示し、全く動きません。空気はしだいに薄くなってきます。乗組員十四名は全員、死を覚悟しなければなりませんでした。


〈問題1〉
「このとき、乗組員たちは、どのような行動をとったでしょうか、考えたことを書いてください。もしあなたが彼の立場だったら、どうするかということでもかまいません。

(以下、○印は生徒のおもな回答)
○冷静ではいられず取り乱してしまう。乗組員たちを励ますが、だんだん絶望してパニックになっていく。平常心は保っていられない。焦って何もできない。

○最期まで排水したりしてあきらめない。艇長としてみんなを励まし続けると思う。何か起こることを期待して最期まで頑張る。無理とわかっていても死ぬまで懸命に排水作業を続ける。乗組員を励まして最期まであきらめないように言い聞かす。

○自分だったら海底に沈む前に潜水艇から脱出する。どうにか外にでられるようにもがく。死を覚悟して外に出て助けを求める。助かる方法を考え試してみる。十六メートルなら脱出しても助かるかも。

○無用に死ぬくらいならせめて最期までかっこよく死にたいと自殺した。酸欠は苦しいので自ら死ぬ。苦しんで死ぬより自分で命を絶とうとする。楽に死ねる方法を探す。

○死を覚悟して大切な人に手紙を書いた。家族や世話になった人に、いつか発見されることを考えて何かにメッセージを残す。遺書を書く。潜水艇の事故の様子をメモに遺す。

○なるべく長く生きられるように静かにする。寝る。海軍にいるのは本望だからそのまま死を覚悟して待つ。落ちついて今までの人生をふり返る。

○最後に奇跡がおこらないか祈る。極力動かないようにして救援を待つ

○不安を紛らわすためにおしゃべりする。のこり時間を好きなように使う。


◎乗組員たちの最期
(生徒の発言を内容別にいくつか板書し、次の資料を読む。問題1の答えとなる所に線を引くように指示する)


六号艇の近くにいて、訓練を監督していた歴山丸の担当者が、不安に駆られて事態を通報したのは、夕方になってからでした。この時点から大がかりな捜索、救援活動が始まりましたが、沈んだ場所を特定できず発見が遅れました。見つかったのは、翌日の十五時半頃でした。さらに、潜水艇の回収作業が困難をきわめ、ようやく引きあげに成功したのは、事故発生の二日後、十七日の午前十時四五分のことでした。



引き上げられた潜水艇の中へ、捜索を担当した吉川中佐らが、検分のために入りました。駆けつけてきた家族には、陸にあがった潜水艇に近づくことは許されず、ごく一部の関係者以外は立ち入り禁止となりました。潜水艇の事故は、これまで諸外国でも事例があり、いずれも内部は悲惨なありさまだったのです。アメリカとイギリスの事故の場合では、ハッチが開かれると、そこに脱出しようと乗組員が、出口に殺到して争った形跡がみられたそうです。乗組員は皆、空気を求め苦しみもがき、のどをかきむしった跡を残して、恐ろしい形相で息絶えていたということです。そのような姿を遺族に見せることはできないと、吉川中佐らは考えたのです。



意を決して吉川中佐はハッチを開けました。しかし、ハッチ周辺には誰の姿もありません。さらに艇内に足を踏み入れ、奥に入ったところ、吉川中佐ら関係者たちは思わず息をのみました。佐久間艇長は司令塔にいて厳然と指揮するまま、生きているような表情で息絶えていました。機関中尉は電動機の前に、舵手はハンドルを握ったまま目をつむり、その他の乗組員もそれぞれの持ち場を離れることなく死んでいたのです。最期に至るまで潜水艇の修復に全力を尽くしたまま死んでいった仲間の姿を見て、吉川中佐は胸に迫る想いをおさえることができず、泣き崩れてしまったといいます。



その夜、遺留品の整理に、佐久間の小浜中学の後輩、倉賀野明が手助けに現場にやってきました。倉賀野が遺留品係を補助しているときに、佐久間の手帖を見つけました。もしかしたら、最期の決心を書き残しているのではないかと思って、手帖を開きます。最初の方のページはみな白紙でした。無念に思って手当たり次第中間のページを開くと、そこに乱れた筆の遺書があらわれたのです。

(生徒に線を引いた所を発声させ、乗組員が最期に至るまで潜水艇の修復に全力を尽くしたこと、佐久間が「遺書」をのこしていたことを確認する)。 




〈問題2>
遺書にはどんなことが書かれていたのでしょうか。

(以下、○印は生徒の主な回答)
○家族や仲間、今までお世話になった人への感謝の気持ち、別れの言葉や、家族へのメッセージ


○死なねばならないことを無念に思う


○事故の記録。事故の起こった経緯などを書いて、二度とこんなことが起こらないように残した。


○最期まで潜水艇の修復に尽力した乗組員を讃えてほしい。部下たちの努力した功績。


○ずっと憧れていた海軍になれて幸せだった。未練はない本望だ。誇りに思う。最期の決意。


○国がつくった潜水艇を自分たちが沈没させて申し訳ない。部下に申し訳ない。死んでいく部下の遺族への謝罪。


○海軍の未来を託す。自分は死んでしまうが、後のことを任す。自分たちの死を無駄にするな。




◎遺書を読む

それでは、佐久間大尉の遺書にどのようなことが書かれていたのか、確認してみましょう。次の写真は、その遺書の書き出し部分にあたります。


佐久間大尉の遺書


① 佐久間艇長遺言 小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス、誠ニ申シ訳無シ。
サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニコトヲ処セリ。
我等ハ国家ノタメ職ニ斃レシト雖モ唯々遺憾トスル所ハ天下ノ士ハコレヲ誤リ以テ将来潜水艇ノ発展に打撃を与フルニ至ラザルヤヲ憂フルニアリ。
希クバ諸君マスマス勉励以テコノ誤解ナク将来潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ尽クサレンコトヲ。
サスレバ我レ等一モ遺憾トスルトコロナシ。



② 沈没ノ原因 瓦素林潜航ノ際過度深入セシタメ「スルイスバルブ」ヲシメントセシモ途中「チェン」キレ依テ手ニテ之レヲシメタルモ後レ後部ニ満水セリ。
約二十五度ノ傾斜ニテ沈降セリ。
沈据後ノ状況
一、傾斜約仰角十三度位
一、配電盤ツカリタルタメ電灯消エ、電纜燃エ悪瓦斯ヲ発生呼吸ニ困難ヲ感ゼリ。


十五日午前十時沈没ス。
コノ悪瓦斯ノ下ニ手動ポンプニテ排水ニ力ム。
一、沈下ト共ニ「メンタンク」ヲ排水セリ、灯消エゲージ見エザレドモ「メンタンク」ハ排水シ終ワレルモノト認ム。
電流ハ全ク使用スル能ワズ、電液ハ溢ルモ少々、海水ハ入ラズ「クロリン」ガス発生セズ唯々頼ム所ハ手動ポンプアルノミ。

