授業づくりJAPANの「日本人を育てる授業」

わたしたちは誇りある日本人を育てたい。真の国際派日本人を育てたい。

野口英世

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■安達弘先生の「小学校歴史人物学習 <なってみる日本史>」の紹介を続けます。
これは安達先生のブログ「授業づくりJAPAN YOKOHAMAプライマリー」から転載しています。

安達先生の授業は文科省推薦のアクティブ・ラーニングの歴史授業版です。
また、B4用紙裏表印刷のプリント(ワークシート)1枚だけで学習できる画期的なスタイルによって、
ユニバーサルデザインを実現した歴史授業としても定評があります。
誰でも成果が出せる授業であり、誰もが意欲的に学習に取り組める授業です。
 

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 大正の人物学習の最後は野口英世を取り上げる。
 この時代に日本の文化が飛躍的に進歩し、世界中から認められたその代表として医学者・野口英世を学習させる。

 英世の肖像写真を見せる。
野口1
 野口英世肖像


<ワークシート・第1ページ>
★中央で白い服を着ているのが野口英世です。この写真を見て気づいたことを 箇条書きで書き出してみましょう。
野口2
グアヤキルの英世

児童の気づきは以下のようなものだった。

「廻りにいるのはみんな外国人」
「みんな偉そうな感じ」
「緊張している感じにも見える」
「英世は白い服だけど、外国人はみんな黒っぽい服を着ている」
「全員、帽子を被っている」
「全員、革靴を履いている」
「後ろに船が見える」
「ここは港だと思う。桟橋を歩いている」
「これからどこかへ行くぞ!みたいな感じ」
「英世だけ半ズボンかな?」

『英世は半ズボンではなく、長ズボンの裾にゲートルという黒い包帯のような布を巻いています。蚊に刺されないようにするためです。なぜ?それは後でわかります』



<ワークシート・第2、3ページ>
★世界中の人を病気から救った野口英世

①大やけどを負う
 野口英世は1876(明治9)年に福島県の猪苗代の農家に生まれました。
1才の時に火がついた囲炉裏に落ち、左手を大やけどを負いました。その後、先生や友人の募金で左手の手術を受け、不自由ながらも左手の指が動かせるようになりました。
野口3
囲炉裏

野口4
英世の左手


②医学の研究を志す
医師をめざした英世ですが、ふつうのお医者さんではなく医学の研究する道を選びました。北里柴三郎の伝染病研究所に勤めた後、アメリカへ留学してロックフェラー医学研究所で細菌学を研究するようになりました。英世はここで蛇毒や小児マヒ、狂犬病、オロヤ熱など世界中の人を苦しめていた病気の研究で成果を上げ、有名な医学研究者となったのです。
野口5
ロックフェラー研究所



③野口英世は眠らない
 英世は、数多くの実験から得られるデータの収集を重視し、寝る間も惜しんで研究を進めました。思いついた実験はすべて驚異的なスピードで、しかも正確に実行しました。英世の研究を見た海外の医学者たちは「野口英世は眠らない」と驚きの声を上げたと言います。


④黄熱病との戦い
 1918(大正7)年、英世は当時まだワクチンのなかった黄熱病の病原体を発見するため、エクアドルへ渡りました。
 英世は、エクアドルに到着してわずか9日目には病原体を特定することに成功し、世界中から称賛されました。この研究結果によって開発された野口ワクチンにより、南アメリカでの黄熱病の流行は止まり、多くの人の命が助かったのです。
 さらに、黄熱病の研究のためにメキシコやペルーへも行き、ジャマイカで黄熱病研究の発表を行い、アフリカにも出張しました。
 アフリカで黄熱病の研究を続けていたある日、英世自身が黄熱病に感染してしまいました。一時は回復しましたが、その後病状が悪化し51才の生涯を閉じました。


★野口英世のプレート~エクアドルの人になって考えてみよう

 野口英世が戦った黄熱病は、熱帯アフリカと南アメリカ周辺に見られる伝染病です。蚊によって広まり、伝染します。潜伏期間は3~6日で突然の発熱、頭痛、嘔吐などで発症します。死亡率は30~50%と高く、現在も特効薬はありません。

 当時は、実験中に自分自身が黄熱病にかかって死亡するなど黄熱病の研究は過去に何人もの犠牲者を出していました。しかし、英世はこの危険な黄熱病の研究に挑みました。
 1918(大正7)年7月。英世は、船でエクアドルのグアヤキルの町に到着しました。この町で黄熱病が流行し始めたのは1740年です。それから150年以上もの間、この町は黄熱病に苦しんできたのです。しかも、近くの国からは「蚊が多くて汚い町だ」と言われていました。

 なんと、到着して9日目に黄熱病で死亡した患者の血液を培養し、病原体を発見しました。さらに、英世はその後も現地に残ってこの病気のワクチンを製造しました。野口ワクチンのおかげでエクアドルの人たちの多くの命が助かったのです。エクアドルの人たちは喜びました。やがて、英世の帰国が伝わると「エクアドルに立派な研究所を建設してドクターノグチを引き止めよう!」という声が市民の中からわき起こったほどです。
 エクアドル市民によるお別れ会で、英世は「もし、エクアドルが私を必要とするときは、誰よりも先にはせ参じましょう」と挨拶しました。会場の人びとは立ち上がり「グラシアス、ドクターノグチ!(野口博士ありがとう)」と叫びながら拍手を送りました。
 「黄熱病の流行する汚い町」という汚名を消し去ってくれた英世のことをエクアドルの人びとは「英雄だ」と考えたのです。

 1918年7月24日。エクアドルの公衆衛生研究所に野口英世の顔のレリーフが付いたプレートが飾られました。プレートにはこう書かれています。
┌──────────────────────────────────────┐
│  この公衆衛生研究所で、ロックフェラー研究所のメンバーであり、すぐれた細
│ 菌学者である野口英世が黄熱病の病原体を発見した。
└──────────────────────────────────────┘
野口6
エクアドルのプレート


