授業づくりJAPANの「日本人を育てる授業」

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聖徳太子の名前を「厩戸王」に変えるな!文部科学省へパブリック・コメントを届けてください!


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授業づくりJAPANの『日本人を育てる授業』 

 NO.82 2017/2/24

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聖徳太子の名前を「厩戸王」に変えるな!
  
     次期学習指導要領改訂案に対する緊急声明

文部科学省へパブリック・コメントを届けてください!    
     
     (「新しい歴史教科書をつくる会 FAX通信」より)


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聖徳太子の名前を「厩戸王」に変えるな!
次期学習指導要領改訂案に対する緊急声明
文部科学省へパブリック・コメントを届けてください!



新しい歴史教科書をつくる会は、2月14日に文部科学省から発表された
次期学習指導要領改訂案に対し、21日、下記の緊急声明を発表しました。
そして同日、本声明は文部科学省が現在募集中のパブリック・コメントと
して、同省に送付されました。


この案件は是が非でも阻止しなければなりません。

会員ならびに支援者の皆様には、声明についてご理解の上、文部科学省
へパブリック・コメントをお送りいただきますよう、何卒、ご協力をお
願いいたします(パブリックコメントへの宛先は声明の最後をご覧ください)。

なお、今回の緊急声明は、改訂案の歴史的分野で「聖徳太子」の一点に
ついて指摘しておりますが、他にも歴史・公民それぞれに、懸念される
部分があります。これらにつきましては、今後内容を精査し、会として
改めて問題点を指摘いたします。

             ◇

日本人の精神の支えをなす聖徳太子の名前を「厩戸王」に変えないで下
さい!


-次期学習指導要領改訂案への「つくる会」のパブリック・コメント            

          平成29年2月21日


        新しい歴史教科書をつくる会


文部科学省は2月14日、次期学習指導要領の改訂案を公表しました。
その中で、小中学校の歴史教育に関し、日本国民として決して見逃す
ことのできない重大な記述が含まれていることがわかりました。日本
史上もっとも大切な人物として長年位置づけられてきた聖徳太子のそ
の呼称を否定し、「厩戸王(うまやどのおう)」と呼ばせるという方
針が書かれています。当会は文科省のこの改訂案に絶対反対であり、
改訂案に対するパブリック・コメントとして、ここに当会の見解を発
表します。


(1)改めて説明するまでもありませんが、日本史上の聖徳太子
(574~622)の事績は傑出しています。太子は冠位十二階と十七条憲
法によって国家の仕組みを整備し、天皇を中心とする国づくりへ前進
させました。中国大陸との外交では、「日出づる処の天子、書を日没
する処の天子に致す」という文言で知られるように、中国の皇帝を中
心とした華夷秩序から離脱する自立外交を展開しました。こうして聖
徳太子はその後1世紀にわたる日本の古代国家建設の大きな方向付け
をしたといえます。

しかも、その影響は古代史のみにとどまりません。明治以降発行され
た紙幣の人物像として最も多く登場したのは聖徳太子です。このこと
が象徴するように、聖徳太子は日本人の精神の支えとなる人物であり、
聖徳太子を日本史上最も重要な人物の一人と見ることは、近代日本の
国民的合意でもあったのです。


(2)学習指導要領の改訂案についての文科省の説明は、<「聖徳太
子」は没後使われた呼称だが、伝記などで触れる機会が多く、人物に
親しむ小学校で「聖徳太子(厩戸王)」、史実を学ぶ中学では「厩戸
王(聖徳太子)」とする>(産経新聞2月15日付け)というものです。

中学校の場合について聖徳太子の扱いの変化を確認すると、次のよう
になっています。いずれも、「3 内容の取扱い」という項目で記載
されているものです。(以下、引用文中の下線は引用者による)


◇現行学習指導要領(平成20年)の記述
<「律令国家の確立に至るまでの過程」については、聖徳太子の政
治、大化の改新から律令国家の確立に至るまでの過程を、小学校で
の学習内容を活用して大きくとらえさせるようにすること>


◇改定学習指導要領(平成29年)の記述
<「律令国家の確立に至るまでの過程」については、厩戸王(聖徳
太子)の政治、大化の改新から律令国家の確立に至るまでの過程を、
小学校での学習内容を活用して大きく捉えさせるようにすること>

このように、現行版と改訂案ではほぼ同文であるのに、唐突にも、
「聖徳太子」だけが「厩戸王(聖徳太子)」と変えられています。


(3)なぜこのような改変がおこったのでしょうか。その根拠は、
世紀のはざまに日本史学界の一部で唱えられた「聖徳太子虚構説」
と呼ばれる学説にあります。しかし、これが学界の通説になった
かといえば全くそのようなことはありません。「聖徳太子」とい
う呼称の初出は確かに1世紀以上後のことですが、核に当たる
「聖徳」という呼称は、日本書紀以前にも存在したことが、すで
に明らかにされています。
(詳細は高森明勅・つくる会理事による別稿を参照して下さい)