(后十一時四十五分司令塔ノ明リニテ記ス)
溢入ノ水ニ浸サレ乗員大部謂フ。寒冷ヲ感ズ。
余ハ常ニ潜水艇員ハ沈置細心ノ注意ヲ要スルト共ニ大胆ニ行動セザレバソノ発展ヲ望ム可カラズ、細心ノ余リ萎縮セザランコトヲ戒メタリ。世ノ人ハコノ失敗ヲ以テ或イハ嘲笑スルモノアラン。
サレド我レハ前言ノ誤リナキヲ確信ス。


一、司令塔ノ深度計ハ五十二ヲ示シ排水ニ勉メドモ十二時迄ハ底止シテ動カズ、コノ辺深度ハ十尋位ナレバ正シキモノナラン。
一、潜水艇員士卒ハ抜群中ノ抜群者ヨリ採用スルヲ要ス、カカルトキニ困ル故。幸ヒに本艇員ハ皆ヨク其職ヲ尽セリ、満足ニ思フ。



③ 我レハ常ニ家ヲ出ヅレバ死ヲ期ス。サレバ遺言状ハ既ニ「カラサキ」引出ノ中ニアリ(之レ但私事ニ関スルコト、イフ必要ナシ、田口、浅見兄ヨ之レヲ愚父ニ致サレヨ)



④ 公遺言 謹ンデ
陛下ニ白ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノナカラシメ給ハラワンコトヲ、我ガ念頭ニ懸ルモノ之アルノ。


左ノ諸君ニ宜敷(順序不順) 斉藤大臣 島村中将 藤井中将 名和少将 山下少将 成田少将 (気圧高マリ鼓膜ヲ破ラルル如キ感アリ) 小栗大佐 井出大佐 松村中佐(純一) 松村大佐(竜)(小生ノ兄ナリ) 松村少佐(菊) 船越大佐 成田鋼太郎先生 生田小金次先生
十二時三十分呼吸非常ニクルシイ  瓦素林ヲブローアウトセシシ積モリナレドモ、
ガソリンニヨウタ
中野大佐  
十二時四十分ナリ、


 以上が遺書の全文です。
内容は、
①部下を死なせてしまった責任を自ら負い、部下が最後まで沈着に任務を尽くしたことに感謝している。さらに、この事故が将来、潜水艇の研究発展の妨げにならないことを願っている。

②沈没の原因とその後の処置について。

③私事に関する遺言状について。

④最後に、明治天皇に対し部下の遺族の生活が困窮しないように懇願している、というものでした。

佐久間は死の直前に取り乱さないばかりか、この事故によって研究開発が遅れることすら心配して、後世のために遺書を記していたのです。
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道徳「拉致事件から家族愛を考える」

・おなじみ、服部剛さんの道徳です。
・徳目は4-(6)「家族愛、充実した家庭生活」
・授業で使用するDVDは、政府製作の『アニメ「めぐみ」』です。全国の学校に無償で配布されている(はず)です。
・今日は、生徒の反応もお読みください。

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道徳「拉致事件から家族愛を考える」

《授業開始》
◆ 発問 1~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

最近、家族と過ごしていて、家族との関わりで印象に残っていることは何ですか?

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

・DVDを一緒に見た。
・叱られたこと。
・英検3級合格してほめられたこと。
・いろいろなところに出かけたこと。
・元旦から二日、おばあちゃんと一緒にいたこと。
・手伝いをして、冬に水を使うのがたいへんだと思ったこと。
・誕生日プレゼントをあげたら、喜ばれた。
・家族全員で、外に食事に出かけたこと。
・勉強しろといわれた。
・手伝いをしてお小遣いをもらった。
・家族でスキーに行った。

『ビデオ(『アニメ「めぐみ」』25分)を視聴します。
両親の思いが感じられるところをメモしながら見ましょう』

《視聴》

◆ 発問 2~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

両親の思いが感じられたところをどうぞ。

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

・ずっと探し続けようとしているところ。
・お父さん、写真撮りすぎ。
・何年たってもめぐみさんのことを心配していて、親は子供のことをとても大切にしているという
ことが伝わった。
・最後まで、死んでいないと信じて、探し続けていること。
・すごい「愛」が感じられる
・マスコミを前に話をしているシーンが印象に残った。。
・自分の娘のことを信じているところ。

◆ 発問 3~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

めぐみさんが生まれた時、父のしげるさんが言った「人並みの幸せ」とは、どういうことでしょうか。

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

・特別「すごい幸せ」とかではなく、他人と同じくらいの幸せでいい、という意味。
・他の人よりも大きい幸せをもらわなくていいから、人と同じくらいの幸せをもらいなさい、という意味だと思います。
・家族一緒で生活すること。
・普通に暮らして、普通に生きること。
・事故も何もなく、幸せに生きる…みたいな。

資料を配布します。
【資料】(抜粋)

【資料1】1980年産経新聞
当初、行方不明として報道された
拉致1


【資料2】1997年産経新聞
横田めぐみさんの拉致の疑いを報道したスクープ
拉致2


【資料3】2002年10月15日
5人の拉致被害者が24年ぶりに帰国を果たし、家族と再会
2002年10月15日 5人の拉致被害者
拉致3



【資料4】拉致事件に対して、日本の政治家や外務省が発言してきたこと
彼らは何がしたいの?

土井 辻本
拉致4

■土井たか子(社民党元党首)
「北朝鮮に対する食料援助は、少女拉致疑惑などとは切り離して人道的見地から促進すべきだ」(97年)

■辻元清美(社民党衆院議員)
「かつて植民地にして、北朝鮮には補償を何もしていないのだから、『9人、10人返せ!』ばかり言ってもフェアじゃない」(01年)

拉致5


■鳩山由紀夫(元首相・民主党)
「拉致事件などの問題が解決しないと援助できないというのでは、北朝鮮の気持ちは和らげることができないのではないか」(97年)

■田中眞紀子(元外務大臣・当時自民党)
「拉致疑惑があるからけしからんという意見もあるが、50万トンと言わず、100万トンでも援助米は出した方が良い」(01年)
拉致6

■阿南惟茂(あなみこれしげ)(外務省・元中国大使)
「拉致疑惑には亡命者の証言以外に証拠がない。
韓国に捕まった工作員だから、彼らが何を言うかわからない」(97年)
拉致7


■槇田邦彦(外務省・元アジア局長)
「たった10人のことで、日朝国交正常化が止まっていいのか。
拉致にこだわり、国交正常化がうまくいかないのは国益に反する」(99年)
拉致8