 しかし、その後の研究で英世の発見はまちがいであることがわかりました。英世が発見したのは黄熱病の病原体ではなかったのです(ワイル氏病という別の病原体だったと言われています)。じつは後の時代に黄熱病の病原体は細菌ではなく、細菌よりもさらに小さなウィルスであることがわかりました。しかし、英世の時代の光学顕微鏡ではウイルスを見ることはできません。ウイルスは電子顕微鏡が発明されてから人類が発見した病原体なのです。

 さて、困った問題が起きました。エクアドルの人たちが掛けてくれたプレートに書かれている内容はまちがっています。このままにしておくわけにはいきません。
 どうすればよいでしょうか?
 エクアドルの人たちの気持ちになって考えてみて下さい。



◇あなたの考えを書いてみましょう。後で話し合ってみましょう。

 ここの課題は英世の研究成果がたとえ間違っていてもエクアドルの人々を助けた功績は決して色褪せないことを子どもたちがつかめればよい。日本人が世界に羽ばたいたその姿を学習することが目的である。

 児童からは出された主な意見を紹介したい

「正しい内容に書き換えればいい。作り直す。野口ワクチンが病気に効いたのは事実なのだから、そのことを書けばいい」
「一度、それを取り外して保管し、野口英世は汚名を消し去り、ワクチンを我々のために作ってくれたエクアドルの英雄だ、と新しく作る。そしてその隣にこれを付ける」
「そのままにする。他の国の人は間違っていると言うかもしえないけれど、いくら間違っていたとしてもエクアドルの人たちの病気を治せたんだし、野口英世のおかげで黄熱病の流行する町と言われなくなったのだから、プレートはそのままでいい」
「プレートを作った人に事情を話し、別の正しい内容のものを作ってもらう。別のウイルスであったが、エクアドルの人々をたくさん救ってくれた人だった、というプレートにする」
「このプレートは残して欲しい。エクアドルの黄熱病を研究してくれたし、黄熱病で亡くなってしまったし、町の汚名を消してくれたし、私たちにとっては英雄だ」



<ワークシート・第4ページ>
★世界から慕われた野口英世

 エクアドル人たちは1918年のもとのプレートははずしませんでした。
 その代わり、その右側に「左の記した野口の発見は誤りであり、のちに修正が加えられた」と書かれた新たなプレートを取りつけました。
野口英世の伝記を書いた人の中にはこんなことを言っている人もいます。
 
 最初の発見が誤りだとわかったら、1枚目のプレートをはずせばすむことかもしれません。しかしエクアドルの人たちは、1枚目をきちんと残したうえで新たに訂正のプレートを加えました。「野口英世に対する当時の評価を消す必要はない」と考えてくれたのではないでしょうか?
野口7
残されたプレート


 エクアドルの首都・キトから離れた村にはノグチ小学校があります。野口英世がこの村を訪れたことがあるのを記念してできた小学校です。学校行事があるときは右のポールに日の丸、中央にはエクアドル国旗、左にはキト市の旗が掲揚されます。
野口8
エクアドルの小学校

 残念ながら受賞はなりませんでしたが、野口英世は4回もノーベル賞候補になっています。しかし、医学への貢献が認められて世界中から表彰されています。

*1913年 スペインとデンマークから勲章授与
*1914年 スウェーデンから勲章授与
*1920年 アメリカ・フィラデルフィア市からメダル名誉章
*1924年 フランスから勲章授与
*1928年 日本から勲章授与

 

 児童の感想を紹介する。

*野口英世の研究結果は間違っていたけれども、エクアドルの人は、野口英世を偉人としてみているのが、日本人としてうれしいと思いました。寝ないで研究したのもすごいと思いました。

*野口英世がノーベル賞を取れなかったのは残念だけど、こんなに世界から勲章をもらって、しかもエクアドルの小学校で名前がノグチ小学校があると言うことは、世界中からその実力が認められたのだと思う。

*野口英世は、多くの人々の命を助けてきた人だからすごい人だと思いました。世界中から親しみを持たれているし、エクアドルの町にプレートを貼られているなんて本当にすごいと思います。ノグチ小学校があるなんて驚きました。

*野口英世のことを僕は心から尊敬します。そして、将来僕が大人になったら野口英世のように日本や外国に貢献したいです。

*エクアドル以外のスペイン、デンマーク、スウェーデン、アメリカ、フランスなどの、昔は日本が学んでいた国から認められたことがすごいなと思いました。
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新渡戸稲造

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大正の人物学習の二人目は新渡戸稲造である。
 新渡戸は『武士道』の著者や国際連盟の事務局次長として知られているが、当時の「植民地学」の権威であり、台湾農業を改革させたことでも有名である。新渡戸の業績や思想を学習することで日本の植民地経営について考えさせる。

 まず肖像写真を見せる。
新渡戸
新渡戸稲造肖像



<ワークシート・第1ページ>
★新渡戸稲造の肖像画は旧5千円札に使われていました。
  その下の2枚の写真は稲造とどんな関係があるか予想してみましょう。
5千円
旧五千円札

◇本の表紙
武士道
英語版・武士道

◇ある植物
サトウキビ
サトウキビ

  児童からは以下のような予想が出された。
*このある植物とは「竹」で、竹に関連したことでベストセラーを出したのでは?
*植物について研究した人だろう
*表紙にBUSHIDOと書かれているので「武士道」についての本でhないか?
*英語で書かれているので英語で書いた人なのか?
*この本で外国から認められた
*これは竹ではなくてサトウキビだと思うので、サトウキビの本を書いたのか?

