授業づくりJAPANの「日本人を育てる授業」

わたしたちは誇りある日本人を育てたい。真の国際派日本人を育てたい。

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服部剛の道徳 1 「焼き場の少年・幼いマリコに」

◆しばらくの間、服部剛(横浜市・中学)さんの道徳を紹介していきます。徳目3-3( 人間の気高さ・克服する強さ)です。
学習用のワークシートと学習資料のセットですので、明日の授業で使うことができるでしょう。もし追試されたら、結果をご報告いただければ幸いです。みんなでよりよいものを目指していきたいと願っています。

【ワークシート】 「アメリカ人が見た日本人」 
   組   番  (              )
 
●この写真は、1945年の占領下、長崎県で撮られたものです。ジョー・オダネルというアメリカ軍のカメラマンが撮影しました。
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(『トランクの中の日本 ― 米従軍カメラマンの非公式記録』より)

1.次の点に注目して、写真から気がついたこと をメモしよう。
①少年の顔つき  
②少年の服装
③少年の姿勢
④おんぶされている幼児

■気がついたこと





■少年は、どんな気持ちで立っているのだと思いますか? │






☆ここで【資料1】を読みましょう。

2.【資料1】を読んで、思ったことや考えたことを書きましょう。





3.敗戦と飢餓(きが)の中で、日本人はアメリカ人にどんな態度をとったでしょうか。想像で書いてください。





☆ここで【資料2】を読みましょう。

4.【資料3】を読んで、今の日本の状態や自分自身に照らしてどう思いましたか。






******************************************

道徳資料「アメリカ人が見た日本人」

【資料1】ジョー・オダネルが見た直立不動(ちょくりつふどう)の少年 

この写真は、終戦直後の長崎で撮られたものです。原爆が投下された直後のことでした。撮影したのは、ジョー・オダネルというアメリカの従軍カメラマンです。オダネル氏は、19歳の時にアメリカ海軍軍人として大東亜戦争(だいとうあせんそう)(太平洋戦争)に参戦しました。
 日本軍による真珠湾(しんじゅわん)攻撃を知って、敵国日本に敵愾心(てきがいしん)を燃やしていた青年ジョー・オダネルは、日本の敗戦とアメリカの勝利を太平洋の海上で聞きました。
 「ざまあみろ! ジャップめ!」 (※ジャップ:日本人への侮蔑(ぶべつ)語)
 「ようやくこれでアメリカに帰ることができるぞ!」
 そう思っていた矢先、彼は敗戦直後の日本の調査を命じられました。敗戦後の日本で彼らアメリカ人一行が見たものは、自分たちが想像していたような日本人たちではありませんでした。

 少年の足元に「ひも」のようなものが見えます。その前では原爆によって殺された人々の死体が焼かれていました。この少年は死体を焼く「焼き場」の前に立っているのでした。
 この時の様子をオダネル氏は次のように言っています。


佐世保(させぼ)から長崎に入ったわたしは、小高い丘の上から下を眺(なが)めていました。すると白いマスクをかけた男たちが目につきました。男たちは五十センチほどの深さに掘った大きな穴のそばで作業をしていました。荷車(にぐるま)に山積みにした死体を石炭の燃える穴の中に次々と投げ入れていたのです。
 十歳くらいの少年が歩いてくるのが目にとまりました。おんぶひもをたすきに掛(か)けて、幼子(おさなご)を背中にしょっています。弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。
 しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやって来たという強い意志が感じられました。しかも足ははだしです。
 少年は焼き場のふちまで来ると、硬(かた)い表情で目を凝(こ)らして立ち尽(つ)くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
 少年は焼き場のふちに、五分か十分も立っていたでしょうか。白いマスクの男たちが静かに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解(と)き始めました。この時わたしは、背中の幼子(おさなご)が既(すで)に死んでいることに初めて気づいたのです。男たちは幼子(おさなご)の手と足を持つとゆっくりほうむろうとするように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
 まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動(ちょくりつふどう)の少年のまだあどけないほおを赤く照らしました。
 その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇(くちびる)に血がにじんでいるのに気がついたのは。少年があまりきつくかみしめているため、唇の血は流れることもなく、ただその下唇(したくちびる)に赤くにじんでいました。
 夕日のような炎が静まると、少年はくるりと焼き場に背を向けて、沈黙のまま去っていきました。
                                                        (「目撃者の眼」より)