【資料5】アメリカの政府関係者は…?
■ アメリカ元CIA東アジア部長アーサー・ブラウン氏
「拉致とは、国家主権を侵されたということで、これを解決しなければ、国家と国民の繋がりがなくなってしまいます。
国民を救出しない国は国とは言えません。
もしアメリカ人がメキシコかキューバに拉致されたなら、次の日には戦争になるでしょう。
軍事行動をできないなら、経済手段に訴える。
北朝鮮と取引する銀行とは日本は一切取引をしないと宣言する。
全ての銀行が日本を選ぶでしょう。
北朝鮮に経済的に大打撃を与えられる」(「WiLL」2008年12月号)

《資料おわり》

◆ 発問 4~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

【資料】を見て、思ったことや考えたことをどうぞ。
◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

●日本の政治家とアメリカの政治家の思考はぜんぜん違うことが分かった。
●30年以上離されるのはキツい。日本の政治家は「腰が低い」なぁ!!アメリカは言うことがすごいぜ!!
●日本の政治家とか意味が分からん。人が死んでいるかもわからんのに放置できるのがおかしい。
●罪のない人が拉致され、怖い思いをしているのに、何もしてあげられなかったことが、私は辛いです。
●日本の政治家は無責任だ。日本とアメリカとでは全然違う。同じ日本人なのにどうして助けないのか。アメリカを見習ってほしい。
●日本もアメリカのような対応をとるべきだと思います。
●日本よりアメリカの方が、国民思いだと思った。
●日本に助けようとしない政治家がいるなんて、驚いた。
●政治家の発言で「たった10人のことで」というのがあったけど、その考え方はおかしい。
●辻本清美さんのコメントを見て、サイテーだと思った。
●政治家は自分が拉致されても、そんなことを言えるのか!
●政治家は横田めぐみさんのことは何も思っていなくて、北朝鮮のことばかりを思っていてダメだなと思った。
●産経新聞、頑張って!と思った。


◆ 発問 5~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

今日、学んだことに照らして、
①あなたが家族からの愛情を感じるのは、どんな時ですか。

◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

●家族と話している時。
●自分のことを心配してくれている時や応援してくれた時。
●一緒にいることだと思います。それに、学校にも行けるし。それが愛情だと思います。
●おこられたりとか、ほめられている時とか。心配してくれる時が愛情を感じる。
●外に出かける時とかに、心配してくれるとき。
●よくわからないけど、いつも一緒にいて、私のことをいつも思っていてくれている。
●ご飯をつくってくれて、食べる時。
●カゼをひいた時、心配してくれる。
●焼き肉を食べに行った時、「いっぱい食べな!」って言われる時。
●ん~、よくわからん。日常を生きている事なのかなぁ。
●どんな時でも感じています。


◆ 発問 6~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

家族の一員として、今の自分はどうですか。これからどうしますか。
◆ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

●一日一日を家族と大切に過ごしたいと思った。
●なるべくおこられないように頑張るぞ。
●反抗期。これからは家族に優しくしていきたい。
●何かと素直になりたい。
●もっと家族と話をしたい。
●これからはもっと家族に気配りをする。
●もっといろいろなことを考えなきゃいけないなぁと思いました。
●家のことは何もしないので、自分のことは自分でした方がいいなぁっておもった。
●家族の大切さは、家族がいなくなってわかるのだと思う。家族に感謝!!
●今はあまり役に立っていないけど、これから家族の役に立てるように頑張っていきたい。あと、いつも一緒にいられること(時間)を大切にしたいと思う。
●わがままなところがあるから直さないとダメだと思った。大事なものがなくなってから気づくのでは遅いと思った。
●今の自分は家で自由人です。でもこれからは親の手伝いをして楽させてあげたいと思います。
●感謝の気持ちをもって家族と接したいと思います。
●たぶん大丈夫。自分は家族を必要としているし、家族も自分を必要としていると思うから。

《授業終わり》

飯島利一の道徳「空の武士道~ 航空自衛官の殉職 ~」

■この授業記録は要約です。
授業の詳細は、今週1月21日(水曜日)発行のメールマガジン「授業作りJAPANの日本人を育てる授業」をご購読ください。


https://my.melma.com/mytop/(右のリンクをクリックしてください)

どうぞよろしくお願いします。


[はじめに]

・遅ればせながら、みなさま、明けましておめでとうございます。
今年は大東亜戦争終結70周年です。
大正時代から始まり、GHQの占領の検閲によって確定し、198年代から再び悪意ある工作が広がった反日プロパガンダが今年はなおいっそう激しく燃えさかるでしょう。
しかし、私たち日本の教師は決して揺らぎません。
今年こそ日本再生のための教育元年としたいと考えております。
どうか変わらぬご支援をよろしくお願いします。

・さて、新年最初の授業は、飯島利一さんの「空の武士道」です。
わが国の教育は自衛隊をしっかり教えることを避けてきました。
いやそれどころかつい最近までは、マスコミも自衛隊を何か悪いものであるかのように取り上げるのが常でした。
みなさんはこの記事を覚えていらっしゃいますか?
今日の授業はこの事件を正しく生徒に教える授業です。

1.png
平成11年11月23日付『朝日新聞』一面トップの記事

・この授業を受けた生徒は次のような感想を書きました。

*私は狭山市に住んでいて入間川の河川敷で昔よく遊んだりしていました。
初めは迷惑だなと思っていましたが、いろいろな資料を読んでいるうちに、入間川の近くに祖父母が住んでいるので、もしかしたら死んでしまっていたかもしれないと思うと、停電程度で済んだことを感謝したい気持ちになりました。
家に帰ったら、事故のことを母や父に詳しく教えてもらいたいとおもいます。

*人のことをこんなにもよく思える人が死んでしまったのは、もったいないと思った。
この授業で生死について考えさせられた。
中川さんや門屋さんの死よりも大都市の停電を取り上げてしまうマスコミや、防衛庁長官が言った「誠に遺憾」という言葉は、こういう人の死の状況をよく知ってから言ってほしかった。
2人ともよい人です。
こんな人になれるように頑張りたい。

*やっぱり日本人には「武士道」があり、この事故はそれを体現するようなものなのだと思います。
現代人みんながこういう場面で、この2人みたいな行動が取れるなら、くだらない殺人や、いじめなども無くなるのだろうと思いました。こいうことに深く考えることも、とても重要なことだと思いました。

*最期まで自分の生き方を曲げなかった2人の自衛官に感動した。
自分のことを考えるだけではこんなことはできないとおもう。
自分のことより、自分のすべきこと・自分のできることを考えていたのだと思う。
2人の勇姿に、僕も合掌したい。