 『みなさんの予想は当たらずとも遠からずといったところでしょうか。なかなかいい点を見抜いています』



<ワークシート・第2、3ページ>
★太平洋のかけ橋になりたい~新渡戸稲造

①農業学を志す
新渡戸稲造は、岩手県の武士の家に生まれました。
 明治時代になって東京で英語の勉強をしているころ「これからの日本に必要なのは科学技術だ。この分野で西洋の国々におくれを取っていてはいけない」と考えて農業学を学ぼうと考え、北海道の札幌農学校へ進学しました。

②『武士道』を英語で出版
日本とアメリカをつなぐ「太平洋のかけ橋になりたい」とアメリカの大学へ留学した稲造は、キリスト教の信者となり、アメリカ人の女性と結婚しました。稲造は日本に戻って札幌農学校の先生になりましたが、再びアメリカへ渡り1900(明治33)年『武士道』という本を英語で出版しました。
 この本は「日本人の考え方や行動」のもとになるものが「武士道」にあることを説明した本です。この本は英語からドイツ語・フランス語・ロシア語にも訳されて世界中で読まれました。当時、まだ日本のことをよく知らなかった世界の人たちはこの本を読むことで日本人を理解してくれるようになったと言われています。この『武士道』を読んで感動したアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、すぐに数十冊を購入して「ぜひ読んでほしい」と配って歩いたそうです。

③国際連盟事務局次長になる
1920(大正9)年に稲造は新しくできた国際連盟の事務局次長の仕事につきました。スイスのジュネーブ本部を中心に世界中をかけまわる日々が始まりました。スピーチのうまかった稲造は、ヨーロッパを中心に講演活動を行い、世界中にその名を知られるようになりました。


★新渡戸稲造になって台湾の農業を立て直してみよう!

 さて、稲造は『武士道』を出版した次の年に台湾の農業を立て直す仕事をまかされました。当時の台湾は日清戦争後に日本の国土となっていたからです。
 稲造は、遅れている台湾の農業の中からサトウキビに目をつけました。サトウキビから取れる砂糖を中心にして台湾農業を立て直そうと考えたのです。さっそく、台湾のサトウキビ農業の長所と短所を調査しました。


◇長所:台湾にサトウキビ農業が適している理由

①台湾の気候は1年中暖かく、雨の量もちょうどよい。しかし、植え付け時期にもう少 し水があればさらに収穫が増えるだろう。
②サトウキビは重いので運搬がたいへんだ。その点、広い平野がある台湾は適して いる。また、人工的に水の調節をすることができれば平野なら調節しやすい。
③台湾の近くにある日本や中国では砂糖を使う量が年々増えているので、たくさん 売れるはずである。また、スエズ運河も開通したのでヨーロッパへ売れるかもしれ ない。


◇短所:現在のサトウキビ農業の問題点

①農業をすすめるために必要なお金を持っている人たちが清国に帰ってしまった。
②山賊がたくさんいて農家の家を焼かれたり、農民が殺されたりしている。
③伝染病の流行でたくさんの人が死んでしまい、農業をする人が減ってしまった。
④農業よりもお金がもらえる仕事へ変わってしまう人が多い。
⑤気候は適していても、それを生かすための機械・肥料・運搬設備がない。


◇稲造は下の目的を達成するためにどんな方法を考えたでしょうか?いろいろなアイデアが考えられます。
 新渡戸稲造になってあなたの考えを書いてみましょう。後でみんなで話し合ってみましょう。
┌──────────────────────────────────────┐
│ 台湾のサトウキビがたくさん取れるようにする(収穫を上げる)
│ 台湾のサトウキビから作られる砂糖の質を上げる(質のよい砂糖の生産)
│ 台湾のサトウキビから作られる砂糖がたくさん売れるようにする
└──────────────────────────────────────┘

 いろいろなアイデアが出された。
 3つのカテゴリーに分けて板書した。


①収穫
*もっと水がよくわき出てくる場所を見つけてサトウキビ畑にする。
*スプリンクラーなど人工的に水をまく機械を設置する。
*台湾は島国なのでまわりの海の水を真水に換えてまくことができる装置を開発する。
*外国から技術者を招き、指導してもらう。
*水の豊富な日本から水を輸出できないか?
*伝染病を止めて農業ができる人を増やさなければいけないので病院を建てる。
*用水路を造って常に水が保てるようにする。
*山賊を取り締まるために日本の軍隊を派遣する。
*井戸を掘って水源を確保する。
*外国からいい土を輸入したり、肥料を使って土壌改良をする。
*農業用の機械を日本から無料で輸入する。そして台湾のサトウキビ農家が儲かったらお金を返してもらう。
*台湾のサトウキビ農家の給料をアップしてやる気を出してもらう。


②品質
*日本から肥料を援助する。
*品種改良してもっと甘みのあるものをにする。
*地元のベテランや外国の農業技術者をリーダーにして「こだわり」の仕事を徹底させる。


③販売を
*台湾のサトウキビを海外にアピールするためにチラシなどを作る。
*海外へ売るための航路を確保する。
*サトウキビの海外輸出用の船を用意して大量に輸出する。
*台湾国内に鉄道を引いて重いサトウキビを能率的に運搬できるようにする。
*まずは台湾国内で試食会を行い、これをきっかけにして世界に台湾サトウキビを売り出す。
*大きな港を整備する。
*新渡戸稲造はスピーチがうまいので世界中で台湾サトウキビのよさをスピーチする。


 このさまざまなアイデアの出し合いで重要なのは次の2点である。

○台湾農業のためになることを考えること。
○何事も資金が必要であり、それは誰が用意するのかについて考えさせること。
 そこで、児童が自分の意見を書いているときも、発言の合間にもときどきこの点にこだわった質問を入れた。
『それはお金が必要になるけど、誰が出してくれるの?』
 という具合である。
 児童からは「日本から」「日本政府から」「台湾も日本だから政府が出す」などの回答が返ってくる。

『いろいろなアイデアが出ましたね。では新渡戸稲造が取り組んだことを見てみましょう』



<ワークシート・第4ページ>
★日本の植民地・台湾の農業のために力をつくした新渡戸稲造

 稲造は台湾のサトウキビ農業を立て直すためにどんなことをしたのでしょうか?