☆この写真は、戦争で弟を失い、その弟をたった一人で焼き場に火葬しに来た少年の写真だったのです。両親はどうしたのでしょうか。やはり、死んでしまったのでしょうか。少年に身よりはあるのでしょうか…。



【資料2】「焼き場に立つ少年」

私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。
 あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか。この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。
 アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動(ちょくりつふどう)の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術(すべ)もなく、立ちつくしていた。
                                                     (『トランクの中の日本』より)



「その後のオダネル氏」

わたしは言葉さえかけることのできなかったこの少年が気になって仕方がありませんでした。自分で慌(あわ)てて着たようなしわしわの服、はだしの足、おんぶひももよじれてかかっていました。もしかしたら家族をみんななくしてしまったのかもしれない。服を着せてくれるお母さんはもういないのか、家はあるのだろうか、考えれば考えるほど気になります。
 そこでわたしは日本の新聞にこの写真を載(の)せてもらいました。「どなたかこの少年を知りませんか?」という問いかけを添(そ)えて知り合いに頼んで何度も載(の)せてもらいました。でも、なんにも反応はありませんでした。わたしにこれほどの衝撃(しょうげき)を与えたこの少年は、たった一枚の写真を残していなくなってしまったのです。
 長崎に三か月滞在(たいざい)し、それから広島に行きました。そこでも悲惨(ひさん)な写真をたくさん撮りました。わたしは戦争の写真を撮りながら、自分にこう言い聞かせてきました。これは将来のために撮るのだと。わたしの見たものをみんなに見せるために撮るのだと。カメラはわたしの眼だったのです。
 日本に行くまで、わたしは日本人を見たことがありませんでした。終戦直後、日本に初めて行ったわたしは、日本人の丁寧(ていねい)さにただただ驚きました。大変な時に、これほど礼儀正しい国民がいるでしょうか !
 一九四五年の九月から七か月間の日本滞在の後、何度も日本に行きました。友達も増えました。五十年以上のつきあいになる友人もいます。
 戦争は二度と繰り返してはなりません。原爆は決して落とすべきではありませんでした。戦争終結に必要だったと言う人がいます。でも、だれが何と言おうと、わたしはこの眼で見たのです。原爆でやられたのは、老人と女たち、そして子供たちだったのです。原爆が必要だったわけなどありません。わたしは、死ぬまでそのことを言い続けるつもりです。なぜなら、You don'tforget what you saw.(見たものは忘れない)から。
                                        (「目撃者の眼」より)


☆終戦直後、オダネル氏が見た日本人は、自分たちアメリカの攻撃によって徹底的に痛めつけられ、家族や親戚(しんせき)・友人らを失ったというのに、アメリカ人に対して温かく、親切に接する日本人の姿でした。そして、そのような時に出会ったのが、写真の少年だったのです。




【資料3】靴(くつ)磨(みが)きの少年 一片(いっぺん)のパン「幼(おさな)いマリコに」                   
(2007.11.6 産経新聞「【やばいぞ日本】」より)