・まさに、偉大な自衛官と不道徳なマスコミ・不道徳な政治家が浮き彫りになる授業であり、我が国の現状の真実を伝える授業です。


[道徳] 空の武士道~航空自衛官の殉職 ~


1 ある新聞記事から

■授業は新聞記事を読むところから始まります。

・次の新聞記事は、ある事故に関するもので、平成11年11月23日付『朝日新聞』一面トップの記事です。みなさんは、これを読んで、どのような印象をもつでしょうか。

・まず新聞の見出しに注目してください。

「東京・埼玉の80万戸で停電がおこった。埼玉の狭山で空自機が墜落して高圧線を切断したからである。これにより交通・ATMも乱れた。空自機の2乗員は死亡した」

と、読みとることができます。見出しは、記事の概要を知るためには大変便利なものです。

 では、この記事の見出しが最も強調している点は、どこにあるでしょう。記事の並びや文字の大きさから、そのニュースが、どのように価値判断されているかが分かります。

 見出しの字が最も大きく、白抜きで目立つのは、

「東京・埼玉80万戸停電」

です。
つまり、この記事は、事故によって東京都や埼玉県で80万戸が停電になった事態を、最も大きく報道しているということです。
 たしかに記事の詳細にも、

「この停電のため、首都圏のJRや私鉄が一時止まり、約6万5千人に影響した。また、防衛庁長官が記者会見で陳謝し」、

今回の事故について

「乗員2人が死亡するとともに東京電力の高圧線を切断しました。このような事故が発生したことは誠に遺憾で、今なお一部の方々にご迷惑をかけています。心からお詫びします」

とあります。
 このように記事を読むと、停電の原因となった空自機(航空自衛隊機)に対して、新聞の読み手はどのようなことを感じるでしょう。生徒には次のように問いかけます。

『この記事から、墜落した空自機に対して、どんな印象をもちますか』

多くの生徒が、次のように答えました。

* 大事故を引き起こして、とても迷惑だ。
*危険。あぶない。自分たちの上に落ちたら怖い。

生徒は素直ですから、新聞のねらい・意図のとおりに反応していると言えるでしょう。

■新聞記事には明らかに伝えたい「ねらい」があることがわかります。
事故に対する怒り、事故を起こした自衛隊に対する怒りを持つことを読者に期待しているのです。




2 事故はどのようにして起こったか

 大停電を引きおこした航空自衛隊機の事故は、どのような状態で起こったのでしょうか。その実態を探るために、まず事故機と管制塔の交信記録、また当日の目撃者証言から再現してみましょう。

 平成11年11月22日、13時2分。
 航空自衛隊パイロット、中川尋史二等空佐と門屋義廣三等空佐は、飛行訓練のため、T33練習機に搭乗し、航空自衛隊入間基地を飛び立ちました。2人とも、航空学生*出身で飛行時間5000時間を超えるベテランのパイロットでした。

*航空学生は、将来自衛隊のパイロット等を養成するコースで、第12飛行教育団で約2年間、基礎教育・飛行訓練を受ける。入隊時からパイロットをめざしているので、技量の優れたパイロットが多いと言われる

 この訓練は、「年間飛行」といって現場を離れたパイロットの技量維持が目的でした。
そのため、内勤になった中川二佐が、前部のコックピットに乗って機長として操縦桿を握り、現役パイロットの門屋三佐が教官として後部席に乗りました。約40分の飛行予定は、高度な技量を要する訓練とは程遠いものでした。

 13時38分、入間基地の管制塔に、2人の乗ったT33から無線連絡が入りました。

「マイナートラブル発生」

 そのとき、T33は入間基地まで北東39キロ、高度760メートルの位置を時速450キロで飛行中でした。

「マイナートラブル」。つまり、このとき、中川機長は軽いトラブルと認識していました。機体に異常な振動があり、オイルの臭いがすると伝えています。

 13時39分、さらに無線が入ります。

「コックピット・スモーク」

 操縦室に煙が充満したので、直線距離の最短コース(ストレートイン)でもどるとの連絡です。このとき、基地から約18キロの地点でした。

「大丈夫だろう。降りられる」

 中川機長は落ち着いた声でそう言うと、基地への帰路を確認しました。

 ところが、13時40分。

「エマージェンシー!(緊急事態)」

 T33が「緊急事態」を告げます。
管制塔は、瞬時に緊張に包まれました。
 エンジントラブルは思ったよりもひどく、機体はどんどん降下していきます。
当日、複数の地域住民が目撃したところによれば、「プスンプスンと変な音を立てながら、機体が急降下していった。エンジン音はしなかった」(現場から数百メートル北に住む男性)「飛んでいるときのエンジン音はしなかった」(近くに住む主婦)と、エンジンはすでに止まっていたと考えられます。

 2人はエンジン停止という状況下で、あらゆる手を尽くしますが、急激に高度が低下し、もはや基地への帰還は困難と判断したようです。

 13時42分14秒。
「ベールアウト!(緊急脱出)」

 中川機長から、緊急脱出が宣言されます。
 高度は360メートル、基地まであと4キロの距離でした。
 脱出するには、ある程度の高さが必要で、この機の場合、300メートルなければパラシュートが十分に開かないのです。

 しかし、その13秒後の13時42分27秒。

「ベールアウト!」。

 管制塔がふたたび同じ言葉を受信。
中川機長たちは、まだ脱出していなかったのです。
高度は300メートル、安全に脱出できるギリギリの高さでした。
しかし、この受信を最後に、中川機長からの無線連絡は途絶えます。

 そして9秒後の13時42分36秒。
 2人の乗ったT33は、地上約60メートルの高圧送電線に接触、入間川の河川敷に墜落しました。これにより、東京・埼玉で80万世帯に停電が起こったのです。

 T33が送電線と接触する直前、近所の目撃者が乗員1人の脱出を見ていました。
高度約70メートル。
後席の門屋三佐でした。
門屋三佐はパラシュートが完全に開かないまま墜落し、地面に叩きつけられ、亡くなりました。中川機長の脱出は、高圧線と接触したその瞬間だったようです。
垂れ下がった送電線のほとんど真下に中川機長は放り出され亡くなっていました。

■さて、授業はこのあと、



3  事故の真相を探る 2回のベールアウトの謎

で、少しずつ真実が明らかになります。

[資料]は、「中川機長と管制塔との交信記録」と、授業者がGoogleEarthを使って作成した写真資料が使われます。

4.png

生徒が自ら真実を発見し、驚き、感動に至る授業記録はほんとうにすばらしいものです。


4 2人はどのようなパイロットだったのか

■雑誌記事や証言などの資料によって、中川機長と門屋三佐の人柄や生き方が明らかになります。
7.png


5 事故から学ぶ大切なこと

■最後に、現場近くに住む主婦の証言(新聞投書欄)や葬送式における家族の言葉などから、この事故の全体像がさらに明確にされ、生徒は「生き方」とあわせて、メディアリテラシー(マスメディアの読み方)も学び取ります。


■この授業記録は要約です。
授業の詳細は、今週1月21日(水曜日)発行のメールマガジン「授業作りJAPANの日本人を育てる授業」をご購読ください。

https://my.melma.com/mytop/(右のリンクをクリックしてください)