①種類を改良する
今まで台湾で栽培していた種類とは違うラハイナ種に変える。これは、収穫量が増える・しぼった汁が濃厚で糖分が高い・害虫などに強い、などの長所がある。
②栽培方法の改良をする
新しい栽培方法を台湾の農家にすすめる。そのためにも新しい品種にすることで「よし変えてみよう」という気持ちにすることができる。ただし、化学肥料などを買うお金は最初の5年間だけは政府が無料で配る。
③水を管理する施設を作る
いまの台湾ではおけに水を入れてまいているだけだ。水を人工的に管理することができて、30~40%は確実に収穫が増えるだろう。その証拠に米を作る水田は水を管理しているが、その近くのサトウキビ畑では、他のサトウキビに比べて1.5倍の大きさに成長している。そこで、水田の中でうまくいっていないところだけ、サトウキビ畑に変える。なお、施設を作るために政府が補助金を出す。
④新しい土地を開拓する
サトウキビ畑のための新しい土地を開拓する。そのためには台湾の人たちにサトウキビに適した土地を宣伝したり、開拓に成功したら無料でその土地の権利を与える。さらに、砂糖製造工場を建設したらこれを特別に保護してもうかるように助ける。
⑤砂糖工場に機械を導入する
いまの台湾では水牛と人の力でサトウキビをしぼって砂糖を作っているところが多いが、機械を使えばもっと多くの汁をしぼり出すことができてムダがないし、品質も高くなる。そこで、小さい機械なら政府が貸し出すか、安い値段で売る。大きい機械を使って砂糖工場を経営してみたいという人がいれば、お金を援助する。また、経営に成功したらボーナスを出す。

新渡戸稲造は、植民地の目的について「その土地の文化を進歩させて、それを広げることだ。ただ単にもうけるためにやることではない」と言っています。西洋の国々は植民地を自分の国の利益を上げる場所としか考えていなかったようですが、日本は新渡戸稲造のように自分の国の予算から貴重なお金を出し、道路・鉄道・港・ダム・学校などを作りました。また、衛生状態をよくしたり、匪賊などをとりしまって安心して生活できる環境を整備しました。



 児童の感想を見てみよう。

*新渡戸稲造さんは西洋と違って、自国だけではなく、植民地の人々のことも考えていたのですね。いい人だと思いました。台湾の人も日本の植民地でよかったな、と心のどこかで思ったかもしれません。

*植民地は、ただ利益を上げたりするだけのものだと思っていたが、日本はそんなことをしないで植民地になっている国の人も安心してくらせるように活動していて、心が広いと思った。

*新渡戸さんは西洋とは違って、植民地でもちゃんときれいにしたり暮らしやすい環境を自分から進んで取り組んですごいと思いました。西洋の国より思いやりがあると思いました。

*この新渡戸さんの考え方は世界でも珍しい考え方だ。植民地に道路や鉄道を通すというりっぱな考え方は後に世界に大きな影響をもたらすかもしれない。

*日本政府は植民地をよくしようという気持ちが強いことがわかりました。新渡戸さんの台湾でのサトウキビ作りを見ていると、その土地の文化を進歩させることが大切だと言っていることに納得できる。

*植民地は自分の国の利益を上げる場所なのに、この場合は日本が損をしている。だから、とても優しいと思った。この仕組みは日本の本部と支部みたいだ。稲造のしていることはすばらしいけど反対派の人が日本国内にはいるような気がする。

*新渡戸稲造は、植民地を儲けるためだけには使わないで、その土地の長所を生かし、その国や地域のよさを伸ばしていこうと考えているのがすごいことだと思いました。匪賊を取り締まって安心してくらせるようにしたのも、僕が台湾に住んでいたら「日本はとてもいいことをしてくれtな」と思ったと思います。

原敬

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 大正時代の人物学習の一人目は政治家として原敬を取り上げる。
 原の肖像写真を見せる。
2015112814242377b.jpg
原敬肖像

 その後、ワークシートを配って、タイトルを書く。

<ワークシート・第1ページ>
★下の表は初代から19代までの日本の総理大臣一覧表です。これを見て気づいたことを箇条書きで書き出してみましょう。

│ 1  │ 伊藤博文(山口県)    │幕末志士 │ 11│ 桂 太郎(山口県)     │ 陸軍 │
├──┼───────────┼────┼──┼───────────┼───┤
│ 2  │ 黒田清隆(鹿児島県)   │幕末志士│ 12 │ 西園寺公望(京都府)   │ 公家 │
├──┼───────────┼────┼──┼───────────┼───┤
│ 3  │ 山県有朋(山口県)    │幕末志士 │ 13│ 桂 太郎(山口県)     │ 陸軍 │
├──┼───────────┼────┼──┼───────────┼───┤
│ 4  │ 松方正義(鹿児島県)   │幕末志士│ 14 │ 西園寺公望(京都府)  │ 公家  │
├──┼───────────┼────┼──┼───────────┼───┤
│ 5  │ 伊藤博文(山口県)     │幕末志士│ 15│ 桂 太郎(山口県)     │ 陸軍 │
├──┼───────────┼────┼──┼───────────┼───┤
│ 6  │ 松方正義(鹿児島県)   │幕末志士│ 16 │ 山本権兵衞(鹿児島県) │ 海軍 │
├──┼───────────┼────┼──┼───────────┼───┤
│ 7  │ 伊藤博文(山口県)     │幕末志士│ 17│ 大隈重信(佐賀県)     │幕末志士│
├──┼───────────┼────┼──┼───────────┼───┤
│ 8  │ 大隈重信(佐賀県)    │幕末志士 │ 18│ 寺内正毅(山口県)     │ 陸軍 │
├──┼───────────┼────┼──┼───────────┼───┤
│ 9  │ 山県有朋(山口県)     │幕末志士│ 19│ 原  敬(岩手県)     │新聞会社│
└──┴───────────┴────┴──┴───────────┴───┘