そもそも、死後に使われた呼称だから使えないとすれば、教科書
の人名の多くを書き換えなければならなくなります。そのことを
無視して、聖徳太子の呼称だけを「厩戸王」にしようとするのは、
聖徳太子がまさに日本国家のアイデンティティの基礎となってき
たからこそ、それを否定しようとする動機が隠されていると推測
せざるを得ません。聖徳太子虚構説が全く省みられなくなってい
る今日、突如として、学習指導要領によって全国の小中学生の歴
史教育の現場に押しつけるとは、誠に驚くべきことと言わざるを
得ません。

聖徳太子の偉業はその名前と深く結びついてきたのであり、名前
の否定は人物の否定に行き着きます。もし、この度の学習指導要
領の改訂で「厩戸王」を強制することに成功すれば、文科省は10
年後の改訂では人物そのものを抹殺するであろうとも予想されま
す。

学習指導要領では、歴史教育の目標として、「我が国の歴史に対
する愛情を深め、国民としての自覚を育てる」(中学社会の場合)
と書かれています。聖徳太子を抹殺しようとする今回の改訂案は、
この「目標」にも違反していると言わなければなりません。

私達の主張は以上のとおりですが、この声明をお読みいただいた
あなたに訴えます。どうか、3月15日まで行われる文科省募集
のパブリック・コメントに応募して下さい。
そして、<学習指導要領から日本史上の最も重要な人物である聖
徳太子の名前を消さないでほしい。「厩戸王」の呼称の強制をや
め、現行の学習指導要領の記述に戻してほしい>という趣旨の明
確なメッセージを届けて下さるようお願いいたします。


【パブリック・コメントの宛先】 

文科省のパブリック・コメントにネットで応募される方は、以下
の<画面の意見提出フォームへ>をクリックし、ご意見を記入の
上、送信して下さい。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/29/02/1382218.htm
http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=185000878&Mode=0

*上記アドレスのページに「意見公募要領」がありますので、
必ずその要領に従って意見をお送りください。要領に沿っていない
場合、無効になる恐れがあります。ご注意ください。


***********************************************************

<参考>

      聖徳太子虚構説は通説ではない

      平成29年2月         理事 高森 明勅

大山誠一氏の聖徳太子虚構説(平成11年)(注1)は、学界の受け入れ
るところとはならなかった。私も批判の筆を執ったことがある(注2)
が、文献の現状は以下の通りである。

大山説発表後刊行された関係書の書名は、吉村武彦『聖徳太子』(岩波
新書、平成14年)など、「聖徳太子」の語が採用され「厩戸王(皇子)」
の例はアマゾンで調べても皆無である。
同様に、『聖徳太子事典』(柏書房、平成9年)はあるが、いまだに
「厩戸王事典」は存在しない。

梅村喬・神野清一編『改訂日本古代史新稿』(梓出版、平成16年)に、
「聖徳太子の時代」の見出しで、「推古朝は、通説的には聖徳太子
(厩戸皇子 574~622)の時代でもある」(福岡猛志執筆)とある
(下線は引用者)。森田悌『推古朝と聖徳太子』(岩田書院、平成
17年)にも、「聖徳太子非実在説が説かれることがあるが・・聖徳
太子が実在したことも歴史的事実」と厳しい大山説批判が展開され
ている。

吉川真司『飛鳥の都 シリーズ日本古代史3』(岩波新書、平成23
年)は、「継体天皇」「天智天皇」などの漢風諡号で統一表記する
ことを断った中で、(混乱を避ける為)「『厩戸王』『葛城王』で
なく『聖徳太子』『中大兄皇子』と記すのも、同様の理由による」
とした。もし、「厩戸王(聖徳太子)」と表記するなら、「葛城王
(中大兄皇子)」と書かないと統一を欠くだろう。

現代の日本史学の標準的見解を示すとみられている『岩波講座日本
歴史』シリーズ第2巻(平成26年)にも、「聖徳太子と呼ばれるよ
うになったのは後世のこととしても、厩戸王は、後に伝説化されて
しかるべき位置を生前から有していたと考えられる」と記す(川尻
秋生)。明らかに、虚構説に否定的だ。

なお、「聖徳」という諡号の初見は法起寺塔露盤銘(706年)に、
「聖徳皇」とあるものだ(東野治之)。
また、播磨国風土記(713~715年)にも「聖徳王」とある(高森・
上田正昭)。
「聖徳太子」の初見は懐風藻(751年)である。

以上の通りであるから、聖徳太子虚構説は、決して学界の通説と
は言えないことは明らかである。


注1 大山誠一『<聖徳太子>の誕生』吉川弘文館、平成11年、ほか。

注2 高森明勅「聖徳太子をめぐる論争を手がかりに歴史への
眼差しについて考える」『正論』平成16年12月号ほか。


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文部科学省へのご意見はこちらへ「小学校学習指導要領案及び中学
校学習指導要領案に対する意見公募手続(パブリック・コメント)
の実施について」

http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/29/02/1382218.htm

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皇居

東京大空襲

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■安達弘先生の「小学校歴史人物学習 <なってみる日本史>」の紹介を続けます。
これは安達先生のブログ「授業づくりJAPAN YOKOHAMAプライマリー」から転載しています。