どうぞよろしくお願いします。



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服部剛の道徳5 「人種差別について考える」

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★この授業は、文科省『中学校学習指導要領』道徳の内容4「主として集団や
社会とのかかわりに関すること」の(3)「正義を重んじ,だれに対しても公
正,公平にし,差別や偏見のない社会の実現に努めるを指導するためにつくら
れた授業です。
日本人とアメリカ黒人との意外なつながりを通して、人種差別を憎む心を育み
ましょう。

★服部剛さんがブログを始めました。すぐに使えて役に立つ歴史・公民・道徳の
授業がこれからどしどし公開されていきます。どうかご活用をお願いしますす。
題して『授業づくりJAPAN横浜《中学》 「日本人を育てる歴史と道徳」』です。
http://jdjapany.blog.fc2.com/


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【ワークシート】

  道徳ノートNo. 「人種の平等について考える」
組  番 氏名(             )



1.アメリカの黒人たちは、日本人のことをどのように見てきたと思います
  か?

                    ア、好意的
具体的には?(想像で)     イ、嫌い
                    ウ、無関心


2.今からおよそ100年前の1904年、日本とロシアの間に戦争が始まりました。
  アメリカの黒人たちは日露戦争が始まったことを知って、どう考えたでし
 ょうか?

  ア、日本を応援した
  イ、ロシアを応援した
  ウ、無関心


→【資料1,2】で確認しよう



3.1920年代のアメリカで、日本人移民はとても差別されました。黒人たちは
 どうしたと思いますか?


→【資料3】で確認しよう 


4.1941年、自分の国アメリカが日本と戦争になりました。アメリカの黒人たち
 は、どう考えたでしょうか?


  ア、日本を応援した
  イ、アメリカを応援した
  ウ、無関心


→【資料4,5】で確認しよう



5.あなたは今、黒人の人たちに対して、どのような気持ち・感情を持っていま
 すか?

  また、あなたは真の国際友好を築くためにどのように行動したら良いと思い
 ますか?





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 【道徳資料】「人種の平等~アメリカ黒人社会の日本観」   

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【資料1】「アメリカ黒人」のはじまり

 アメリカ大陸がヨーロッパ人によって「新大陸」として開拓(かいたく)され
た時、労働者として送り込まれたのが西アフリカの黒人たちでした。北米の多
くの地方では「黒人は生きているかぎり働かなければならず、その子供たちも
同様である」とする法律が作られました。
 アメリカのフロンティアは、アメリカ先住民(いわゆるインディアン)の弾圧
とアフリカ黒人の酷使(こくし)によって成り立っています。白人植民者は先住
民から土地を取り上げ、黒人を労働力として投入したのです。
「自由と平等」を掲げて建国したアメリカには、人間を他の人間の所有物に
するという明らかな矛盾(むじゆん)が存在していました。しかも、それが矛盾
であるということにすら気がつかない人々が数多くいたのです。
 黒人たちは、この差別を取り除くために闘い続けました。彼らは脱走を試み、
南北戦争にも参加しました。また、白人からのリンチと戦い、一方で自分自身
を磨き、どん底の生活から一歩一歩はい上がる努力を続けていったのです。


【資料2】明治の日本人

《黒人紙インディアナポリス・フリーマン》

 東洋のリングで、茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめし続けている。事実、
ロシアは繰り返し何度も、日本人にこっぴどくやられて、セコンドは今にもタオ
ルを投げ入れようとしている。有色人種がこの試合をものにするのは、もう時間
の問題だ。長く続いた白人優位の神話が、ついに今突き崩されようとしている。


《ニューヨーク・エイジ紙)》

 さあ、行け。小さな茶色い男たち。攻めて攻めて攻めまくれ。鋭い剣をさやに納
めず、天罰を与えつづけるのだ。お前たちは、天地をひっくり返した。ロシアをや
ったんだ。プライドと力におぼれる、ほかの連中に同じ道をたどらせるのも、お前
たちなのだ。

 日露戦争の時、アメリカ黒人紙に載った記事です。黒人はこの戦争を、白人の大
国に有色人種の小国が独立をかけて果敢(かかん)な戦いを挑んでいる、と見ていま
した。多くの黒人は日露戦争を人種間の戦争としてとらえ、白人による支配から有
色人種を解放してくれる国として、日本に期待しました。

 日本が白人の大国ロシアに勝利したことは、「有色人種は白人に勝つことができ
ない」という考えを崩壊させました。これ以来、黒人は「日本人は自分たちと同じ
有色人種だ」という仲間意識を、強く抱くようになったのです。
 当時、日本を訪れた黒人たちは
「まるで兄弟のように親密な歓迎(かんげい)を受けた」
「日本人には人種偏見(へんけん)は全くないという確信を持った」
「日本人ほど親切な民族に会ったことはない」
とその喜びを表しています。

 東京で開かれた環(かん)太平洋新教育会議に参加した黒人女性のマクギーさんは、
黒人の境遇(きようぐう)やアメリカの現状を話しました。最後に「あらゆる人種は
お互いに協調し、平等に扱われるべきだ!」と訴えました。

 のちにマクギーさんは「聞いていた日本人の目には、涙があふれていた」と日本
人の姿に感動し、次のように感想を述べています。
「わたしは、何か新しい人々に出会ったような気分になった。それまでまったく意
識したことのなかった人々に…、信心深く、穏(おだ)やかで、情けに満ちたこの人
々は、たいていの人がお世辞でしか言わないことを、心の底から言ってくれるのだ」。

 謙虚(けんきよ)で、おごりのない日本人。このような姿が、戦前の日本にはあっ
たのです。


【資料3】黒人の日本人に対する連帯意識

1920年代、アメリカでは日本人移民に対する差別がひどくなりました。そんな中、
日系人に温かく接したのは黒人たちでした。

《フィラデルフィア・トリビューン紙》
黒人たちは日本人を心から尊敬している。
 同じ『抑圧(よくあつ)された民族』であるのにもかかわらず、自分たちのために
一所懸命努力する日本人の態度は見習うべきものである。

《カリフォルニア・イーグルス紙》
ほとんどの病院が黒人に固く戸を閉ざしている昨今(さつこん)、日系人の病院が
どの人種にも門戸(もんこ)を開放していることは、本当に喜ばしい限りである。
「黒人を差別しない日本人」というイメージは、またたく間に西海岸に広まってい
きました。
 1923年、関東大震災の深刻な被害を知ったある黒人は、シカゴ・ディフェンダー
紙に「アメリカの有色人種、つまりわれわれ黒人こそが、同じ有色人種の日本人を
救えるのではないか」と投書し、それを受けて同紙はすぐに日本人救済キャンペー
ンを始めます。