 児童から出された気づきは以下のようなものである。①伊藤博文は4回も総理大臣になっている。
②その他、何回も同じ人がなっているがいる・・・大隈重信2回、松方正義2回、山県有朋2回、西園寺公望2回、桂太郎3回
③初代から10代まで出身が幕末志士が続いている。
④山口県出身が多い。次に多いのは鹿児島県。
⑤原さんだけが岩手県で東北で東日本出身。
⑥出身が原さんだけ新聞会社になっていて一般人っぽい。後は幕末志士、公家、軍隊の人。

 こうした気づきをとらえて以下のような話をする。
『幕末志士が多いのは明治維新を成し遂げたのが幕末のこうした志士たちだからですよね。でもなぜ山口県や鹿児島県が多いのだろう?』
 なかなか出てこなければ次の質問をする。
『山口県と鹿児島県は江戸時代はなに藩だったかな?』
「長州藩と薩摩藩」
 これで児童は納得する。
『倒幕を成し遂げたのはこの2つの藩の力が大きかったんだよね』
 もう一つ気づいた欲しいのは岩手県と新聞会社という原敬の出身である。それまでとは大きく違うことに気づくはずである。



<ワークシート・第2、3ページ>

★平民宰相・原敬

総理大臣一覧表を見て山口県・鹿児島県出身の人が多いことに気づきましたか?
 山口県はもと長州藩、鹿児島県はもと薩摩藩です。つまり、幕府を倒すためにもっとも活躍した2つの藩出身の志士たちが交互に総理大臣になっています。
明治政府の中でもこの2つの藩の力がとくに強かったので、これを「藩閥政治」と呼んだりします。混乱した新しい明治時代にとって「藩閥政治」はよい面もありましたが、その後は政治について同じ考え方の人たちが集まって作った政党を中心にした「政党政治」に変わるべきだという意見が増えていきました。

①新聞社の社長に
 原敬は、ペリーが来航して3年後に盛岡藩(いまの岩手県)で家柄の高い武士の子として生まれました。
 明治時代になって新聞社に入社しました。その後、外務省で仕事をするようになった原は陸奥宗光にその才能を認められ、大事な役目を行うようになりました。しかし、再び外務省をやめてちがう新聞社に入社し、社長になりました。

②日本初の本格的政党内閣を作った
 原は、1902年の衆議院議員選挙で、盛岡から立候補して衆議院議員に初当選しました。そして、以後は立憲政友会という政党のリーダーとして政治の世界で活躍し、内務大臣(ないむだいじん)を3回経験しました。
 1918年、原は総理大臣になりました。この原内閣は日本初の本格的政党内閣と言われています。それは、原が日本で初めて衆議院に議席を持つ政党の党首として首相に任命されたことによるものです。また、原は位をもらうことをいっさい断っていたので「平民宰相」と呼ばれました。

③原のめざした日本とは?
 原は次のような方針で政治を進めました。
◇アメリカ・イギリスと仲良くする
◇日本の政治を進める政党の力をもっと強くする
◇4つの方針で日本をよくする
 1)高校や大学を充実させて優秀な人材を育てる
 2)地方にも鉄道をのばして交通機関を整える
 3)国内の産業と外国との貿易をさかんにする
 4)外国の軍隊に負けないように新兵器をそろえて国の守りを固める


★原敬になって大正時代の選挙制度をどう改正すべきか、考えてみよう

 日本で初めての選挙は1889(明治23)年に行われました。このとき選挙権を持っていたのは25才以上の男子で税金を15円以上納めている国民に限られていました。まだまだ、教育が国全体に行き渡らず、情報を得る手段もほとんどない時代ではこのような制限があるのは無理もないことでした。
 しかし、大正時代になると「選挙制度を改正しよう」という声が大きくなり、民衆の中にも演説会や集会などが行われ、盛り上がりを見せていました。
 
 原敬が総理大臣になったころも、これは重要な政治課題でした。この時代の目標は「普通選挙」の実現です。「普通選挙」とは「納める税金や学歴に関係なく選挙権がある」ことです。なお、現在は男女関係なく選挙権を持っているのは当たり前ですが、当時は選挙権が男子にしかないのは普通のことでした。
 
 ここで次のような意見を持っている人がいたとしましょう。あなたが当時の総理大臣・原敬だったとしたらどちらの意見に賛成しますか?
┌──────────────────────────────────────┐
│ A議員:条件なし―すぐ普通選挙を実現すべし!
│  すでに前回の国会で「税金を10円以上納めている25才以上の男子」に改正され
│ ています。それでも選挙できるのは国民全体の2%しかありません。これでは国民の声
│ を聞いて政治をしているとは言えません。明治時代にできた憲法の心を実現するため
│ にも選挙ができる人を増やすべきです。
│  それに民衆の不満が大きくなっていて、暴動が起きそうな勢いです。これを防ぐため
│ にも選挙権を与えて正しい政治参加ができるようにする必要があります。
└──────────────────────────────────────┘
┌──────────────────────────────────────┐
│ B議員:10円を3円に―まだ普通選挙は早すぎる!
│  私も選挙権を持つ人を増やすことには賛成です。10円を3円にすれば選挙できる
│ 人は増えます。しかし、いっきに増やすことには反対です。時間をおいて国民にもしっか
│ り政治を学んでもらい、あわてずに少しずつ選挙権を持つ人を増やしましょう。
│  ところで、普通選挙は暴動を止めるためにあるのですか?それは違うでしょう。大事
│ なのはしっかり考えて、清き一票を入れることができる人を増やすことです。暴動が起こ
│ る可能性があるというのなら、そんな人たちに選挙権を持たせるのはむしろ心配です。
└──────────────────────────────────────┘