安達先生の授業は文科省推薦のアクティブ・ラーニングの歴史授業版です。
また、B4用紙裏表印刷のプリント(ワークシート)1枚だけで学習できる画期的なスタイルによって、
ユニバーサルデザインを実現した歴史授業としても定評があります。
先生方のどなたでも成果が出せる授業であり、子供達の誰もが意欲的に学習に取り組める授業です。
 
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東京大空襲


 前回の「千人針」に続き、戦時下の国民生活の第2時という扱いとなる。
 じつは「千人針」→「東京大空襲」→次回の「硫黄島の戦い」は3時間でワンセットになる。

 「千人針」は銃後の国民から戦場の兵隊さんへの思い、「硫黄島の戦い」は戦場の兵隊さんから銃後の国民への思いを学習する。そのキーとなるのが今回の「東京大空襲」の学習である。



<ワークシート・第1ページ>

★下の絵は1945年3月の東京大空襲のようすを描いたものです。気づいた ことを箇条書きで書き出してみましょう。
東京1
東京大空襲の絵左

児童からは以下のような気付きが出された。
「勢いよく炎が上がって家が燃えている」
「上から何かが落ちてきている」
「みんな防災頭巾のようなものをかぶって逃げている」
「布団をかぶっている人もいる」
「奥にライトの光が見える」
「何かが地面に刺さって爆発している」
「炎の中に逃げ遅れた人がいる」

なお、次ページの資料で焼夷弾については詳しく説明する。
すると炎がなぜ上がっているのか、火から髪の毛を守る行為などの意味がわかる。



<ワークシート・第2・3ページ>

①B29と焼夷弾(しょういだん)

  東京を空襲したのはアメリカのB29(ボーイング29型)大型爆撃機です。このときにB29が落としたのはふつうの爆弾ではありません。焼夷弾とよばれるものです。


東京2
B29

東京3
焼夷弾

 なぜアメリカ軍は焼夷弾を使ったのでしょうか?アメリカはアリゾナの砂漠に一軒の木造住宅を作り、ある実験をしていました。その実験の連続写真を見てみましょう。

0分
東京4

10分
東京5

15分
東京6

20分
東京7


②東京大空襲を生きのびた人たちの証言

「あ、落ちてくる!」                            
 私の一歩前にいた男は、顔をのけぞらしてさけんだ。ごしっ!と耳の破れたような音。地底にひきこまれそうな爆音。あわてて閉じたまぶたの裏に、金色の閃光がはしる。焼夷弾は、落ちてくる-とさけんだ男ののど首に、火をふいてつきささった。その横を走ってきた女の左肩をかすって、電柱にささりこみ、あっというまに、あたり一面を地獄絵図変えてしまった。

 B29が、ガソリンをまきちらしたのは、その後です。爆音が耳をかすめて、頭に、ほおに、さあーッとつめたいものがふれる。はっと気がついてみると、水です。それもへんににおう、とろとろした水、液体です。はじめ雨かと思いましたけど、そのにおいで、すぐガソリンとわかりました。ああ、これで私ら焼き殺されるんだ。死ぬのかな、って思いました。けど、そのとたん、畜生、死んでなるもんかと思い、必死で起き上がろうとしたんですけど、ダメなんです。私の上は、死体だらけ。その死体がつみかさなって、みんなまっくろこげの棒みたいになっているんです。

髪の毛に火のついた人たちが大声でわめき、苦しみながら、のたうちまわる。背中の子どもが、そのとき、ギャーッと、異様な声をあげましてね、あわてて、子どもをおろして胸に抱くと、口の中が真っ赤。いえ、血じゃないの。泣いている口の中に、火の粉が入っているんですよ。火の粉が、のどをふさいでカーッと燃えているんです。私はあわてて、それを指でえぐり出しましてね、子どもを下にうつぶせになって、上にねんねこをかぶりましたが、ねんねこにもすぐ火がついてしまいました。私のまつげは、とっくに溶けてし


③東京大空襲の被害
 日本の首都・東京は、1944年11月24日に初めて空襲されました。その後、1945年8月15日まで110回を越える空襲を受けています。
 アメリカの空襲の最初の目的は製鉄工場や飛行機工場などの軍需工場でした。しかし、最初の22回の空襲であまり効果がないと考えたアメリカは空襲の目的を一般の民間人をもねらう無差別爆撃へと変更したのです。
 1945年3月10日の東京大空襲では、午前0時すぎから2時間半にわたって計334機のB29から1600トンの焼夷弾を投下されました。26万8千戸の家が焼かれ、10万人が焼死、40万人が負傷、被災した人は100万人を越えました。(空襲後の写真を見てみましょう)