<たしかに我々は貧しい。しかし、今、お金を出さなくていつ出すというのか>

 同紙の熱心な呼びかけは、多くの黒人の間に浸透(しんとう)していきました。
 ハーバード大学で学び、米国黒人として最初の博士号(はかせごう)をとった黒人
解放運動の指導者・デュボイスは1936年、中国大陸の満州(まんしゅう)に1週間、
中国に10日間、日本に2週間滞在(たいざい)しました。そして、ピッツバーグ・
クリア紙に「忘れがたい経験」と題したコラムを連載(れんさい)します。

デュボイスが東京の帝国ホテルで、支払いをしている時に、「いかにも典型的な
アメリカ白人女性」が、さも当然であるかのように、彼の前に割り込んできました。
 しかし、日本人のフロント係は、女性の方を見向きもせずに、デュボイスへの対
応を続けました。勘定(かんじょう)がすべて終わると、彼はデュボイスに向かって
深々とお辞儀(じぎ)をし、それからやっと、その厚かましいアメリカ女性の方を向
いたのでした。

 「フロント係の毅然(きぜん)とした態度は、これまでの白人支配の世界とは違った、
新しい世界の幕開けを予感させた。
『母国アメリカではけっして歓迎されることのない』一個人(いちこじん)を、日本人
は心から歓(よろこ)び、迎え入れてくれた。日本人は、われわれと同じ苦しみを味わい、
同じ運命を背負っていることを、心から理解してくれているのだ」。

 さらに、上海(シャンハイ )での出来事です。デュボイスの目の前で4歳くらいの
白人の子どもが、中国人の大人3人に向かって、どくように言うと、大人たちはみな、
あわてて道をあけました。

 「これはまさにアメリカ南部の光景と同じではないか! 上海、この世界一大きな
国の世界一立派な都市は、なぜか白人の国によって支配され、統治(とうち)されてい
る。それに対して、日本は『有色人種による、有色人種の、有色人種のための国』で
ある」。

WEB・デュボイス
黒人解放運動の指導者  WEB・デュボイス



【資料4】日本人と戦う理由は…

 1941年、日本とアメリカで戦争が始まると、黒人社会の世論(よろん)は割れました。

 「人種問題はひとまず置いて、母国のために戦おう」という意見。
 「アメリカの勝利に貢献(こうけん)して、公民権(こうみんけん)を勝ち取ろう」。
 さらには、
 「黒人を差別するアメリカのために戦うなんて、バカげている」という意見まで…。
 
 黒人指導者デュボイスは、日米の戦いを人種戦争という観点でとらえ、
「アメリカが日本人の権利を認めてさえいれば、戦争は起こらなかったはずだ」と主張
しました。

 戦争が進むにつれて、黒人たちの多くは、白人が日本人を「イエロー・モンキー(黄
色い猿)」「リトル・イエロー・デビル(小さな黄色い悪魔)」などの蔑称(べつしよう)
をさかんに使うことに、ますます人種戦争との確信を深めていきました。

 アメリカ政府は、日本兵の残虐(ざんぎゃく)行為を紹介し、「野蛮(やばん)な日本人」
というイメージを広めようと宣伝に努めました。

 しかし、黒人紙ピッツバーグ・クリアは、

「ビスマーク沖での海戦で、アメリカ軍は多数の日本の艦船(かんせん)を沈めた後、
波間に漂っていた多くの日本兵をマシンガンで皆殺しにした」

「本土爆撃では、わざわざ人の多く住んでいる場所を選んで、大人から赤ん坊まで無差別
に殺した」

「広島と長崎に原爆が落とされた時、何万という人間が一瞬にして殺された。これを残忍
(ざんにん)と言わずして何を残忍と言おう!」
と主張しました。

 軍隊の中でも差別されていた黒人兵たちにとって、白人のために、同じ有色人種である
日本人と戦わなければならない理由は見いだせなかったのです。ある黒人部隊を指揮して
いる白人隊長は、「隊の95%は戦う気力がまったくない」と報告しています。

 黒人兵の間では、こんなジョークが語られました。「墓石(はかいし)にはこう刻んでくれ。
『白人を守ろうと、黄色人種と戦って命を落とした黒人、ここに眠る』と」。




【資料5】日本人移民の強制収容!

 戦争が始まった時、アメリカの日本人移民は、市民権(国籍)を持っている人まで、強制収
容所に入れられました。苦労して築き上げた財産も、アメリカ政府に没収されてしまったの
です。
 このことに黒人たちは大きな衝撃(しょうげき)を受けました。なぜなら、アメリカの敵国
の中で日本人だけが収容され、同じく敵国のドイツ系もイタリア系も収容されなかったのは、
あきらかに人種差別のせいではないか、と感じたからです。そして「市民権を持っている日
本人さえもが強制収容されるなら、黒人にも同じ事が起こる可能性がある!」と不安になっ
たのです。

 「11万5千人もの人々(日本人移民)が、アメリカ人としての自由を奪われるのを、われ
われ黒人は黙(だま)って見過ごすというのか」

とロサンゼルス・トリビューン紙の記者が全米黒人向上協会に呼びかけました。

 協会は、「われわれは人種や肌の色によって差別され、アメリカ人としての当然の権利を
侵害(しんがい)されることには断固として反対していかねばならない」と決議文を出してい
ます。

 1945年、日本は敗れ、大戦が終わりました。やっと日本人移民は強制収容所から解放されて、
町に戻ってきました。この日本人たちを歓迎(かんげい)し、温かく迎えたのは黒人社会でした。
彼らは、何もかも失った日本人のために仕事を探したり、教会に招いたりしてくれたのです。


【参考】レジナルド・カーニー『20世紀の日本人 アメリカ黒人の日本人観』
    国際派日本人養成講座『Japan On the Globe「人種の平等~米国黒人社会の日本観」』

合掌の碑

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服部剛の道徳4 「戦場の知事・島田叡」

★「文科省学習指導要領」中学道徳「内容4 主として集団や社会とのかか
わりに関すること」の「(4)自己が属する様々な集団の意義についての理解
を深め,役割と責任を自覚し集団生活の向上に努める」について学ぶ授業です。

この授業はブログ「授業づくりJAPAN横浜《中学》『日本人を育てる歴史と道徳』
(服部剛代表)にご本人が書いています。授業の記録も挿入しながら、たいへん
わかりやすく書かれています。ぜひこちらもご覧ください。URLは以下の通りです。
http://jdjapany.blog.fc2.com/

■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■


 道徳ノート No.     組  番 氏名(             )

        「役割と責任」

■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■


1.みんな毎日、忙しく学校生活を送っていますが、気がのらない仕事もあり
ますか? 
「自分がなりたくてなった係じゃない」とか「何で自分がやらなくちゃいけ
ないの」とか…。
  また「こんなこと、自分にはできそうもないよ」という仕事を任されること
もあるでしょう。

 ●こんな時、あなたはどうしていますか?