◇あなたの意見を書いてみましょう。後で話し合ってみましょう。

 意見分布は以下のようになった。

 1組・・・A 9人  B17人
 2組・・・A 5人  B25人

 2クラスで出た意見を見てみよう。

<A派>

*意見を言いたいと思っている人たちが言える場がないから暴動になっているのではないか?だから普通選挙にすべきだ。

*選挙をする権利は納税額では決められない。

*納税額で選挙権のあるなしが決められたら平等とは言えない。

*身分が低くて税金が納められなくても政治について意見が言える勉強をしている人はいるかもしれない。

*暴動が起きてしまったら国が危なくなるので、選挙権を与えるべき。

*国民の声をより多く聴くことが大切だと思う。

*選挙権を制限しているとちゃんと考えている人も爆発してしまうかもしれない。



<B派>

*まずは政治をしっかり学んでもらうことが大切。

*B議員が言っているように選挙は暴動を止めるためにあるのではない。

*まだまだ情報もないのに正しい選挙ができるはずがない。

*形だけ作っても7中身が伴わないと意味がない。

*何事も徐々に進めることが大事で、徐々にでも納税額を減らしていけば不満は抑えられる。

*政治のことを何もわかっていないのに選挙をするなんて許されない。

*B議員が言うように暴動を起こすような人に選挙権を与えるべきではない。

*もし、不満を持っている人が選挙をしたとしてそれで自分が票を入れた人が当選しなかったら結局その人は不満が高まるだけな のであまり意味がない。



<ワークシート・第4ページ>

★普通選挙と原敬の死

 1919年に原内閣は「3円以上税金を納めている25才以上の男子」という改正を行っています。しかし、普通選挙の実施については反対していました。
 
 原はこう言っています。  
「普通選挙の実現は世界的な動きであって、日本がこの影響を受けないということはありえないだろう。日本もこれまでの考え方の上に海外から来る進歩的な考え方を調和させなければいけない」
こうして税金の条件を10円から3円に引き下げることに賛成しました。つまり、あわてずに少しずつ普通選挙を実現すべきだ、という考え方だったのです。

その後、原は1921年に東京駅で暗殺されてしまいました。再び、普通選挙を実現しようとする動きが高まったのは1922年のことです。
 もし、原が生きていれば世の中の動きを敏感に感じ取り、原首相みずからが中心となって普通選挙を実現していただろう、と言われています。

普通選挙法が国会で決まったのはその3年後の1925年です。日本は男子のみと言う限定はありますが、普通選挙を実現させたアジアで初めての国となりました。  当時の先進国であるイギリスでさえ男子のみの普通選挙が実現したのは1918年です。日本とさほど変わりません。日本は驚くほどの速さで西洋に追いつき、立憲政治を実現したと言ってよいでしょう。

原敬暗殺現場
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(原敬の暗殺現場プレート)



児童の感想を見てみよう。

*原敬さんは深く考えていたのですね。一般人だからこそ一般人の思いがわかったのでしょう。本格的政党内閣によって西洋に追いついたのはいいですね。

*西洋にとても早く追いついた日本はすごいと思った。きっともっとすばらしい日本にしたかったと原敬は思ったと思う。だから、暗殺されてしまったのは残念だと思う。

*アジア初というのがすごいと思いました。イギリスとの差がだんだん縮まっていることを感じました。

*原首相はゆっくりと普通選挙実現へと動いていたことがわかりました。イギリスと7年の違いで普通選挙が行われたのはすごいと思いました。1900年代だと思うと、100年以内の最近のことなんだなあと思いました。

*今では、お母さんもお父さんも選挙で投票していますが、昔は選挙権が厳しかったんですね。日本がこんなにも早く、西洋に追いつくとは日本、さすがです。

大正時代の文化

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大正時代の導入である。

上記のタイトルを板書した後に次の基本的なことを質問する。
『時代は大正時代に入りましたが、大正の前は何時代?大正の後は何時代ですか?』
 前者は「明治」、後者は「昭和」と出てくるので、確認する。
 なお、ここからの大正時代の学習は明治後半と昭和前半も重なってることを伝える。

 さらに次ようなお話をする。
『日露戦争の後に第1次世界大戦という戦争が起こりました。これは主にヨーロッパが戦場になったので日本はあまり関係しないですみました。さて、その後に世界のリーダーシップを取る5つの国がありました。世界のベスト5です。アメリカ、イギリス、フランス、イタリア・・・そして日本です』
 児童から安堵の声があがる。

『日本はついに世界のベスト5に入ったのですね。こうして平和な時代がしばらく続きますが、この頃の日本の様子を歌った歌があるので聴いてみましょう』
 
 榎本健一が歌う『洒落男』を聴かせる(なお、この歌による大正時代のイメージ形成をねらった授業は東京の佐藤民男氏の実践の追試である)。
 1回目はそのまま聴かせて、2回目にプリントを配布して聴かせる。
 どちらも第2フレーズまでである。

 ◇洒落男(しゃれおとこ) 歌:榎本健一 
┌──────────────────────────────────────┐
│  俺は村中で一番
│  モボだと言われた男
│  うぬぼれのぼせて得意顔
│  東京は銀座へと来た

│  そもそもその時のスタイル
│  青シャツに真っ赤なネクタイ
│  山高シャッポにロイド・メガネ
│  だぶだぶなセイラーのズボン

└──────────────────────────────────────┘

 榎本健一さんは大正時代から昭和にかけて活躍した俳優・歌手・コメディアンです。「エノケン」と呼ばれてたいへんな人気でした。この「洒落男」はヒット曲の一つです。

  この歌の歌詞には大正時代から始まった文化のようすがたくさん入っています。


★大正時代から始まったのではないか?と思われることばを見つけて□で囲んでみましょう。 

 児童はスタイル、シャツ、ネクタイ、ロイドメガネ、山高シャッポ、セイラーのズボンなどのカタカナ語に着目する。どれも大正時代から一般的になってきたものであることを教える。