被害1
東京8

被害2
東京9

被害3
東京10

被害4
東京11



★①~③の3つの資料を読んで、東京大空襲のどこに大きな問題点があると思いますか?あなたの考えを書いて下さい。

児童からは以下のような意見が出された。

「日本は弱いのに民間人とかをねらったから、それが僕の中ではすごく悲しくて切なかった」

「アメリカの空襲が無差別爆撃に変更したのが、問題だと思います。そのせいで小さな赤ちゃんまで被害を受けているからです」

「爆弾は爆発すれば終わりだけど、焼夷弾はいろいろなものに飛び移り、町全体を焼き尽くして、人を最後の最後まで苦しめた」

「B29がガソリンをまき散らしたところ。焼夷弾だけでももう十分被害を受けているのに、さらにガソリンをまき散らすというところがひどい」

「木造だからすぐ燃える、というのが問題点だと思います。もともと木造の家は日本の文化ですからしょうがないのに、そこをねらってくるのはひどいです。それにガソリンをまいて焼死させる発想がむごすぎる」



 ここで戦時国際法の話をした。

 子供たちは戦争にルールがあることを意外に思っている。これは大事な知識だ。この国際法の中には空襲の項目もあり、民間施設を狙うことは法律違反だということが書かれていることを教えた。



<ワークシート・第4ページ>

★横浜もねらわれた空襲

この東京大空襲の後も、空襲は続きました。

3月10日 東京(被災者100万人)

13日 大阪(被災者 50万人)

17日 神戸(被災者 24万人)

19日 名古屋(被災者 15万人)

4月13日 東京

15日 東京・川崎

6月~8月 全国55の地方都市

 わたしたちが住む横浜も、1942年4月18日に初めて空襲を受けました。
 1945年に入ってから、空襲回数は30回を越えました。

 とくに1945年5月29日の大規模な空襲で、横浜市内は壊滅的な被害を受けました。この横浜大空襲では、B29は517機、戦闘機は100機が飛来し、焼夷弾による約1時間の爆撃と機銃掃射で死者は1万人、被災者は32万人にのぼりました。

 現・京急黄金町駅周辺一帯では、電車から退避中の利用客も住民とともに被害にあい、大勢の人びとが焼夷弾による火災により逃げおくれて焼死しました。空襲警報とともに駅構内に逃げ込んだものと思われ、焼夷弾による火に包囲され、火あぶりとなってしまったのです。

 死体は黄金町駅の道路両側に並べられ、引取者を待っていましたが、初夏に近い五月末のことで、強い日ざしによって死体から油と血が流れだし臭気も出てきたため、やむなく死体は埋葬されました。

また、6月10日の空襲では湘南富岡駅(現・京急富岡駅)に到着した電車が爆撃から逃れるためにトンネル内に待避したところ、トンネルの前後に爆撃を受け、80人が犠牲になっています。


被害5
伊勢佐木町周辺
東京12

被害6
空襲上空から見た横浜市 
東京13

千人針

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千人針


 戦争の「原因」の学習を終えて、ここからは戦争そのものについての学習に入る。
 最初に取り上げるのは「戦時下の国民生活」である。
 ここの学習のポイントは二つあると考えている。
 
 ①第1次世界大戦以降、どの国も「総力戦」になった
 ②つまり、日本の国民は戦地の兵士と一体になって戦った
 
 この授業では①と②を実感させるために「千人針」を中心教材にして教える。

 ワークシートを配布したら<戦時下の国民生活>と板書する。


<ワークシート・第1ページ>
★下の写真は戦争中の国内の生活のようすです。気づいたことを書きだしてみましょう。


千人針1
勤労動員

千人針2
学童疎開

千人針3
千人針を縫う

 児童からは以下のような点が出される。

「女の人が戦闘機を作っている」
「整備しているんじゃないかな」
「ゼロ戦だと思う」
「ランドセルやリュックを背負っているので、登校中だと思う」
「学童専用車と書いてあるので子ども用の電車」
「どこから安全なところへいくのだと思う」
「女の人が何か買ってる?」
「配給で配られているのでは?」

『では、2ページ目を見てみましょう』

 2ページを読むことで勤労動員と学童疎開の画像は意味がわかる。
 残る1枚は「千人針」のお話と関連することを告げてから読む。



<ワークシート第2ページ>

★戦時下の国民生活

 この時代になると、どの国も戦争は軍隊だけで戦うものではなくなっていました。「総力戦」とよばれ、国民の生活や教育、文化などすべてをかけておこなわれるようになっていました。
 戦争によってものが不足し、政府は消費節約や貯蓄増強を呼びかました。

 戦局が悪化すると、労働力が不足したため多くの生徒や学生が勤労動員されました。また、金属の不足のためにお寺の鐘や銅像のようなものも戦争のために供出されました。

 サイパン島がアメリカ軍の手に落ちると、ここを基地にして日本本土に大型爆撃機による空襲が始まりました。このために子どもたちは危険を避けるために親元をはなれて地方に疎開しました。これを学童疎開と言います。