 
 ──────────────────────────────────

 ●その理由は?


 ──────────────────────────────────


→【資料1】へ




2.【資料1】で、あなたが島田叡(あきら)だったら、何と答えますか?


 ──────────────────────────────────


→【資料2】で確認しよう




3.【資料2】を読んで、島田知事の持ち物から、何がわかりますか?


 ──────────────────────────────────



→【資料3】【資料4】へ




4.【資料3】と【資料4】を読んで、島田知事の行動をどう思いましたか?


 ──────────────────────────────────


→【資料5】へ




5.島田知事が、人に請(こ)われると好んで書いた字があります。
  漢字一字で書いてみましょう。

  
  ────


  ●この字はどういう意味でしょうか?
 島田知事の行動に照らして、考えてみましょう。


 ──────────────────────────────────




6.今日の勉強を通して、学んだことや感想を書きましょう(足りなければ裏へ
 どうぞ)。


──────────────────────────────────

────────────────────────────────── 

────────────────────────────────── 

──────────────────────────────────

────────────────────────────────── 



■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■


    【道徳資料】「戦場の県知事・島田叡(あきら)」


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沖縄戦地図

合掌の碑

◆大東亜戦争での沖縄戦では、多くの人が犠牲になりました。
県の各地には写真のような大きな慰霊碑が数多く建てられています。



【資料1】────────────────────────────── 
 大東亜(だいとうあ)戦争(太平洋戦争)の末期、日本は戦況が悪化し、沖縄県
も空襲をうけるようになりました。

 沖縄県知事の泉(いずみ)守紀(もりのり)氏は空襲を恐れ、あちこちに県庁を
移転させたので行政が滞っていました。また、住民の疎開や食料の搬入を進め
る政府や軍にも非協力的でした。とうとう泉知事は出張と称して本土に出かけ、
そのまま沖縄に帰ってこなかったのです。

内務省では、後任の知事を誰にするか困ってしまいました。
 なぜなら、まもなくアメリカ軍の沖縄上陸が確実だったので、引き受ける人
物がいなかったからです。

そこに、沖縄守備軍の司令官・牛島満(みつる)中将から「ぜひ島田叡(あきら)
君を」との指名がありました。

島田叡とはこんな人です
080316_01.jpg


島田叡は兵庫県神戸市出身。内務省のエリート官僚です。中学から東京大学ま
で野球選手として活躍し、勉強とスポーツを両立させた秀才でした。当時43歳の
島田は、大阪府に務めていました。島田は以前から牛島中将と親交があり、深く
信頼されていたのです。

昭和20(1945)年1月11日、府知事から呼び出された島田は、「沖縄県知事になっ
てほしい」と要請されました。


┌────────────────────┐
│あなたが島田叡だったら、何と答えますか?  │
└────────────────────┘


→ 道徳ノートの2へ



【資料2】─────────────────────────────── 

 島田は即答しました。

「私が行きます」。

府知事は「君、家族もあるのだから、三日ほどよく考え、相談した上で返事して
も良いんだぞ。断っても良いんだぞ」と言いました。しかし、島田は

「いや、これは、妻子に相談することじゃありません。私が決めることです」

と答えたといいます。
自宅に帰って、妻に「朝から何か良いお話でしたの?」と聞かれた島田は

「沖縄県知事の内命やった。もちろん引き受けて来たわ」

と落ち着き払って答えました。
驚いた妻の「なぜ、あなたが!?」との問いに、島田はこう言いました。

「誰かが、どうしても行かなならんとなれば、言われた俺(おれ)が断るわけには
いかんやないか。俺が断ったら誰かが行かなならん。俺は行くのは嫌やから、誰か
行けとは言えん」

 「これが若い者なら、赤紙(召集令状)一枚で否応(いやおう)なしにどこへでも行
かなならんのや。俺が断れるからというので断ったら、俺は卑怯者(ひきようもの)
として外も歩けんようになる」

のちに島田はこうも言っています。

「牛島さんから赴任(ふにん)を望まれた。男として名指しされて断ることはでき
へんやないか」

こうして、1945年1月31日、島田叡(あきら)は沖縄県知事として単身、赴任(ふに
ん)しました。
島田の荷物はトランク2つだけ。中には衣服と茶道具、愛読書数冊、薬。そして、
ピストル2丁。胸ポケットには青酸カリが入っていました。


→ 道徳ノートの3へ



【資料3】─────────────────────────────────
 
 過酷な運命を覚悟した上での赴任(ふにん)でした。県庁の職員を前にした島田知事
の挨拶(あいさつ)は次のようなものでした。

「本当の奮闘はこれからだ。一緒になって共に勝利への道に突進しよう。無理な注文
かもしれないが、まず元気にやれ。明朗にやろうじゃないか。私が万一、元気を無くし
たら強くしかってもらいたい。これからは知事も部長も課長も思い切ったことを言い、
創意と工夫を重ねて良心を持ってやろう。そして力一杯、早くやることだ」

 これを聞いた職員の多くは「この長官は自分たちを捨てていかない。この人になら最
期(さいご)までついていける」と思いました。

 ある人から「泉(いずみ)知事は逃げてけしからん。知事さんも大変ですね」と言われ
た島田知事は、

「人間、誰でも命は惜しいですから仕方がないですね。私だって死ぬのは恐いですよ。
しかし、それより卑怯者といわれるのは、もっと恐い。私が来なければ、誰かが来ない
といけなかった。人間とは運というものがあってね」

 と、前の知事の悪口は一言も言わなかったといいます。
 島田知事は軍との協力に努め、遅れていた県民の疎開を推進しました。その結果、
約16万人の県民の命が救われることになります。
 また、食料・医薬品等を確保し、台湾から約3600トンもの米を運びこみました。
やがて県民は知事に深い信頼の念を抱くようになっていきます。
 また、たびたび農村を視察した島田知事は、勝利を信じてひたすら軍に協力する
住民が不憫(ふびん)でなりませんでした。

 「アメリカ軍が上陸すれば、どうなるのか…。少しでも楽しい思いをさせてやり
たい」

 島田知事は酒の増配を実施し、禁じられていた村の芝居(しばい)も復活させて県
民を楽しませました。
 この知事のためなら死んでもかまわないと思った県民も多かったといいます。




【資料4】────────────────────────────────
 
 3月に入り空襲が始まると、県庁を首里に移転し、地下壕(ごう)の中で仕事をするよう
になります。
 壕内はかなり暑く、天井は鍾乳石(しようにゆうせき)がむき出しで、頭がぶつかりそう
な低さでした。
 職員全員が家族を疎開させ、想いを断ち切って、県民のために尽くそうとしました。