 なお、シャッポは帽子であり、山高シャッポは図を描いて教える。
 ロイドメガネは丸い眼鏡で当時のアメリカのコメディアンであるハロルド・ロイドが広めたものであることも話す。
 しかし、一つだけモボが児童の中で謎として残る。
 そこで、ヒントとしてモボとモガがあることを告げて、さらに一方が男で一方が女であることを教える。
 解答はモダンボーイとモダンガールの略称である。
 現代で言えば最先端のファッションを取り入れたカッコイイ男の人や女の人であることを話す。
 
『では、モガを写真で見てみましょう』


モガ
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「今っぽいね」の声が上がる。

『じつは大正時代は現代の日本ととても似ています。今は当たり前の文化が大正時代に始まったものであることが多いんです。ではいろいろと大正時代の文化を見てみましょう』


◇映画館
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◇海水浴
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◇デパート
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◇デパートのショーケース
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◇デパートのレストラン
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食堂


◇電線(電気の普及)
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◇電気の普及による鉄道馬車から路面電車への変化
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◇女子高生の電車通学
無題


◇野球の普及
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◇サッカーの普及
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 最後に文化とは関係ないが関東大震災という大きな災害があったことを話す。

◇関東大震災
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 残りの時間は予習復習を兼ねて穴埋めプリントなどをやる。

日露戦争・その後

■安達弘先生の「小学校歴史人物学習 <なってみる日本史>」の紹介を続けます。
「東郷平八郎」は「日清戦争と日露戦争」の授業(全5時間)の5時間目です。
これは安達先生のブログ「授業づくりJAPAN YOKOHAMAプライマリー」から転載しています。

安達先生の授業は文科省推薦のアクティブ・ラーニングの歴史授業版です。
また、B4用紙裏表印刷のプリント(ワークシート)1枚だけで学習できる画期的なスタイルによって、
ユニバーサルデザインを実現した歴史授業としても定評があります。
誰でも成果が出せる授業であり、誰もが意欲的に学習に取り組める授業です。
 

■横浜の小学校6年生の思考力・表現力がみごとです。
 全国の先生方、ぜひ追試してみてください!


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        日露戦争・その後

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・日露戦争の第3時は「その後」として日露戦争の世界史的意義について考えさせる。
 
・授業の冒頭に三笠記念公園内の売店で購入した<東郷ビール>の空き瓶を教室内を一周しながら全員に見せる。
 日露その後1

 すぐにラベルの人物が東郷平八郎であることに気づく子が出てくる。
 そこでワークシートを配布する。


<ワークシート・第1ページ>

下のビールのラベルは1970年にフィンランドのピューニッキ社で発売された「世界の提督シリーズ」の中の一つです。
 このシリーズは世界中の24人の海の英雄たちの顔がラベルになっています。
 ここにあるラベルの絵は、東郷平八郎です。なぜ、24人の中に東郷平八郎が選ばれているのでしょう?


 児童からは以下のような反応が返ってくる。

「大国ロシアに勝ったことで東郷平八郎の名が世界中に知られるようになったから」
「トーゴターンなど予想外の作戦で勝ったから」
「日本の代表みたいな人だから。ヒーローだから」
「世界一の艦隊に勝ったから、その活躍が広まった」
「強運の持ち主だから縁起がいい。ラベルがお守りみたいになるから」


<ワークシート・第2ページ>

日露戦争と世界の人々

①東郷平八郎のビールラベル
 ロシアのバルチック艦隊に完全勝利した日本の東郷平八郎の名は世界中に知れ渡りました。ですから、このようなシリーズにも東郷平八郎が選ばれたのでしょう。
(なお、このビールを作っていたフィンランドの会社はすでになくなっています。しかし、今はオランダのビール会社が日本向けに東郷平八郎のラベルだけを復活させて輸出し「東郷ビール」の名前で親しまれています)

②トルコの「トーゴー」
 トルコでは日本の勝利の後に子どもに「トーゴー」と名前を付ける人がかなりいたと言われています。ハリデ・エディプも息子に「トーゴー」と名付けています。また、地名にも「トーゴー」の名が付いた道ができました。

日露その後2
トルコの東郷通り

③中国人・孫文(そんぶん)とアラビア人
 中国建国の父と言われる孫文は講演の中でこう述べています。

 船の上でアラビア人たちが「あなたは日本人か?」と質問してきたので「わたしは中国人だが、どうしたのですか?」聞くと、「最近、アジアの東にある国がヨーロッパの国と戦って勝ったということを知った。わたしたちアジアの西の国の者も同じアジア人として自分のことのようにうれしいのです」と話していた。日本の勝利は有色人種や大きな国に苦しめられている民族に独立のめざめを与えたと言えるでしょう。

④エジプトで出版された本
 エジプトのムスタファ・カーミルは日露戦争後に『昇る太陽』という本を出版しました。この本の目的は、エジプトがイギリスから独立するためには日本をモデルにして学ぶことにありました。また、サラーマ・ムーサーも自分の本の中で「エジプトの人々は日本に好意的だった」と書いています。

⑤イランの詩人の言葉
 イランの詩人であるシーラーズィーは次のように言っています。
「日本は立憲制を取り入れて偉大な国になった。その結果、あのように強い国にも勝つことができたのだ」



<ワークシート・第3ページ>

日露戦争後の世界の人々の目になって考えてみよう

 ここまで、日露戦争における日本の勝利が世界中に大きな影響を与えたことを見てきました。
 じつは、日露戦争の後、世界の反応はおおよそ下のAとBの2つに分かれました。
┌──────────────────────────────────────┐
│ A:強くなった日本から学ぼうとした。
│ B:強くなった日本を警戒するようになった。
└──────────────────────────────────────┘
 では、下の4つの国はAとBのどちらの反応が強かったでしょうか?どちらかに分類してあなたの意見を書いてみましょう。