★千人針

 千人針は、多くの女性が一枚の布に糸を縫い付けて結び目を作るもので、お守りのようなものです。これは「武運長久」と言って兵隊さんの戦場での幸運を祈って作られました。
 1メートルほどの長さの白布に、赤い糸で千人の女性に一人一針ずつぬって、結び目をつくってもらいます。特例として寅年生まれの女性は自分の年齢だけ結び目を作る事が出来ました。これは虎が「千里を行き、千里を帰る」との言い伝えにあやかって、兵隊さんが生きて帰ってくるのを祈るものです。
 できあがった千人針を、兵隊さんは銃弾よけのお守りとして腹に巻いたり、帽子に縫いつけたりして、大切に身に付け続けていました。
千人針4
千人針1

千人針5
千人針を見る



<ワークシート・第3ページ>

★千人針を作った当時の人の気持ちを考えてみよう

 戦争中の国民生活は苦しいものだったに違いありません。とくに戦争も末期になると自分たちが生きていくだけで精いっぱいの状態だったことが想像できます。

しかし、そんな中でも、当時の女の人たちは戦地で戦う兵隊さんのために千人針を作りました。いろいろ種類の千人針を見て、当時の人たちのどんな気持ちが込められているか考えてみましょう。

A 
千人針6


千人針7


千人針8


千人針9



児童からは以下のような予想が出された。

*Aについて
「虎は千里を・・・の言い伝えがあるので、それを絵の形にして生きて帰ってほしいと思った」
「虎は強い動物だから戦闘に勝てるように、虎のように強くなって欲しいと考えた」


*Bについて
「五円玉を付けているから、これからも御縁が続きますように、帰ってきて欲しいと言う気持ち」
「振り子のように右いってもまた左に戻れるから、それで国に戻ってこれるようにと考えた」
「お金を付けてお守りの力をプラスした」


*Cについて
「頭を守るために帽子の形にした」
「袋状になっていて家族の写真などを入れていたのではないか」
「生きていくためのお弁当を包むものにした」


*Dについて
「子供用の服の形にして家族のことを思い出してもらった」
「防弾チョッキみたいなものでこれを着て銃弾よけにした」


 Aについては虎の言い伝え,Cについては帽子型にしたこと、Dはチョッキにしたことが正解であることを伝え、どれも無事に帰ってきて欲しいと言う気持ちが込められていることを話す。
 
ただし、Bについては正解を保留して次ページを読む。



<ワークシート・第4ページ>

★千人針に込められた思い

◇ある兵隊さんのお話・その1

 千人針の形は腹巻、チョッキ、帽子等いろいろです。とにかく千人の女が一針ずつ縫いつづる、その真心が天に通じて神や仏のお守りが得られると信じられていました。
 私の母も二人の息子を戦地に送ったため、千人針を作ってくれたものですが、当時の私の村は家も少なくて千人の女性の手はなかなか得られず、そのために母は松江市に野菜などを売りに出かけるときには必ず千人針を持っていって、その売り先の家の人たちにお願いしてせっせと作ってくれたことを覚えています。


◇ある兵隊さんのお話・その2

 昭和14年1月10日に歩兵36連隊に入隊して、中国に上陸したのち昭和17年に帰国するまで、千人針の帽子とチョッキは肌につけ続けました。戦いで退却するときに、川を渡るとき恐怖を感じましたが、その恐怖を救ったのがこの千人針でした。


◇ある女の人の話
 チョッキにも腹巻にもみんなしました。それにちょうど心臓のあたりに五銭銅貨を、死線を超えるということで、十銭は苦戦を越えてといわれて付けたのです。主人は、どうも南方へ行くらしいよ、と言うもので、私はもう夢中でたくさんのポケットをつくりました。ミシンでザァーッと縫って、千人針ができたあとで、またポケットをあちこちに付けました。

Bについてはこの文章だけではわかりにくいので板書しながら説明を加えた。

 死線→四銭→4線  五銭→5銭  4より1つぶん多くなる=越えている→死線を越える

 苦戦→九銭→9銭  十銭→10銭 9より1つぶん多くなる=越えている→苦戦を越える



児童の感想を紹介する。

*自分が生きていくのも大変だった時代に女性が千人針を一生懸命作ったのは、絶対に帰ってきて欲しいという強い願いを兵隊さんに伝たかったのだと思う。兵隊さんもお守りとして家族といっしょにいるような心強いものだったんだと思います。

*女の人は、兵隊さんが生きて帰ってくることを誰よりも祈っていたと思った。

*千人針にはいろいろな気持ちや願いが込められていて感動した。これほど、願いや気持ちが込められていたのなら兵隊さんも安心できていたと思う。

*戦争中でも千人針を作って兵隊さんにもたせるということはその兵隊さんたちを大切にしているのだと思う。

*瀬人針は人の命を守るために作られたのであり、とてもいいと思う。ただ、作るのではなくもらった人の気持ちや早く帰ってきてという意味が込められていてすごくいいと思う。漢字にも意味があり、これならずっと頑張っていられる。