 この頃には島田知事の姿勢が職員にも浸透していたのです。
 ある日、女子職員が島田知事に顔を洗うように勧めると

「お前が命懸けで汲んできた水で顔が洗えるかい」

と言い、他の職員と同じように米の研ぎ汁を浸した手拭いで顔を拭っていました。

アメリカ軍が上陸し、「ありったけの地獄を一つにまとめたような戦い」といわれた激戦
が続きました。多くの命が失われ、軍・民ともに沖縄本島南部に追い詰められていきました。
行政は無力になり、県庁も崩壊しました。

「知事さんは県民のためにもう十分働かれました。文官なんですから、最後は手を上げて、
出られてもよいのではありませんか」

と提案された島田知事はこう言いました。

「君、一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね? 沖縄の人がどれだけ死んでいる
か、君も知っているだろ」とその責任感はまったく衰えませんでした。そして、

「それにしても、僕ぐらい県民の力になれなかった県知事は、後にも先にもいないだろうなあ。
これは、きっと末代(まつだい)までの語り草になると思うよ」

と県民を守り通せなかったことで自分を責めていたといいます。

いよいよ最期の時が近づきました。島田知事は、女子職員に「僕たちはこれから軍の壕に行く。
君たちには(米軍は)どうもしないから、最後は手を上げて出るんだぞ」と言いきかせました。

それを聞いた女子職員は、
「悔しくて、悔しくてたまりませんでした」と語っています。

その後、激戦のなか、軍の壕を目指して出て行った島田知事は永遠に消えてしまいました。
その遺体は今もって不明のままです。


→ 道徳ノートの4へ



【資料5】────────────────────────────────────── 

昭和47年、島田知事の最期(さいご)を目撃した人が名乗り出ました。
当時、分隊長だった山本初雄さんによると、摩文仁(まぶに)の海近くの壕で

 「島田知事は頭を奥にし、体の左側を下にしておられた。『負傷しているんですか』ときくと、
『足をやられました』と言われた。知事さんが『兵隊さん、そこに黒砂糖がありますからお持ちな
さい』と言った。何も食べ物がない時ですよ。偉いと思います。・・・翌日、壕を訪ねると亡くな
ったという。壕に入ると膝(ひざ)のそばに拳銃があった。右手から落ちたような感じで『ああ自決
したんだなあ』と思った。合掌して壕を出ました」。

 終戦から6年後の昭和26(1951)年、県民からの寄付によって、島田知事と亡くなった県職員453名
の慰霊碑が、摩文仁(まぶに)の丘に建てられました。その名も「島守(しまもり)の塔」。
 島田知事が在任したのは、たった5ヶ月足らずです。しかもそれは地獄の日々でした。
 しかし、「島守の塔」は今でも参拝する人びとでお線香の煙が絶えることはありません。
 戦場での県民保護に全力を挙げ、43歳で摩文仁(まぶに)の丘に散った島田知事。毎年6月22日には
慰霊祭が行われています。

→ 道徳ノートの5


★上の写真が「島守の塔」。
 島田知事は誰言うともなく「沖縄の島守」と呼ばれるようになりました。
 沖縄の土となって、今でも島を守ってくれている、と 沖縄県民は信じているのです。

■参考図書 ~興味を持ったら読んでみよう。
・田村洋三『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり』
・浦崎純『沖縄の決戦』



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     【道徳ノート解説】「役割と責任」

■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■
 
1.みんな毎日、忙しく学校生活を送っていますが、気がのらない仕事もあり
ますか?
 「自分がなりたくてなった係じゃない」とか「何で自分がやらなくちゃいけ
ないの」とか…。
  また「こんなこと、自分にはできそうもないよ」という仕事を任されること
もあるでしょう。

 ●こんな時、あなたはどうしていますか?

 
 ──────────────────────────────────

 ●その理由は?


 ──────────────────────────────────


→【資料1】へ




2.【資料1】で、あなたが島田叡(あきら)だったら、何と答えますか?


 ──────────────────────────────────


→【資料2】で確認しよう




3.【資料2】を読んで、島田知事の持ち物から、何がわかりますか?

   決死の覚悟
 ──────────────────────────────────



→【資料3】【資料4】へ




4.【資料3】と【資料4】を読んで、島田知事の行動をどう思いましたか?


 ──────────────────────────────────


→【資料5】へ




5.島田知事が、人に請(こ)われると好んで書いた字があります。
  漢字一字で書いてみましょう。

    断
  ────


  ●この字はどういう意味でしょうか?
 島田知事の行動に照らして、考えてみましょう。

  決断   断固行う   迷いを断つ  など
 ──────────────────────────────────




6.今日の勉強を通して、学んだことや感想を書きましょう(足りなければ裏へ
 どうぞ)。


──────────────────────────────────

────────────────────────────────── 

────────────────────────────────── 

──────────────────────────────────

────────────────────────────────── 




■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■


【授業の解説】
「沖縄の島守(しまもり)」戦場の県知事・島田叡(しまだあきら)


■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■━■
 

・指導項目:役割と責任 

・ありったけの地獄を一つにまとめたような戦いといわれる沖縄戦において、
島田叡は、県知事として何を考え、どのような行動をとったのか?

・わずか5ヶ月足らずの島田叡の行動が、「沖縄の島守」として、現在に至るま
で多くの県民に慕われ続けているのはなぜなのか?

《エピソード(補)》

■佐賀県警察部長時代(30代半ば)。

西郷隆盛の勉強会にて、西郷が桐野利秋の質問「偉い人とはどんな人ですか」
に答えた言葉を生涯の修養の目標にした。

 西郷「偉い人とは、大臣であるとか大将であるとかの地位ではない。
    財産の有無ではない。一言につくせば、後ろから拝まれる人だ。
    死後、慕われる人だ」
  ↓
これを聞いた島田は、先生に…

 島田「今夜は本当に痛棒を喫しました。中学時代から野球選手としてチヤホヤ
    されていい気になり、大学卒業後は官吏となって部下から頭を下げられ
    てうぬぼれていました。泡のような人気、煙のような権力の地位、今後
    こうした臭みを一掃して、真の自己完成に精進します」

  ↓

 島田は死して「島守の神」となり、本当に「後ろから拝まれる人。死後、慕われ
る人」になったのです。

■座右の書は『南洲翁遺訓』と『葉隠』 →沖縄赴任の際に持参した本。

■沖縄を守るために最期まで壮絶な戦いを指揮し、沖縄の土となった牛島中将も西郷
 に私淑していた。

 →上海総領事館警察部長時代の島田と知り合い、肝胆相照らす仲だった。

→今、沖縄県知事をやれるのは「島田君しかいない」との確信を持って、知事に要請
  した。

■島田がいつも部下に語った言葉

  「人間、アホになれたら一人前や」
  「アホの勉強、忘れなよ」

         →アホだから常に勉強だということでしょう。

合掌の碑

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