 81歳、元ハワイ州知事(ちじ)、ジョージ・アリヨシ氏から手紙が届いた。親殺し、子殺し、数々の不正や偽装(ぎそう)が伝えられる中、アリヨシ氏の訴えは、「義理(ぎり)、恩(おん)、おかげさま、国のために」に、日本人がもう一度思いをはせてほしいというものだった。終戦直後に出会った少年がみせた日本人の心が今も、アリヨシ氏の胸に刻まれているからだ。
 手紙によると、陸軍に入隊したばかりのアリヨシ氏は1945年秋、初めて東京の土を踏んだ。
 彼が最初に出会った日本人は、靴(くつ)を磨(みが)いてくれた7歳の少年だった。言葉を交わすうち、少年が両親を失い、妹と2人で過酷(かこく)な時代を生きていかねばならないことを知った。
 東京は焼け野原だった。その年は大凶作(だいきょうさく)で、1000万人の日本人が餓死(がし)するといわれていた。少年は背筋(せすじ)を伸ばし、しっかりと受け答えしていたが、空腹(くうふく)の様子は隠(かく)しようもなかった。アリヨシ氏は兵舎(へいしゃ)に戻(もど)り、食事に出されたパンにバターとジャムを塗(ぬ)るとナプキンで包(つつ)んだ。持ち出しは禁じられていた。だが、彼はすぐさま少年のところにとって返し、包(つつ)みを渡した。少年は「ありがとうございます」と言い、包(つつ)みを箱に入れた。彼は少年に、なぜ箱にしまったのか、おなかはすいていないのかと尋(たず)ねた。少年は「おなかはすいています」といい、「3歳のマリコが家で待っています。一緒(いっしょ)に食べたいんです」といった。
 アリヨシ氏は手紙で「この7歳のおなかをすかせた少年が、3歳の妹のマリコとわずか一片(いっぺん)のパンを分かち合おうとしたことに深く感動した」と書いている。
 彼はこのあとも、ハワイ出身の仲間とともに少年を手助けした。しかし、日本には2カ月しかいなかった。本国で法律を学ぶことを選んだからだ。
 そして、1974年、日系人(にっけいじん)として初めてハワイ州知事(ちじ)に就任(しゅうにん)した。
 のち、アリヨシ氏は日本に旅行するたび、この少年のその後の人生を心配した。メディアとともに消息(しょうそく)を探したが、見つからなかった。「妹の名前がマリコであることは覚えていたが、靴(くつ)磨(みが)きの少年の名前は知らなかった。私は彼に会いたかった」。
 アリヨシ氏の手紙には「荒廃(こうはい)した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概(きがい)と心情を思いだす。それは『国のために』という日本国民の精神と犠牲(ぎせい)を象徴(しょうちょう)するものだ」と記(しる)されている。
 そして、今を生きる日本人へのメッセージが、最後にしたためられていた。
 「幾星霜(いくせいそう)が過ぎ、日本は変わった。今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。ほとんどの人びとは、両親や祖父母(そふぼ)が新しい日本を作るために払った努力と犠牲(ぎせい)のことを知らない。すべてのことは容易(ようい)に手に入る。そうした人たちは今こそ、7歳の靴(くつ)磨(みが)きの少年の家族や国を思う気概(きがい)と苦闘(くとう)を、もう一度考えるべきである。義理(ぎり)、責任、恩(おん)、おかげさまで、という言葉が思い浮かぶ」。
 「凛(りん)とした日本人たれ」。父母が福岡県豊前(ぶぜん)市出身だった有吉(アリヨシ)氏の祖国への思いが凝縮(ぎょうしゅく)されていた。
(凜(りん)=引きしまっていること)



■焼き場の少年やマリコの兄から学ぶ事は何でしょうか。
 たった一人で、自分の弟を丁寧(ていねい)に埋葬(まいそう)し、生きていこうとする「生きる力強さ」「勇気」。そして、苦難(くなん)にたじろがず、貧しさを分かち合う「思いやり」「無私(むし)の心」「隣人(りんじん)愛」…。
 自ら(みずか)の努力と気概(きがい)で、日本人は敗戦と飢餓(きが)という未曾有(みぞう)の危機を乗り切りました。
それから66年、今の社会に広がる忌(いま)まわしい事件の数々…。
日本人はどうなってしまったのでしょうか!?


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