*人々の願いはすごいものでした。他にもいろいろな工夫がされていると思います。人々の思いは苦しい生活よりも強いです。

*今の日本にはない優しさがあると思った。当時の日本人は戦争に行く人全員を待っていたんだということが伝わってきた。

日米開戦

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■安達弘先生の「小学校歴史人物学習 <なってみる日本史>」の紹介を続けます。
これは安達先生のブログ「授業づくりJAPAN YOKOHAMAプライマリー」から転載しています。

安達先生の授業は文科省推薦のアクティブ・ラーニングの歴史授業版です。
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日米開戦

 今回が「戦争の原因」を探る授業の3回目・最終回となる。
 いつものように「日本の宿命」と「課題」を掲示しておく。
 前回と前々回の「戦争の原因」の2つのキーワードである「満州国」と「日中戦争」の2つを確認する。これによって日本とアメリカ・イギリスは対立するようになった、というポイントである。



<ワークシート・第1ページ>

下の写真は昭和初期の東京・銀座と大阪・阪急デパート前の写真です。
 私たちが今の世の中で目にする風景と同じところを見つけてみましょう。


日米開戦1
昭和初期の銀座

日米開戦2
昭和初期の大阪

 児童からは以下のようなものが出される。

「電線がある」
「同じだけど電信柱がある」
「車が走っている」
「バスがある」
「大きなビルが建っている」
「工事現場がある」
「クレーン車みたいなものがある」

おおよそ電気関係、乗り物関係、建設関係が出てくる。

そこで、次のように簡単に尋ねる。
『車を作るにはどんな原料が必要ですか?』
「鉄」「タイヤはゴムでできている」
『では、車を動かすにはどんなエネルギーが必要ですか?』
「ガソリン」「石油」

同じように
『電気を作るにはどんなエネルギーが必要ですか?』
『建築現場を見てください。ビルの骨組みは何でできていますか?』
等を聞く。

 ここで鉄・ゴム、そして何よりも石油が重要なものであることがわかる(この実践の導入は東京の佐藤民男氏の追試である)。




<ワークシート・第2ページ>

★昭和初期にも必要だった石油エネルギー

 現代の私たちの生活にとって石油はなくてはならないエネルギーです。
 自動車や船を走らせ、飛行機を飛ばし、火力発電によって電気を作り、工場の機械を動かしているのは石油です。石油がなくなれば交通も産業も家庭生活もストップしてしまいます。この状況は100年前の昭和初期もまったく同じでした。
 さて、現代の日本は、石油の80%以上をサウジアラビア・アラブ首長国連邦・カタールなどの中東の国から輸入しています。しかし、昭和初期にはまだ中東で石油は発見されていませんでしたので、その80%をアメリカから輸入していました。


★ブロック経済に苦しめられる日本

 1930年ごろから世界は自分の国の産業を守るために高い関税をかけて他国の商品を閉め出す「ブロック経済」を取るようになっていました。これは原料となる資源が自分の国の中で取れて、国の中で売れる国はいいのですが、資源のない日本にとっては貿易で外国に商品が売れなくなるのでたいへん苦しいものでした。日本はたった1年間で貿易量が半分近くに減ってしまったと言われています。


★日本への経済圧迫
┌─────┬──┬─────────────────────────────┐
│ 1939年 │7月 │*アメリカは日本との通商航海条約をやめることを通告         
├─────┼──┼─────────────────────────────┤
│ 1940年 │5月 │*イギリスは日本向けゴムの輸出を全面禁止               
│        │6月 │*アメリカはインドシナ半島産ゴムを大量に注文して日本のゴ     
│        │   │  ムの注文を妨害                                
│        │    │*オランダはインドネシア産の石油を日本に売ることを断って     
│        │    │  きた                                       
│        │    │*アメリカは日本へのくず鉄(鉄の原料)と石油の輸出を制限    
│        │7月 │*アメリカは飛行機用ガソリンの日本方面の輸出を禁止        
│        │   │*アメリカはくず鉄の日本への輸出を全面禁止             
│        │9月 │*アメリカは鉄鉱石・鉄鋼・銅・スズ・ニッケルなどの日本へ     
│        │    │  の輸出を禁止                               
│        │12月│ *イギリスはタイ産の米を大量に注文して日本の米の注文を妨   
│        │    │  害                                       
└─────┴──┴─────────────────────────────┘
┌─────┬──┬─────────────────────────────┐
│ 1941年  │7月│◇日本はインドシナ半島の南で取れる石油をフランスから買う     
│        │    │ 約束をした。そこで、他の国がこれを妨害しないように軍隊     
│        │    │ を派遣した(南部仏印進駐)。                        
└─────┴──┴─────────────────────────────┘
┌─────┬──┬─────────────────────────────┐
│ 1941年  │7月│*南部仏印進駐に反対するアメリカはアメリカ国内にある日本     
│        │    │ の資産を凍結した(アメリカにある日本の政府や会社のお金        
│        │    │ を使うことを禁止すること。いろいろな国との仕事や貿易な      
│        │    │ どができなくなります)                            
│        │    │*同時にイギリス・オランダも資産を凍結した(アメリカ・イ        
│        │    │ ギリス・オランダは東南アジアには自分たちの植民地がある     
│        │    │ ので、日本の軍隊がここへ出てくると自分たちの植民地が危       
│        │    │ なくなる・・・と考えた)                             
│        │    │*アメリカは日本への石油輸出を全面禁止した              
└─────┴──┴─────────────────────────────┘