   ①アメリカ    ②インド    ③フランス    ④ベトナム

日露その後3
世界地図

 この課題に取り組ませるに当たっては世界地図を用意することが肝要である。
 ここまで出てきた国を世界地図上で確認させる。
 子どもたちはさすがにアメリカの位置はわかるが、フィンランド、トルコ、エジプト、イラン、フランス、インド、ベトナムはほぼわからない。
 確認すると「もう一回教えて」とかなり日本との位置関係が気になる様子である。

 分類の人数分布は以下のようになった。
  
             1組             2組
 アメリカ ・・・A 0人  B 27人   A 4人   B26人
 インド  ・・・A 27人 B 0人    A 28人  B 2人
 フランス ・・・A 9人  B 18人   A 11人  B17人
 ベトナム ・・・A 23人 B 4人    A 21人  B 9人

 大勢の意見は、Aにアジアの小国、Bに西洋の大国を当てはめるものである。

「①と③は西洋だったのでちょっと前までは西洋の方が日本より強いと思われていたため、ロシアに勝った日本が西洋に勝つかもしれないと思ったから。②と④は当時、植民地だったので、支配されていた大国に勝てるかもしれないと勇気をもらった」

「②と④は小さくて植民地にされやすいから強い国に勝った日本に学んだ方がいいと思った。また、大きな国の①やロシアと同じヨーロッパの③は警戒すると思う」


 その他の意見その1としてAに①、Bに②③④と分類した国土の大きさで判断したもの。

「①のアメリカは日本よりでっかいし、日本と仲良くしていた。②のインドはイギリスから日本の植民地にされてしまうかもしれないと
恐れた。③のフランスは日本がいきなり強くなって、国の大きさが同じぐらいだから危ないと思ったかもしれない。④のベトナムは日本より小さいしインドと同じ植民地にされてしまうかもしれないと思ったから」


 その他の意見その2としてAに②と③、Bに①と④と分類した日本との距離で判断したもの。

「アメリカは昔、日本が学んだぐらいだからもう学ぶ必要がない。ベトナムは小さくて日本と近いからこの2つの国は警戒した。インドとフランスは遠くて警戒する必要がないから、学ぶ方がいいと思った」


 その他の意見その3は、アメリカ警戒説である。アメリカのみ警戒のBとして残りは3つともAである。
「アメリカは貿易もたくさんしていて大きい国だから、同じぐらい大きくなった日本を警戒すると思う」



<ワークシート・第4ページ>

日露戦後の日本

日本に学べ

 下のお話は、のちにインドの首相になったインドのネルーが自分の子どもに語って聞かせているものです。
┌──────────────────────────────────────┐
│  アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国ぐにに大きな影
│ 響をあたえた。わたしは少年時代、どんなにそれに感激したかを、おまえ
│ によく話したことがあったものだ。たくさんのアジアの少年、少女、そし
│ ておとなが、おなじ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国はやぶれた。
│ だとすればアジアは、そのむかし、しばしばそういうことがあったように
│ いまでもヨーロッパを打ち破ることもできるはずだ。
└──────────────────────────────────────┘
 日本の勝利はインドの人たちに「インド独立」という希望を与えました。「インドも日本のように近代化を果たせばイギリスの支配から逃れられる」と考えたのです。

 ベトナム人のファン・ボイ・チャウも「日本の勝利の知らせは長い夜の夢からめざめさせてくれた」と語り、ベトナムの独立を夢見て「日本から学ぼう」と約250名の若者を日本に留学させる運動をおこしました。


日本を警戒せよ

 西洋の国々も、日本の勝利に驚き「日本から学ぶべきだ」という声が起こりました。
 イギリスでは「日本海海戦での日本の勝因は<武士道>にある。日本の精神力に学べ」という新聞記事が載り、アメリカでは「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」と言う東郷の有名な言葉に感動した大統領のセオドア・ルーズベルトが、これを英語に翻訳して当時のアメリカ軍に配ったりしました。

 しかし、一方でアメリカの新聞には「日本に対抗できる海軍はもうイギリスにしかない」「日本は恐るべき強国となるだろう」「貿易上のライバルになる」という記事が載るようになりました。西洋の国々は強くなった日本を警戒するようになったのです。

 また、フランスの新聞にも「日本はアジアからフランスを追い出す秘密計画があるらしい」「日露戦争でのロシアの敗北はヨーロッパ全体の敗北と同じだ」「日本を止めるために白人全員で一致協力しよう」などといった日本を警戒する記事が掲載されました。


 児童の感想を見てみたい。

*東郷平八郎の日本海海戦の勝利によってアジアの小さな国々に希望と勇気を与えたのだとわかりました。

*日本は最初はものすごく弱く、植民地になりそうで危ない時期もあり、すごく弱かった。でも、植民地にされるどころか、植民地になっている国に希望を与える大きな国になった。僕はすごい進歩だと思う。

*日本はアジアの人たちに希望を与えたので、今のアジアがあるのはそのためだと思います。日本が大国に警戒されるということは日本は成長したんだと思います。

*日本は強くなって危険になったのではないか?白人が全員で攻撃してきたら日本は大丈夫なのか?心配だ。でも、世界の強国に勝った日本は本当にすごい。計画を立て、行う、やる気がすごい、世界一だと思った。

*こんなに世界中が驚いてすごいと思った。東郷さんのおかげ。植民地にされた国にも勇気を与えたから戦争というのも全部が悪いというわけではなかった。

*日本海海戦の大勝利が植民地にされている人々に希望を与えられたのはすごいと思います。日本の強さをわかってもらえるのはよいけれど、恐れられたり誤解されることがないようにしてほしいと思いました。

*日本がアジアにもたらした利益はものすごいものだと思いました。

*日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎が、こんなに有名になっているとは、同じ日本人である僕も感動しました。
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