<ワークシート・第3ページ>

★当時の総理大臣になって考えてみよう

 アメリカ・イギリス・オランダの資産凍結により、日本は世界のほとんどの国と貿易ができなくなってしまいました。残っているのは満州・中国・インドシナ半島のフランス植民地・タイだけです。
 石油のたくわえは1~2年ぐらいしかもちません。当時の日本の人口は約7000万人ですが、もしこのままの状態が続けば日本人の1000万人が仕事を失います。失業者の家族をふくめれば日本人の約半分が生きていくことができなくなってしまうのです。  また、石油がなければ戦車や軍艦、戦闘機も動かなくなって軍隊は使えなくなります。こんな時に外国に攻め込まれたら・・・。
 ここまで、日本はアメリカとくりかえし話し合いを続けてきましたが、状況を変えることはできませんでした。

当時の政府の中には次の3つの考え方がありました。あなたが当時の総理大臣ならどの意見に賛成しますか?

◇第1案:アメリカとの話し合いを続ける

 とにかく話し合いを続けるべきだ。もし、話し合いが決裂してもアメリカ・イギリスとの戦争は絶対に避けなければならない。日本の国力を考えると戦争をして勝てる相手ではない。とにかく日本の国力が落ちても、戦争をするよりはましだ。くやしいがいまの状態をただひたすらがまんしよう。国民の中にも死者が出るかもしれないが耐えてもらうように頼むしかない。


◇第2案:すぐにアメリカと戦争する準備をする

 話し合いを続けてもアメリカが自分の考えを変える保障はない。そんなことをしているうちに石油はなくなってしまう。こんなときにソ連が満州に攻め込んできたら戦うことはできない。そして、アメリカも万が一に備えて戦争の準備を進めている。時間がたてばたつほど日本はどんどん不利になり危険が増えていく。今、決断すれば強いアメリカに勝てるかもしれない。このまま死を待つのはごめんだ。


◇第3案:話し合いを続けながら、万が一に備えて戦争の準備をする
 
 戦争をすぐに決めた方が勝てる可能性があることは認めるが、まだ望みを捨てずに話し合いを続けるべきだ。たしかに少々の不便はあるが話し合いを続けながら、万が一に備えて戦争の準備も並行して進めることにしよう。もしかしたら、日本が戦争の準備をしていることを知ったらアメリカも話し合いでの意見が変わってくるかもしれない。ただし、期限を決めてその時点で話し合いが決裂したら戦争を覚悟するしかない。


◆一つ選んであなたの考えを書きましょう。後で話し合ってみましょう。

 
 児童の意見分布を見てみよう。矢印の前が討論前、後が討論後の数である。

 1組・・・第1案 1人→0人    第2案 4人→6人    第3案 21人→19人
 2組・・・第1案 5人→4人    第2案 2人→2人    第3案 22人→23人


<第1案に賛成>

「死者が出てしまうのもいやだけど、すぐに戦争をしても勝ち目はない。戦争の準備をしているのをアメリカが知ったら逆に攻め込まれてしまうかもしれない」  

「アメリカ・イギリスは強いから、やっても勝てないと思うし、勝っても日露戦争の時のように日本の限界が来てしまう。資源がない日本は話し合いを続けるしかない」


<第2案に賛成>

「時が経つに連れて石油はどんどんなくなり、日本も弱くなっていざ戦争ろいうときに勢力が弱くて負けてしまうかもしれないから、まだ石油があるうちに戦っておいた方がよい。話し合いをしている間にたくさんの人が死ぬのはいやだから」

「話し合いを続けていてその間に日本人が苦しむと内乱などが起こるかもしれない。石油がある1~2年の間で戦争をして、それ以上続いたら負けを認める。それしか方法はない。もし、アメリカを倒したら他の国も認めてくれるかもしれない」


<第3案に賛成>

「第1案と第2案は危険すぎる。第2案ではアメリカには勝てないので、準備中のそのちょっとの油断をつかれて植民地にされてしまう。第1案は無理矢理話し合いを続けていると、そのうちに犠牲者が増えてしまう。準備さえしておけば倒せる可能性も広がる」

「もしかしたら、話し合いが成功するかもしれないのに、今石油を使えば国民はもっと苦しくなってしまう。1案はやられっぱなしなので悔しい」

「東郷平八郎じゃないんだからアメリカが戦争してくるか、貿易してくれるか、そんなのわかるわけがないんだから、話し合いを続けながら万が一に備えて戦争の準備をするしかない」

「1案で死者を出してしまったら、話し合いに失敗して戦争になったときと同じになる。2案だと無闇に突っ込んでいってしまったらあかえって多くの死者を出してしまい、大戦争になる可能性がある。望みを捨てない3案がいい」

「すぐにあきらめるのではなく、まずはもう一度話し合ってみる。しかし、話し合いがうまくいかず、もしかしたら攻撃をしてくるかもしれない。そのときのために戦争の準備をしておく。両立させておけば、とりあえず間違いはない。安心できる」



<ワークシート・第4ページ>

★アメリカとの戦争を決めた日本

 政府は会議でこれからの方針を第3案に決めました。

 この苦しい状況をなんとかするためにアメリカとくりかえし話し合いを行いました。しかし、残念ながら進展はありませんでした。
 1941年11月、アメリカは「ハルノート」という次のような提案を日本につきつけました。
┌──────────────────────────────────────┐
│ ①日本は中国とインドシナから軍隊と警察を引き上げるべし。                   │
│ ②日本は中国のいくつかある政府のうちアメリカが支援している政府のみ認めよ。      │
└──────────────────────────────────────┘

 日本がこの2つを認めれば石油の輸出を再開するというのです。
 しかし、この2つを認めると言うことは次のことを意味します。
┌──────────────────────────────────────┐
│ *日本は中国にある権利と満州の権利をすべて捨てなければならない。            │
│ *これからは石油を売ってほしければアメリカの言うとおりしなければならない。       │
└──────────────────────────────────────┘

 これは、ようやく世界の大国と肩を並べられるようになった日本に対して「すべてを捨てて日本列島に引っ込み、70年前の明治維新のころの日本に戻れ」と言っているのと同じです。独立国・日本として、これまで先輩たちが苦労して築き上げてきたものをすべてあきらめることなどとてもできません。
 中国と満州にいる日本人の生活はどうなるのでしょう? 
 しかも、本当に欲しい分だけアメリカは石油を売ってくれるのでしょか?
 この提案を承認したら、苦しんでいる国民をさらに苦しませることになってしまいます。

 「ハルノート」を読んだ当時の東郷外務大臣は
「目の前が真っ暗になるほど失望した。長年の日本の苦労や犠牲をすべて無視して、東アジアの大国になった日本に対して持っているものをすべて捨てろ、と言うのだ。これは日本に自殺しろと言っているのと同じだ」
と言っています。

 日本政府はこの提案を「最後通告」と受け止め、アメリカとの戦争を覚悟するしかありませんでした。

 
児童の感想を見てみる。

*自分で総理大臣の立場になってみたら、かなりのプレッシャーを感じた。このことを決めるのはとてもよく考えなければならないと思った。

*今日の学習で、日本は他の国から貿易できないようにされて、これ以上発展するな、と言われているように感じました。はじめは日本が進歩したから戦争をしたのかと思ったけど、日本は仕方なく戦争になったんだなと思いました。

*アメリカはひどすぎると思います。戦争を覚悟するのも無理はないと思います。アメリカなどの大国と戦争すれば負けるのは目に見えているのに・・・。どちらを選んでも日本が負けるなんて不公平すぎます。最低!

*第3案に意見を決めて苦しい状況を進展させようとしたときに、アメリカから日本にとって厳しい通告をされて戦争になってしまったのは、当時の日本にとってしかたがないことなのかなと思いました。石油1~2年分で戦争ができるのか、心配になりました。

*アメリカはいつもずるい!ずるすぎますよ。自分たちが強いからって何を考えているんでしょうか!負ける日本!がんばれ日本!です。いつか日本がアメリカと全く同じに肩を並べられるようになることを願っています。

*日本はアメリカと戦争をするしかなくなったけど、日本はアメリカの考えにはまってしまってついに戦争をするしかなくなってしまった。

*アメリカは、今と違ってけっこう意地悪ですね。それでも、昔から積み重ねてきた日本の苦労をけっして無駄にしないぞ!という日本の意思がすごいと思いました。

*日本だけなぜこんないじめを受けるのでしょうか?大国と肩を並べるということはたいへんなことでもあるんですね。

*アメリカとイギリスはとてもひどいと思いました。(いじめ!)せっかく、今の日本を築き上げてきたのに、それが、すべて水の泡になるのは最悪だと思いました。それほど、世界は厳しいんだなとわかりました。

*アメリカのルーズベルトさんも、アメリカの人たちも「武士道」を読んで「日本はすごい」とか言っていたくせに、日本に対してこの態度はなんだ!ペリーの時代から日本と仲良くしていたくせに!浮気か!たるんどる!

*負けてしまうのはわかっていたけれど、戦争になって仕方がないと思う。もし、アメリカの言うことを聞いていたら日本はアメリカの植民地になり、もっとたいへんなことが起こったに違いないと思います。

*日本はこのときになんでこんないじめられてたんだろう?でも、ここまで日本はがんばってきてくれたから本当に感謝しなければいけない。日本って今でもギリギリの国?

*今日の学習では、日本の苦しみと覚悟を知ることができて、とてもうれしいのと悲しいのが混ざってあまりよくわからなかったです。でも、今日の学習は将来絶対に役立つと思います。
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